島々の精神史 第13回
- 辻信行
- 3 日前
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朝鮮から天草へ
辻 信行
第一村人はゲートボールの準備をしていた。海べりの小さな公園で、ラインカーで白線を引き、スコアボードを作っていた。ここは天草上島の宮田地区。早朝の散策で最初に出会った80歳前後の男性である。
「おはようございます」とぼくは言う。
「おはようございます」と彼は言う。
しばらく挨拶に毛の生えた会話を続けた後で、「ところでこの辺の漁師さんたちは、昔、朝鮮半島まで漁をしに行っていたそうですね」とぼくは聞く。
「へぇ~。そんなこともあったんか。ワシは大阪から越してきたからよう分からん。退職してからこっちに来たんですわ。妻の実家が天草でね」
男性は大阪時代、ビリヤードのある洒落たダンスホールを経営していたそうである。どおりで体幹のしっかりした端正な立ち姿である(本人がダンサーだったわけではないので、関係ないかもしれないが)。
「そういうことに興味あるなら、あっちのほうの家で聞いてみたらええわ。昔からの家が多いから。ところで兄ちゃん、ゲートボール、やってみるか?」
球技をふくめ、すべてのスポーツ種目において極度の運動音痴であるぼくは、丁重に断りたかったが、せっかく話に付き合ってくれたのである。ここは少し、やってみることにした。
「スティックはこう持つんや。そんで腰をこう入れて。そうそう、そんで力を抜いて自然にポーンと珠に当てて」
昔はだいたいこれと同じ指導をビリヤード台の上で繰り広げ、何人ものうら若き女性を落としてきたのかもしれない。しかしいまは朝の公園で、種目はゲートボール、普段の相手は80歳前後の熟女、だろうか。それはさておき、ぼくが彼の教えを素直に実践してみたところ、なんと信じられないことに、一発でボールがゲートをくぐり抜けた。
「あんた、ゲートボールの才能あるやん! 選手になれるんとちゃう?」
これまで、すべての運動種目において、他人の5~10倍は努力しないと人並みになれなかった自分が、なぜか生まれて初めてやったゲートボールの第1ショットで、見事にボールがゲートをくぐり抜けたのである。彼の指導が功を奏したのだろうが、もしかしたら自分には本当に、ゲートボールの才能があるのかもしれない。
しかしそれ以上に驚いたことは、ゲートボールの才能が発掘されたにも関わらず、まったくもって嬉しくないという事実である。それほどまでに、「ゲートボールは年寄りの娯楽」という固定概念が自分のなかで確固として存在し、「お前はじじいだ」と認定されたような気分になって釈然としないのである。
「ワシはもともと、宮田漁港の近くでゲートボールに混ぜてもろうてたんや。でもな、あっちは言葉が分からん。みんな漁師やから話も噛み合わん。だからこっちの仲間に入れてもろうたんや」
なるほど。そこまで広くない宮田地区ではあるものの、漁港側と十五社天満宮側でゲートボールのコミュニティーが分かれて存在し、漁港側は漁師たちによって構成され、言葉も文化も独特であるから、よそ者が仲間入りするのは難しいらしい。そのため彼はこちら側の仲間に入れてもらい、新参者の務めとして、一番早くにやって来て一人準備に励んでいるというわけである。
涙ぐましい努力をする男性にお礼を言って、ぼくは昔からの家があるという十五社天満宮の裏手に回って聞き込みを続けた。庭の畑でローゼルに水を撒いているおばあさんに話しかけると、彼女は昔からの宮田地区のことを知っており、朝鮮への出漁についても、聞いたことがあるという。しかしそういう話は漁港の近くの漁師たちに聞いたほうがいい、この辺は漁師たちの家ではないからと言う。ここからも漁師のコミュニティーとこちら側のコミュニティーとの間に隔たりを感じる。そしてどういうわけか、朝鮮の話を持ち出した途端、彼女がぼくを見る目が、いぶかしいものに変化したことを感じた。
日本最大の高さ10mのえびす像の横を通り、宮田漁港へ歩いてゆく。民家の軒下に座り込んで話している中高年の男性5~6人のグループと、港の堤防の途中に座り込んで話している同じ世代の男性6~7人のグループが見受けられる。どちらも地元民で、おそらくは漁師たちだろう。
まずは軒下にいるグループに話しかける。こちらを物珍しそうに見つめていた彼らだが、朝鮮への出漁のことを話すと、「よく知ってるねぇ」と少し驚いた様子である。たしかにそのような歴史はあった。遠洋漁業なので子どもができにくい漁師もおり、そのような漁師のなかには、朝鮮の漁港で仲良くなった親なしの子どもを連れ帰ってくるケースもあったという。
今回ぼくが天草上島を訪ねたのは、洲上朝市(1900~1972)という数奇な生涯をたどった漁師について調べるためであった。朝市について知ったのは、岡本達明『水俣病の民衆史 第五巻 補償金時代 1973-2003』(日本評論社, 2015年)および岡本達明編『近代民衆の記録 7──漁民』(新人物往来社, 1978年)を通してである。
