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幸せのありかを探して 第8回

「国語嫌い」から「日本語教師」へ


川口真子


 「国語嫌いのあなたが、日本語教師になるなんて。」

 私が日本語教師になった当初、家族や友人、中高時代の先生たちから言われたことだ。

 私は、自他ともに認める「国語嫌い」。

 学生時代、勉強の成績は悪くなかったが、国語に関しては非常に悪く、半分とれるかとれないかという試験もよくあった。特に、現代国語は大嫌いで、大学受験に出てくるような評論文などは読んでいる間に意識が飛んでしまいそうになるほど苦手だった。

 そんな私がどうして日本語教師の道に進んだのか。

 私を知るだれもが疑問に思うことだと思う。

 私自身も、よく「日本語教師」を将来の選択肢に入れたと思う。

 しかし、答えは簡単だった。

 それは、日本語を外国語として見る視点を得たからだ。

 私はずっと国語=日本語だと思っていたが、日本語教育に出会って、それら2つが全く別物であることに気がついた。

 たとえば、私たちは国語教育の中で、「書きます→書いて」「買います→買って」など、いわゆる「て形」の作り方は習わない。私たちは母語話者なので、ルールなど学ばなくても当たり前に正しい「て形」は作れる。

 しかし、外国人に「て形」の作り方を教える場合、どうするか。1つ1つ覚えてください、とは言えないだろう。

 「日本語」教育はいわゆる外国語教育と同じものだ。だから、教える側も日ごろ何気なく使っている言葉の使い方やルールから学ぶし、文法を教えるときも母語話者には聞きなれない「て形」や「辞書形」といった文法用語や規則を学びながら日本語教師になるための準備をする。

 これらは、一旦学び始めたらきりがなくなってしまうが、私にとっては、そのプロセスが面白いのだと思う。

 日本語教師になって、本を読むのが好きになったし、毛嫌いしていた評論文も読みたい欲が沸いてくるようになった。日本語学習者が教室で学ぶ言葉が本の中ではどのように使われているか、評論文の小難しい文には、どのような文法が使われていて、学習者が分かるような簡単な文にするにはどうしたらいいか、など読み方が変わったからかもしれない。

 思えば、イギリスでの研修が終わり、大学での授業に戻ってから、ニュースや会話で使われる日本語や、ふとした人の仕草に興味を持つようになった。

 日本の文化、もっと言えば、私たちの生活の中に当たり前に存在する習慣までにも興味があふれ、ワクワクした気持ちが止まらない世界が広がった。

 例えば、食事の際に「いただきます」「ごちそうさま」という習慣はどのように始まったのだろう、とか、どうして日本はクリスマスや初詣など様々な宗教的な行事が行われているのだろう、とか、それまで疑問に思いつつも、はっきりとした答えが出せていなかったこと1つ1つを真剣に考えることが楽しくて仕方がない。

 この「ワクワク」からの「考察」は、今でも習慣になっていて、ときどき学生と一緒に議論することもある。今の時代、インターネットですぐに答えが調べられることでも、日本の特性や日本人の国民性などを知りながら、自分たちの答えを導き出して行くプロセスは、日本で生まれ育った私にも学びになることが多い。

(ことわざの意味だけでなく、どうして急いでいるときに回らなければならないのか、

自分たちの答えを導き出す時間は、学生も楽しんでいる)


 日本語教師として、「学び」から逃げることはできないが、今はこの「学び」が私の生活をより豊かで刺激的なものにしてくれている。

 同時に、日々の学生とのやり取りの中で生まれる疑問も今の私の栄養剤となっている。

 どうして「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」は同じ発音なのか、どうして「ぼうし」は、「ぼ・う・し」ではなく、「ぼーし」と発音するのか、どうして日常会話で「あなた」を使わないのかなど、母語話者の私は素通りしてしまうような疑問を毎日のように投げかけてくれる。



 昨今、「正しい日本語」や「美しい日本語」が注目を浴びているが、ふと立ち止まって、日常生活の中に隠れる小さな不思議に向き合ってみるのもいいかもしれない。


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