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島々の精神史 第9回

隠岐のレヴィ=ストロース

辻 信行


  よその島と比べて見ないから、隠岐の人は気が付くまいが、今のまんまでは風景がすこし寂しい。


 そのように柳田国男は「隠岐より還りて」で語り始める。春のさかりのよく晴れた日だったのに、どの山も緑がやや黒ずんでいて引き立たないと。島後の北側はそうでもないと聞いているが、そこまで行ける人は少ないから、これでは外来者が親しめなくて、ながく島の中をまわろうとはしないであろう、とかなり辛辣である。


 これと対照的なのが、レヴィ=ストロースである。来日した際の講演集『構造・神話・労働』には次のようにある。


  隠岐では島をずっと船で回り、フェリーで帰りましたので、いろいろな日本の風景に接することができたと思います。日本にもなかなか雄大な景観がありますね。(中略)隠岐の海岸線とか、今まで見たことのないとても美しい景色でした。

  私のノートのどこかに、「日本では風景もカリグラフィー(書道)だ」と書いてあります。とにかく山の稜線が美しい。それに地質のせいで、山が岩でできている所は少なくて、ふつうは土質ですから、彫が違っています。


 レヴィ=ストロースの隠岐訪問に案内役として同行した文化人類学者の吉田禎吾によると、レヴィ=ストロース夫妻は隠岐の西ノ島・国賀海岸を訪ねたときに、何度も「すばらしい」と感嘆し、「日本の景色の美しさについてはフランスで知っていたが、実際にこれほど見事な景観に接するのは生まれて初めて」と大絶賛したという。


 国賀海岸について、柳田は記述していない。同じ西ノ島では焼火(たくひ)山について書いている。山の一角に樟や山櫻が入りまじって明るく見える場所があり、そこが焼火権現の松浦静麿神主の持山であると知ると、「こういう木をもっとたくさん植えてまわるべき」と強弁する。とにかく現状は「何だかうすぐらい島だ」と言うのである。


 しかしこれと矛盾するような記述が、宮本常一の「隠岐一巡」にある。


  隠岐へ初めて渡ったのは昭和8、9年の頃であったとおぼえている。柳田国男先生から「隠岐は面白いところだから是非行くように」とすすめられて思いたって出かけた。


 なんということだろう。これが事実であるならば、柳田は隠岐を「寂しい」だの「うすぐらい」だの散々腐しておきながら、宮本常一には「面白いところ」だと言ってすすめたのである。宮本常一の「隠岐一巡」は、1965年の『しま』に寄稿された文章である。宮本ならではの離島振興に対する強い思い入れが窺える。


  西郷の町がりっぱになったことは、喜ぶべきことであるが、それが島内の背後農村の経済的発展と充実によってりっぱになったのではなく、外来者すなわち観光客を相手にして化粧がえをしたものであるとするならば、一種の植民地的な性格を持って来はじめたことになる。つまりその町の発展が外来者のためのものであり、町の背後にひろがる島内全体の農漁民のために対して貢献しないようならばそれはコミュニティセンターとしての役割をはたさなくなって来たことにあり、地方都市としての意義を失いつつあることになる。


 柳田の訪問から32年が経過し、近代化が進んだ島後・西郷の姿に喜びつつ、この発展が観光客のためにあり、島内の農漁民のために貢献しないならば、地方都市として意義を失いつつあると深く憂慮するのである。


 宮本の渡島から12年後の1977年にお忍びで渡島したのがレヴィ=ストロースである。そもそもこれがレヴィ=ストロースにとっての初来日で、国際交流基金の招きによって、日本に6週間滞在した。東京と大阪、京都で講演とシンポジウムをこなし、合掌造りで知られる五箇山、伝統工芸の輪島、そして隠岐を訪ねている。


 隠岐で風景に感動したことはすでに見たが、レヴィ=ストロースがこの島で特筆しているのは他に二つある。料理と聖俗である。まずは料理について見ていこう。レヴィ=ストロースは隠岐の滞在に先立ち、京都で格式の高いもてなしを受けている。その料亭では、献立の構成、順番、調理からサービスの方法にいたるまで、板前から詳しく説明してもらった。しかし隠岐の旅館では、料理の出し方がまるで違って驚いたという。


 京都の料亭では、サービスが完全に通時的で、何のつぎに何が出てくるということがきまっていましたが、隠岐の宿では、いろいろの御馳走が一度に運ばれてきて並べられました。驚いて尋ねますと、ここでは順序なんかはじめからなく、ただ配置だけが大切だという話でした。右に置くべきものは右に、左に置くべきものは左に置かれなければならない。それはきっちりきめられている。つまり規則は完全に共時的です。


 京都の料亭が通時的で、隠岐の旅館が共時的という分析はなかなかユニークであるものの、この時の対談相手である仏文学者の大橋保夫が、「地域による違いではなくて、旅館ではサービスの人出が足りないという問題もあるかと思います」というもっともな反論を提示した上で、「通時的サービスの場合でも、一つ一つの料理の構成とか、器との組み合わせとか、置き方とか、やはり共時的ルールはきまっているわけですね」と応じたのは極めて適切であった。


 次に聖俗である。レヴィ=ストロースは風景に感動した国賀海岸のある西ノ島・浦郷で、たまたま船おろし(進水式)に立ち会った。小さな食堂に入ったところ、今日は船おろしがあってその予約で満席と言われた。しかし島民が仲間に入れてくれて、一緒に食事をし、それが済んで式をやるからと、居合わせた人たちと一緒に小さな造船所へ歩いて行った。


