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島々の精神史 第7回

受精地とおばあたち


辻 信行


 出身地はどちらですか? という質問は一般的である。しかし、受精地はどちらですか?という質問は一般的でない。当たり前だろう。そもそも「受精地」という概念がないのだから。ここで仮に「受精地」の定義を、「受精卵が発生した瞬間、その母胎である人がいた場所」としてみよう。


 個人の生い立ちを考える上で、「受精地」というのは知っておいて損はない事実かもしれない。つまり、胎内から外に出たときにいた場所(=出身地)と同じように、受精卵が出来上がったときにいた場所(=受精地)に注目すると、何かが見えてくるのではないだろうか。もっとも、「知りたくない」「知らなければ良かった」というケースはままありそうだけれども、受精地による個人の性格や気質の特徴などがあったとしたらおもしろいのではないだろうか。


 「ぼくの場合、出身地は横浜だけど受精地は沖縄で、あと一ヶ月早く生まれていれば、出身地も沖縄だったんですよ。『受精地研究』があったら沖縄に分類されますから、何らかの沖縄人気質を持っているかもしれませんよ」、などと気持ちよく話していると、目の前にいる旅人の金井重さんがおもむろに口を開いた。


 「あなた、それはそうと、機内食は事前にここで選ぶ方式なわけ?」

 さすが世界163ヵ国を訪ね歩いた旅人の金井重さん(以下、シゲさん。当時87歳) である。


 2015年7月28日、ここは成田空港第3ターミナル。これからシゲさんとぼくは、東京自由大学の夏合宿に参加して、沖縄に行くのである。交通費はなるべく安く抑えるというのがモットーの合宿なので、格安LCCで成田から那覇に行く。機内食を注文する場合、搭乗前にターミナルで予約する必要がある。


 「機内食はあんまり美味しくなさそうだから、ぼくはほら、あそこの売店でサンドイッチを買ったんですよ」

 「あらそう。でもやっぱり機内食のほうが旅情をそそるんじゃないかしら?」

 「まぁそうかもしれませんけど、あんまりまずいんじゃ旅情も盛り下がっちゃいますよ」

 「あはは、それもそうね!」


 3分後、シゲさんが買ってきたサンドイッチは、がっつりしたカツサンドである。87歳にして国内外を飛び回る健康の秘訣は、しっかりと肉を食うことにあるのかもしれない。


 「私が初めて沖縄に行った時はね、白いパスポートを持って行ったのよ」

 LCCの狭い機内でカツサンドを頬張りながらシゲさんが言う。

 「えっ? パスポートが必要だったのは知ってましたけど、白かったんですか?」

 「そう。赤でも黒でもなく、白だったわね。沖縄専用のパスポートだったわよ」


 1945年の敗戦から1972年の沖縄復帰に至る27年間、沖縄はアメリカによる占領統治がおこなわれ、その間は日本人が沖縄に行くために白いパスポート(身分証明書)を携帯する必要があったのである。


白いパスポート

 斎場御嶽や久高島のデコボコした道で、少し足元のおぼつかないシゲさんを支えながら、「ぼくの祖母です!」と周りに冗談を飛ばしていたら、事情を知らない人たちが本気にしてくれて、「やっぱりそうなのね。さっきから顔つきが似てると思った!」などと言うので、シゲさんはおかしくてたまらないという様子で相好を崩していた。


 久高島に滞在した後、ぼくは単独で辺野古に移動した。このときはまだ基地建設の護岸工事が始まる前で、ゲート前では毎朝デモがおこなわれていた。ゲート脇には警察車両とともに、テレビCMでおなじみのALSOKのワゴン車が常駐され、中から眼光鋭い警備員たちがこちらを睨んでいる。


 辺野古ゲート前の座り込みテントに行く。すぐに気さくなおじさんが出てきて声を掛けられる。どこから来たのか、基地建設にどのような立場なのか。座り込みを支持する立場であることが分かると、基地建設予定の海岸に連れて行ってくれて、これまでの経緯と現状について丁寧に説明してくれる。


