中野真備
その日もオリオン座しかわからなかった。
國學院大學に入学して半年ほど経ったころ、私は3月に控えた研究発表のテーマをさがしていた。所属していた民俗学研究会の恒例行事、研究発表大会があるのだ。
定例研究会の帰り道、すっかり日も落ちた薄暗いキャンパスを歩きながら、同級生が「そういえば」と口をひらいた。
「何のテーマにするか決まった?」
「うーん、動物と儀礼とか、年中行事とか、お供え物とか……、とにかく動物と何かっていうのだけ
は決まっているよ」
後にこれは大嘘となる。
そうか、もうそんな時期だった。
同級生と別れ、渋谷駅から2時間ほど電車に揺られているあいだ、私はどうしたものかと思案していた。「動物と何か」と言ったのは、別に出まかせというわけではなかった。
高校生のころ、私は志望校を農学・畜産系から文学部、特に民俗学や人類学を学べる大学へと変えた。いわゆる「文転」というものだ。その大きな理由は、自分の興味が自然や動物そのものの自然科学的な理解にあるのではなく、人びとの社会や文化のなかのそれらにある、と気づいたからだった。
そんな経緯もあって先のような返答を口走ったのだが、実際のところはあまりピンときていなかった。
結局、何も考えつかないまま最寄り駅に到着した。改札を出ると、あたりはもうすっかり夜になっていた。小さな駅舎の照明とわずかな街灯、静かなロータリー。ふと見上げると空には星々が輝いていた。
あのひときわ明るい星はなんだったか。小学校の頃に夏休みの宿題でスケッチをしたはずだが、忘れてしまった。テストに出るから名前だけは覚えたのだが。夏の大三角形、デネブ、ベガ、アルタイル。どれがどの星だったのか。あの白いのだった気もするし、あっちの星も目立つ気がする。目が慣れてくると目立たない小さな星も浮かびあがってきて、こんな駅前の空でも意外にもたくさんの星が見えることに気づいた。
唯一はっきり分かったのは、オリオン座だった。直線状に並ぶ3つの星、あれが狩人オリオンのベルト。その上部と下部でなんとなく目立つ星を線で結ぶと、それぞれ台形のようになる。これがオリオンの体。棍棒のようなものを振りあげる勇ましいオリオンの姿を星々でつなぎながら、幼少期に読んだギリシア神話を思い出していた。
オリオン座(国立天文台:https://www.nao.ac.jp/gallery/conste.html)
それにしても、世の中のどれくらいの人がこの星空をみて星座を見分けられるのだろう。私は今日もオリオン座しかわからなかったというのに。おおぐま座だとかこぐま座だとか、さらにはいっかくじゅう座だとか、聞き慣れない、見慣れない星座など見つけられる気がしない。
昔のひとは、もっとたくさんの、あるいはもっと別の星(座)の名前を知っていたのだろうか? 和歌にはあれだけ月が詠まれているのだ。この目の前に広がる星々を、何十年前も、何百年前も、私と同じように誰かがこうして眺めてきたはずだ。その目に、あの星はどう映っていたのだろう。
気になることは溢れるように出てきた。オリオン座だけがわかっても、それは遠い異国の、古代の神話でしかなかった。私が身近に感じていた星といえば、犬の散歩帰りに父がいつも教えてくれた明けの明星と宵の明星、織姫と彦星、天の川、それから流れ星が落ちるまでに3回願い事を唱えると叶うとか、それくらいだ。
小学生の頃、友だちと流れ星を見つけては大興奮し、願い事はいつも間に合わなかった。高校生のとき夜更けに家を抜け出して観た獅子座流星群は、それはもう願い事を唱え放題のハッピーアワーだったのだが、結局叶うことはなかった。それでも流れ星を見つけたときに「あっ」と心が跳ねるのは変わらなかった。
流れ星の正体が何百光年も離れた宇宙空間で燃えつきていく塵だと知ったのはもっと後のことだった。いったい、私たちはいつからあの塵に願いを託すようになったのだろう?
星についての民俗学の文献は、数こそ限られているものの濃密な著作が実はいくつもある。たとえば内田武志の『星の方言と民俗』(岩崎美術社、1973年)、野尻抱影の『日本星名辞典』(東京堂出版、1973年)、そして北尾浩一の『天文民俗学序説-星・人・暮らし-』(学術出版会、2006年)など。数冊を小脇に抱え、それを頼りに図書館の書架にもぐる日々がはじまった。
意外にも、いや後から考えればまったく意外ではないのだが、流星やそれに類するものは歴史資料に豊富に登場する。流星に類するもの、というのは、時代によって混在する箒星や飛星、天狗星、光りもの、人魂などを含んでいる。
興味深いことに、流星やそれに類するものはいずれも天変地異、特に凶兆として史料に記録されていた。こんな奇怪な星がどこどこの方角に落ちた、これはきっと恐ろしいことが起こるに違いない。混乱の最中で、大きさや色、音、数、方角を観察し、日付や時刻、その後に起こった異変などを書き留めた記録は、百例どころではなかった。
ここではひとつ紹介してみよう。19世紀前半に編纂された江戸幕府の史書『御実紀』、通称『徳川実紀』のある日の記録である。
(慶長十一年)五月十三日、この日伏見城辺怪異さまざまあり。古き祠より桃燈のごとき光物いで〻(本文ママ)飛行し、豊後橋の辺に落る。また加藤肥後守清正の邸中よりも、行燈のごとき光物飛いで、洛中にても光物飛行す。その音車の如し。都人呼て破車といふ。先年も二度かかる怪物あり。いづれも凶兆といへり。
(『新訂増補 国史大系 第38巻 徳川実紀 第1篇』吉川弘文館)
祠から提灯のような「光物」が飛び出して落ちたかと思えば、加藤清正の屋敷からは行燈のような「光物」が飛び出し大きな音を立てて市中を飛行する。もはや私の知っている流れ星とは似ても似つかないが、なるほど、これは確かに恐ろしい。
18歳の自分が恋愛成就を託した流れ星こと宇宙の塵(に類するもの)が、『扶桑略記』や『徳川実紀』など日本史で習ったような史料で「怪異」、「凶兆といへり」などと記され、他方かの清少納言は『枕草子』で「よばひ星(夜這い星)」と呼んでいる。あまりの結びつかなさに、ますます興味がわいてきた。
いったいどうしてこんなに真逆の話になったのか。
決して私の願い事が叶わなかったことの腹いせとかそういうことではないのだが、とにかく流れ星の伝承をかき集めなければ気が済まなくなった。書架の海からは中々もどってこられなくなったが、ほとんど最終電車でたどり着く最寄り駅では、毎日少しずつ移動していく星を眺める楽しみができた。
流れ星だ、流れ星のことを調べよう。
こうして、私は「動物と何かっていうのだけは決まっている」などという適当な返事を完全に棚に上げ、流れ星の伝承研究をはじめることになったのだった。
話は飛ぶが、民俗学とは自己省察の学とか、内省の学であるといわれることがある。オリオン座しかわからない私が流れ星を見つけて心おどらせたことは、小さな日常だが確かに何処からか伝承されてきた結果のひとつである。
それでは、流れ星からはじめてもいいだろうか。詰まるところ、これは私が私の内部から出発する天文民俗学の話なのだ。
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