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幸せのありかを探して 第12回

「当たり前」の違い


川口真子


 今回は、日本に一時帰国中の私がしばしば考えさせられた「アイデンティティ」について記し、共有したいと思う。


 近年、世界では「グローバリゼーション」や「異文化共生」、「ダイバーシティ」といった言葉が叫ばれ、社会も変わりつつある。そのような状況の中、併せて注目されているのが「アイデンティティ」だ。

 広辞苑によると、「アイデンティティ」とは「人格における存在証明または同一性」、国立国語研究所によれば、「他者とは違う独自の性質。また自分を他者とは違うものと考える明確な意識」とある。つまり、「『私は他の人と違う』という意識」を表す言葉として考えられている。


 子どものころは、あまり意識することのなかった「アイデンティティ」であるが、自分の属する世界の外、例えば、幼稚園から高校まで一貫校で過ごしていた私にとっては、大学に進学した際、また日本を飛び出して海外に出た際などに、この「アイデンティティ」を強く意識し始めるようになった。

 とはいえ、私の場合、大学では周りのほとんどの人が自分の属する世界から飛び出してきていたので、「私は他の人と違う」という意識は一瞬で消失した。

 一方で、イギリスやオーストラリアで生活した際には、「アイデンティティ」を感じやすかった。そもそも国という大きな属性が違うので当たり前かもしれないが、その時初めて「私は他の人と違う」ということを明確に感じたように思う。

 実際に「アイデンティティ」を感じた場面をあげてみると、当時私はホームステイをしていて、そこには中東やアジアの他の国から来た学生も一緒にホームステイしていた。ホストマザーはいつも一人で家事や私たちの世話をしてくれ、休日には外に連れ出したりしてくれていたが、私は時間があるときはホストマザーの手伝いをしようと、なるべくホストマザーと一緒にいるようにしていた。当時は英語があまり話せなかったが、側にいて、手伝えそうなことがあれば手伝っていた。すると、ある日、ホストマザーに「やっぱりあなたは日本人ね。」と言われたのだ。最初、その言葉の意味が理解できなかったのだが、後で聞いてみると、彼女の家にホームステイする学生で、彼女を手伝いに声をかけてくる学生はいつも日本人だったそうだ。日本から来た学生は、「手伝う? 何かできることがある?」と聞いてくるそうだ。彼女は続けて、「国によって全然違うのよ。何も言わずに手伝ってくる子もいるし、家事は全くしない子もいるし。みんなそれぞれで、おもしろいわ。」と言った。彼女は決して、だれがいい、だれが悪いと言っているわけではなく、学生それぞれの属していた国や家庭の背景が見られるのが楽しいと話していた。その言葉は、私に「アイデンティティ」を意識させる強いきっかけになったと同時に、「私の『当たり前』は他の人には『当たり前』ではない」ということも教えてくれた。


 もう少し分かりやすい例を挙げてみよう。日本では、米の一粒まで残さず食べるように、子どものころからしつけられる。しかし、食事を全て食べきってしまうのは失礼なこととされるところもある。

 また、勧められたものを直接受け取るのが良し、とされることもあれば、遠慮して受け取らない、あるいは何度か断ることが良しとされることもある。


 改めて考えてみると、友人の家に遊びに行ったときでさえ、自分の家との違いは少なからずあるもので、育ってきた背景や、属しているグループから形成される「アイデンティティ」が異なれば、どこかで必ず「『当たり前』の違い」は起こるのだ。


 一般的に、この「アイデンティティ」は保持していることが良いとされているが、その状態で思わぬトラブルを生むこともある。

 私は現在日本に一時帰国中であるが、そのトラブルは日常的に生まれていることに気がついた。

 「アイデンティティ」を持つことは大切であり、持つべきものだ。しかし、「アイデンティティ」の中にも、「統合型」(「異」を受け入れる状態)と「分離型」(「異」を受け入れない状態)がある。


 今回の一時帰国は、従来に比べ、少々息苦しさを感じている。それは、今の社会は「分離型」の「アイデンティティ」が強すぎるからではないだろうか。「統合型」に変わることを強調したいのではなく、一人一人が「『当たり前』の違い」を認識し、歩み寄ることで、その違いのギャップを埋めていくことができれば、心地よい空間が生み出せるように思う。



 私はよく友人から、10年近く海外生活していることを驚かれるのだが、生活する上でのストレスは全くといえるほどない。それは、私の「アイデンティティ」がブータン王国で出会う人たちの「アイデンティティ」と違うからと言って、否定されるわけでもなく、「『当たり前』が違うことで生まれるトラブル」は、周りの人たちとのコミュニケーションによって解決されるからだ。

 日本に戻ると、そのコミュニケーションを取る時間すら確保できないほどせわしく感じることもあるが、このコミュニケーションは私たち自身の人生にとっても、「グローバリゼーション」や「異文化共生」、「ダイバーシティー」を目指す今後の世界にとっても、不可欠となるだろう。

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背景画像:「精霊の巌」彩蘭弥

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