 テントに戻ってくると、運動の精神的な支柱となっている文子おばあが最前列に座っていた。ドキュメンタリー映画『戦場ぬ止み』(三上智恵監督、2015年)にも出演し、全国的に知られるようになった。文子おばあは沖縄の地上戦で手りゅう弾と火炎放射器で体を焼かれ、左半身に大火傷を負いながら、明るく強く戦後を生き抜いてきた。


 彼女は毎朝このテントにやって来て、工事車両の前に杖をついて立ちはだかり、文字通り体を張って作業を阻止しようとする。戦争の恐ろしさを誰よりも深く知る文子おばあだからこそ、勇敢に基地移設工事に反対している。


 目立たないようにしていても、やはり外部からやってきた人間はどうしても浮いてしまう。前に出てきて何か言うように頼まれたので、現場を見て感じたことを少しだけ話した。


 「ジュゴンの住む豊かな生態系の海と、この地に根差して生きる人々の生活が、ふたたび軍隊という暴力的な力によって蹂躙されるのは、あってはならないことです。こんな横暴な政策のまかり通るこの国の現状に、怒りとやるせなさ、痛切な悲しみを覚えます。しかしいま、座り込みをしている皆さんに自分のほうが元気付けられ、できることをもっと模索していきたいと思いました」


 しばしば、座り込みをしている人々は、蛇口の水を下から手で押さえて止めようとする人にたとえられる。蛇口をひねらなければ水は止まらないし問題は解決しないのだから、意味がないと。では、一体誰が蛇口をひねることができるのだろうか? やるせないことに、沖縄県知事の権限には限界がある。それでは、日本の首相にはできるのだろうか。権限を持っているように思えても、基地問題にせよ、原発問題にせよ、いざ反米的な態度を取ると、すぐに潰されてしまう。


 そんな暗澹たる現状を前にして、辺野古ゲート前の人々は明るい。歌いながら、踊りながら、しかしここぞという時は徹頭徹尾、態度で示しながら反対運動を繰り広げている。これこそが強さというものなのだろう。智慧というものなのだろう。


 ぼくが辺野古で文子おばあと握手した2年後、2017年11月から護岸工事が始まり、翌18年12月から埋め立て工事が始まった。この埋め立てに使われた土砂こそ、前回の連載で触れた水俣の対岸・御所浦島から採取されたものである。国内唯一の地上戦がおこなわれた沖縄と、国内最悪の公害病が発生した水俣が、ここでつながっている。


 石牟礼道子が健在だった頃、前出の福島県いわき市出身の旅人・シゲさんも水俣の地を訪ねている。そのときのことをぼくにこう語ってくれた。


 「もう昔だけどね、1980年ぐらいに石牟礼さんとお会いしたことがあるの。そのころ石牟礼さんは、水俣に来る人なら誰とでも会ったのよ。それでね、一緒に行った友人が私のこと指差してね、『この人は本当に騒々しいんです』って言うわけ。そしたら石牟礼さんがね、『そうぞう神っていうのがいるんですよ』って。私が『それは創造神でしょ?』って聞いたらね、『いいえ、うるさい方の「騒々神」です』って言うからね、私は神様になっちゃったの。あっはっは!」


 石牟礼道子(水俣)―文子おばあ(辺野古)―シゲさん(福島)。三人のおばあが生まれた場所、拠点とした場所は、列島の近現代史において、けっして拭い去ってはならない史実の現場である。


 シゲさんは出身地の出来事ということもあり、東日本大震災と福島第一原発事故に人一倍思いを寄せていた。東京自由大学で開催した連続講座「震災解読事典」には毎回欠かさず出席し、あるとき、一緒に参加した若者たちにこう呼びかけた。


 「よく見てください。よく聞いてください。いま何が起きているのか、為政者たちが何をしているのか。これはまたいつか、起きることなのよ。そのとき世の中の中心にいるのは、あなたたちです。だからとにかく、よく観察して。そしてね、いまあなたが感じていることを、どうか忘れないで」


 福島第一原発の処理水放出が始まるのを見届けず、シゲさんは2021年12月に他界した。それはある意味、幸福であったのかもしれない。しかし、いまや歴とした「騒々神」になって、憤然としながら事態の推移をまじまじと見つめているに違いない。ふたたびこの世に降臨することとなったら、シゲさんは一体どこを受精地として選ぶだろうか。

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