戦前の天草は、朝鮮に直接出漁することが頻繁であった。とりわけタイ漁が盛んな宮田村(現天草市倉岳町宮田)に突出していた。岡本(1978)によると、帆船の時代には朝鮮近海まで遠洋漁業に繰り出していたのである。発動機船が出現すると、大連や青島まで遠征し、大連には根拠地も置かれていた。
年末には大漁旗を立てて威勢よく宮田に凱旋していたが、アジア・太平洋戦争の勃発により、遠洋漁業の道は閉ざされた。また、宮田では遠洋漁業に家族を連れてゆくという特殊な形態も存在していた。その一方、子供のいない漁師の中には、単身で出漁する者もおり、現地で朝鮮の子供に懐かれ、そのまま船に乗せて帰って来るケースが存在した。次に紹介する証言は、そのことに言及している。
●御所浦島嵐口・崎田清松(明治26年生)の話
(天草上島の)宮田辺りにゃ、朝鮮から子供なんかば連れて来とる者の居っでな。仕事さするために自分の子供にして。矢張(やっぱ)、あン頃は朝鮮は食物が悪かったっじゃな、もう船さン来れば、行こうでせンとじゃもン。追いやらんば、抱えて降ろさンば行かんとやっで。始めにゃ、恐ろっせ来ンが、馴るればなんさま遊び来て、船ン乗って飛っされて(飛び回って)もう危のうして。子供は魚どン船に干しとれば、すぐ持ってはって(逃げて行)きよったもンな。菓子買うて御馳走(ごっつお)すれば、船から動かんとやもン。そして、動かんもンで、こるば躾(しつ)くれば為になるばいて、いう如(ご)たるふうでな。
亀どんな、木浦(もっぽう)から一人連れて来らいたっじゃっで。そン人は、一人連れて来らいたが、宮田に何人も何人も来とっと。子持たん者な良かっじゃもね、あんた。連れて来て自分の籍に入れて。そん頃まじゃ、私生児てありよったでな。そっで、どがンでンしてよかりよったもン。役場に届けて。そンかわり、矢張、年ば少のう言わんば、つまらんどで、あんた。自分が生んだ事にするわけ。亀どんな宮田の人で、水俣の湯堂に来らった。亀どんな、俺な、何でン言っ聞かせよったっばな。そン息子もこの頃死ないたが。i)
証言のなかにある「亀どん」とは、漁師の洲上亀次のことである。木浦から子供を一人連れて来たとある。亀次が連れてきたのは一人(=洲上朝市)だが、宮田村には朝鮮から何人も子供が連れられてきている。ii) それらの子供たちは、連れてきた漁師たちの戸籍に入れられ、役場に届け出るときには、年齢を少なめに申告された。次の証言は、日本に連れられてきた朝鮮人の子供たちが、朝鮮で置かれていた状況について語られている。
●天草宮田・砂原岩彦(明治31年生)の話
朝鮮は木浦でも群山(くんさん)でも、町に子供が何ぼでも居ったですよ、親なしの。捨て子したりなんだりして養いきらずに。どうしあんた、塵捨場に捨ててある残飯なんか、あがんとば拾うて食うて歩(され)くとじゃがな。何処の都会の港に着けてもそういうとが居りよったっです。そげんとば、人相の良かったりなんだりすっとば選って船に乗せて、子守りさせたりなんだりするのに、こっちゃん連れて来よったですよ。そっで、もうどの船も一人ぐらいずつは乗せっ来よったっですよ。向うも喜んどるわけ、食うか食わんかしとっとやけん、日本人の舟に乗れば魚食わせて、良かもンですから。そいで(それで)だんだん乗って来とってから、後は立派な船員になるような者も出てくるでしょうが。儂も何人も連れて来たっですよ。次郎とか一郎とか名前つけて、どれも性の良かっばかりじゃった。たいがい儂がた次郎じゃった。一郎ちいうとは、小まい時から、子守のできる頃から、乗せて馴れかして居ったでしたが。iii)
この証言からは、朝鮮の子供を日本に連れ帰ってくる行為が、拉致や略奪とは一線を画し、双方の合意のもとに行われ、互恵関係すらもたらしていた可能性が窺える。つまり、朝鮮の木浦や群山には親なしの子供たちが溢れており、食うか食わずかの毎日を送っていた。一方、子供のいない日本人漁師たちは、そういった子供たちに対して生活の保障をする代わり、働き手として漁船に乗せて連れ帰って来たのである。
朝市もそのような「親なし」の子供の一人であった。そして日本にやって来たあと、彼には数奇な運命が待ち受けていたのである。

i) 岡本達明(2015)『水俣病の民衆史 第五巻 補償金時代1973-2003』日本評論社、318頁。
ii) そのため、どこから来たのか分からない子供や、いつの間にかその家の子供になっている場合、「朝鮮の子ではないか?」と言われることがあった。
iii) 岡本達明(2015)『水俣病の民衆史 第五巻 補償金時代1973-2003』日本評論社、318-319頁。
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