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星の林に漕ぎ出でて—私の天文民俗学 第10回

ベルト、唐鋤、あるいは三人の男たち

中野真備


 世界的な天体写真家の藤井旭は、南半球のニュージーランドを訪れたときのことを次のように綴っている。


星のマニアも、病いがこうじてくると、星空を見あげただけで、星座の形だの、絵姿だの、星の名前だのが、まるでプラネタリウムの丸天井の星空のように、実際の星空に浮かびあがってきて、いくらそう思いこむまいとしても、初めて星空を見あげたころのような、わけのわからない美しさに感動する、ということができなくなってしまっているのである。もちろん、星座の形や名前に詳しくなることで、星空への興味がいっそう増してくることもたしかではあるが、私としては、星座の形も何も知らずに、素朴な感動で星空を見あげたあのころの感動を、もう一度ぜひ味わってみたかったものだから、南天の星座の形だけはできるだけ覚えないようにして、これまで大事にとっておいた、というわけなのである。

藤井旭「初めての星々」『星の旅』[河出文庫 2023(1986)]


 「私の天文民俗学」などと銘打っておきながら恥ずかしい話だが、私は決して天体少女ではなかった。幼少期はさることながら、大学生になっても「その日もオリオン座しかわからなかった」(第1回)と言っている始末である。キュッと肩を縮こまらせたい気持ちになる。


 星をみるのはきらいではなかった。

 山小屋の真っ暗な夜。父の「おーい、ちょっと見てみろ」と呼ぶ声でデッキに飛び出して天体望遠鏡を覗きこんだときの、信じられないほど近くに見えた、異世界のような空。

 小学校の夏休み。隣の隣の家の幼なじみと毎日夕飯後に待ち合わせて、星座早見盤と見比べながらスケッチをした大三角形。

 それでも私は、星座の形や名前を覚えたり、星空観察にのめりこんだりすることはなかった。


 こんな研究をしているというと、かつて天体少年・少女だった大人たちが目を輝かせてくれることがあるが、こちらは邪(よこしま)な動機でなんとか星座を覚えているくらいのものだ。そんな目で見ないでほしい。私の肩がとうとうくっつきそうなほど縮こまってしまう。


 「星空を見あげただけで、星座の形だの、絵姿だの、星の名前だのが、まるでプラネタリウムの丸天井の星空のように、実際の星空に浮かびあがって」くるなんて羨ましい限りだ。けれどそれが、何も知らずに見あげていたときの感動を手放してしまうのだとすれば皮肉なことだとも思う。それをもう一度味わうために、南天の空をあえて知識の余白として残す藤井の「マニア」ぶりに嘆息する。

 

 人間は学習してしまう生き物だ。

 一度そうと認識すると、もはやそうとしか思えなくなる。

 たとえば、平原綾香の「Jupiter」を聴いたせいで、G. ホルストの「木星」(組曲「惑星」)を聴いても頭に「エーブリデイ」が流れ出すとか。私である。

 たとえば、四方の星に挟まれて明るい星が3つ並んでいたら、腕を振りあげたオリオンの身体とベルトにしか見えなくなるとか。私である。

 「プラネタリウムの丸天井」とまではとてもいかないが、いつから私はあの星々を当然のごとくひと揃えにして、見たこともない狩人を宙に描いていたのだろう?


 

 ふと、夜の桟橋で漁師のオチェがいつか言っていたことを思い出した。


 「まわりの星は、タンダ・テッルを見守ってるのさ」


 インドネシア東部の離島、サマ(バジャウ)人の海上集落のひとつであるタミレ村に住みはじめてしばらくした頃、オチェに星座のことを聞いた。

 「三つの星はな、タンダ・テッル(サマ語で「三つの印」の意)といって、三人の男たちなんだ」

 オリオン座のベルトにあたる三つ星、ミンタカ、アルニラム、アルニタクのことか、とすぐに思い至った。後日、元校長のダマル先生のところに行くと、「やぁ、その話を聞いたのか」というようなしたり顔で、「タンダ・テッルとその周りの星にはこんな話があるんだ……」と、サマ人の間に伝わる星の伝説を語りはじめた。 

 七人姉妹のプレアデス星団、タンダ・テッル、七人姉妹を追いかけまわすアルデバランと、星々の物語はオリオン座のまわりの目立つ天体を中心に繰り広げられる。


 ところが、いつになってもオリオン座を構成する他の星は出てこない。

 左足のリゲルはオリオン座で最も明るい恒星のはずで、右肩のベテルギウスも1等星だ。ベラトリクスは三つ星と同じく2等星だが、オリオン座のなかでは3番目に明るい。ただ3つ並んでいるだけの三つ星より、明るさではずっと目立つはずなのに、彼らの物語では三つ星だけがタンダ・テッルという星座になっているようだった。


タンダ・テッルとまわりの星々 (Google Earthをもとに筆者作成)

 不思議に思い、空を指差しながら「周りの星は何ていうの? ほら、タンダ・テッルの上に2つ、下に2つあるでしょう」と聞いたところ、先のようにオチェが返したのだった。

 あんなに目立つ星なのに、物語にも登場しない、無名の星でしかないとは意外だった。

 けれど、何が目立つとか、ひと揃えとか、そんなことは私の頭のなかで勝手に描いていたことに過ぎなかったのだろう。オチェはオリオン座も、ギリシャ神話も知らない。彼らには彼らなりの「ひと揃え」があるのだ。



 知識の余白を残した藤井が求めたものは、「初めて星空を見あげたころのような、わけのわからない美しさ」への感動だった。

 「わけのわからない美しさ」とは、実際にはとても複雑で、なぜ星が輝くのか、なぜ色が違うのか、あの靄(もや)はなんなのかとか、未知の天体に対する好奇心もあるのだろう。

 けれどおそらく、一部分には、点や線で結ばれた「正しい」見方も法則性もなく、全天を覆い尽くすかのごとく無秩序に散りばめられた星々のもとに立ち尽くすしかないような、畏怖にも似た感動があったのではないだろうか。

  

 ベテルギウス、リゲル、ベラトリクス、それからミンタカ、アルニラム、アルニタク。言ってみれば、ただの光である。これらを、あるいはその一部を、ギリシア神話では狩人の身体だのベルトだのといったり、日本では唐鋤やみたらし団子に見立てたり、オチェは三人の男だと言ったりして、狩人の身体などまったく関係がない。


 悲しい哉、私はもうベルトを知ってしまった。棍棒を振りあげた筋骨隆々の男にしか見えなくなってしまったのだ。だが、その程度でよかったともいえる(もちろん、プラネタリウムを貼り付けたような目を持ってみたいのも正直なところだ)。

 星座の形や名前に詳しいと言い切れない自分を正当化するわけではないのだが、オチェやダマル先生が描く星々を新鮮に受け止めたり、個人の想像力を発揮する余白を残していたりすることも、それはそれで楽しいものだ。


 「わけのわからない美しさ」とは、あるいは天文民俗とは、言い換えれば人々の天体への想像力のことなのかもしれない。


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