  船の上には船主とその奥さんとその弟の船大工と、それから神主さんが乗って、実に真剣で厳かな式が行われました。ところがまわりの人びとは、親戚の人とか村の仲間ですが、まったくのんきなもので、しゃべったり、ふざけたりしているんですね。宗教儀式なのか、それともそうでないのかということが問題にならないように見えました。ヨーロッパでは考えられないことです。


 カトリックでもプロテスタントでも、聖俗の区別が厳格なのに対し、宗教生活と日常生活との間に絶対的な仕切りがない、聖と俗とがはっきり切り離されていない日本の文化のあり方に驚いているのである。


 船おろしに続いて訪れた神社でも、家と神社が一体化しており、一つが宗教行事にあてられ、もう一つは私生活のために使われているということに、これまたヨーロッパではありえないことと衝撃を受けている。


 このように、隠岐において食事と聖俗のあり方を目に焼き付けたレヴィ=ストロースであったが、短い期間であっても日本の複数の地方に行ったことが功を奏し、比較の視点を得ることとなった。五箇山は、伝統的な生活様式がとても強く残る一方、巨大なダムや新しい道路を建設する工事があちこちで進められて両面の間に不調和があり、若い人がどんどん村を出て行っている。これに対して隠岐は、古い型の家がほとんど見られず、新しい家がどんどん建って、若い人は出て行かない。


 輪島の漁業で収穫された魚介類は大部分が隣接地域で消費される。これに対して隠岐は、ローカルなマーケットがないに等しく、大部分はすぐに遠方に送り出される。輪島では女性の仕事がとても多く、男よりよく働いている。これに対して隠岐は、漁業における女性の役割がずっと小さい。レヴィ=ストロースは、「自分が考えていたよりも、日本人の生活がはるかに多様であることが強く印象づけられました」と語っている。

 

 上記の五箇山・輪島・隠岐の三点比較においても、宮本常一の指摘に見られるように、隠岐では近代化が進み、大都市からやってくる資本主義の波に吞まれているのが感じ取れる。しかし、レヴィ=ストロースの85年前に渡島したラフカディオ・ハーンも、隠岐の近代化を憂えていた。『日本の面影Ⅱ』に収められた紀行文を読んでみよう。


  食事はびっくりするほど美味しく、料理の品数も多かった。その上、お望みとあれば、フライド・ポテト付きビーフステーキやロースト・チキンなどの、いわゆる「西洋料理」を注文してよいと言われた。私は旅行中は、周りの人に余計な面倒をかけまいとして、純日本料理を食べることにしていたので、その申し出をお断りした。しかし人口五千人ほどの日本の町で、とてもありえないような申し出を受けたことに、私は少なからず驚いてしまった。


 これとまったく同じことが、レヴィ=ストロースの隠岐滞在でも起きた。島後の旅館での最初の夕食に、同行の吉田禎吾の食事とは別に、ポタージュとビフテキが用意されていたのである。これに気付いたレヴィ=ストロースは、「余分につくった分は払うから、日本人と同じ食事にしてくれ」と言い、魚やイカの刺身、生うに、さざえ、あわび、もずく、とろろ芋などをすべて「おいしい」と言って食べた(ちなみにイカの刺身も最初は箸を使って食べていたが、ツルツル滑ってうまくいかないので、途中から手づかみにした)。また、ビールよりも日本酒を好み、食事の時にはたいてい一合ほどの日本酒を飲んだという。


 吉田によると、レヴィ=ストロースが滞在の最後で語った隠岐の印象は、①風光明媚である ②一見野性的な自然、山、森のように見えても、神社をかこむ森や共有林の慣行にみられるように、人間の介在が背後にかくれている ➂農村部が比較的沈滞しているのに比べると、青年の多くが村を去らずに漁業に従事し、漁村が活気に満ちている ということであった。


 書斎派で理論家というイメージの強いレヴィ=ストロースであるが、隠岐滞在中にはユーモアを発し(旅館の部屋の入口に格子戸があり、これを開けて中に入ったとき、「僕はゴリラになったような感じがする」と言った)、現地の人々に気さくであたたかに接し、採取する野生植物や漁で獲る魚の名前などを聞いては熱心にメモを取った。そこから見えてくるのは、寸暇を惜しんですべてを記録しようとするフィールドワーカーとしての姿である。


 レヴィ=ストロースが渡島したのは1977年11月。それから46年後の同じ11月、ぼくは念願かなって隠岐へゆくこととなった。果たしてそこは、柳田の言うように寂しくて暗い島なのだろうか。あるいはレヴィ=ストロースの言うように、生まれて初めてみるような見事な景観が広がっているのだろうか。



 

【参考文献】

レヴィ=ストロース『構造・神話・労働』(みすず書房、1979年)

吉田禎吾「隠岐の島のレヴィ=ストロース」『UP』64号(東京大学出版会、1978年)

田中浩司「クロード・レヴィ=ストロースの隠岐紀行」『隠岐の文化財』26号(隠岐の島町教育委員会、2009年)

木瀬一郎「「隠岐の文化財」発刊30号に寄せて」『隠岐の文化財』30号(隠岐の島町教育委員会、2013年)

柳田國男「隠岐より還りて」『定本 柳田國男集第2巻』(筑摩書房、1962年)

宮本常一「隠岐一巡」『日本の離島 第2集』(未来社、1970年)

ラフカディオ・ハーン「伯耆から隠岐へ」『日本の面影Ⅱ』(KADOKAWA、2015年)


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