俊寛の午睡
辻 信行
渋谷のBunkamuraの裏手にまわり、閑静な住宅地の坂をのぼると、小さな公民館のような建物があらわれる。観世能楽堂。いまは銀座シックスの地下に移転したが、2015年までこの地に佇んでいた。
ぼくが初めて訪ねた日、客席には能の研究で知られる東大教授・松岡心平先生の姿もあった。観客の8割が高齢者ではないだろうか。観世会定期能の『俊寛』。シテは観世清和、成経は野村昌司、康頼は藤波重彦である。初めてにしては、本格的な公演を選んでしまったかもしれない。
蓋を開けてみると、とにかく「痛み」を伴った。演者が下手とか、客層が酷いとか、自分が無知すぎるとか、そういう抽象的な「痛み」ではない。もっと直接的で身体的な「痛み」である。
というのは公演の間中、わき腹を小突かれ続けたのだ。見ず知らずの隣の爺さんに。正確に言うと、ぼくがうとうと気持ちよく午睡に入ると、すかさず隣席の知らない爺さんが、ぼくのわき腹を小突いてくる。寝るなというわけである。爺さんの視界を邪魔するほど大きく舟を漕いでいるわけではないが、とにかく癪に障るらしい。
しかし当時のぼくはなかなか図太い神経をしていたようで、小突かれた瞬間は目覚めても、すぐにまた眠りの世界へと戻ってゆく。するとまた爺さんが小突く、という繰り返しである。さすがにハイライトの場面(俊寛だけがキカイガシマに取り残されてひと悶着ある)だけは舞台上の喧騒によって目覚めたが、そこを除くとほとんど寝ていた。
そのころ聴講していた大学の芸能史の講義では、「能は夢の世界を描いているから眠くなって当然なんです。半覚半醒しながら見てもいいんですよ」と先生がやさしく言ってくれたが、隣の爺さんはやたら厳しい。能に詳しい友人に、先生と爺さんの違いについて苦言を呈したら、「あぁ、その先生が言ってんのは『高砂』とか『井筒』とか、夢幻能のこと。でも『俊寛』は現在能(現実世界で起きている話)だから。起きてなきゃダメ!」などとつれないことを言う。隣の爺さんと友人のおかげで、その後数年間、能を観に行くことはなかった。
それはさておき、そもそも『俊寛』を観に行ったのは、能への関心もさることながら、俊寛そのものへの関心も大きかった。奄美群島・喜界島でフィールドワークを重ねるうちに、この地に流刑されたと伝わる俊寛への関心が芽生えたのである。俊寛の島流しについて、伝わっている史実をみていこう。
1177年、平家打倒を企てた鹿ケ谷の陰謀が発覚し、首謀者と名指された3人がキカイガシマに配流された。平康頼、丹羽成経、そして俊寛である。翌年、康頼と成経は赦免されたが、俊寛は謀議の張本人とみなされ島に残されることとなった。自らも都に帰れるものと思っていた俊寛は、康頼、成経との別れ際、自分も帰してくれと使者に迫り寄り、出航する小船に向かって泣きわめく。訴えむなしく船が沖合へ遠のくあいだ、孤独に打ちひしがれてうずくまっていた、とやたら詳しい描写だが、これは『平家物語』巻三「足摺」に描かれているほか、前出の世阿弥作の能『俊寛』、菊地寛や芥川龍之介による小説『俊寛』においても、広く知られている。
俊寛が流刑された島については諸説あり、とくに喜界島と硫黄島(アジア・太平洋戦争における「硫黄島の戦い」の舞台は、小笠原諸島の硫黄島(いおうとう)であり、別物である。俊寛が流刑された硫黄島(いおうじま)は、鹿児島県三島村に位置する)での伝承が濃厚である。喜界島には俊寛の銅像と墓があり、硫黄島には俊寛の銅像が建っている。喜界島の俊寛の墓からは、面長で貴族型の頭骨がみつかっており、これが島外出身の高貴な人物であると推測されている。しかし学術的には、俊寛の配流先を硫黄島とするのが定説化している。これはなにより、『平家物語』において俊寛が流刑された「キカイガシマ」の描写が根拠になっている。以下、その描写を整理する。[1]
① キカイガシマは、都から出て、はるばる波路の彼方にある
② 薩摩の港から船で行く。船は中国へ行く商船で、旧暦4・5月に船出する
③ 追剥がいる薩摩の船着場では、キカイガシマへ行きたい、というと怪しまれる
④ 並大抵では一般の船は通わないが、商人の船で島に渡ることができる
⑤ 人はいるが日本人とは違う。牛のごとく色黒で、身にはしきりに毛が生えている
⑥ 島の人の話す言葉を聞いても理解できないが、彼らの中には都の人の言葉を解し、返事をする者もいる
⑦ 男は烏帽子をかぶらず、女は髪をさげておらず、着るものも無い
⑧ 食べるものが無いので、殺生(漁労・狩猟) ばかりしている
⑨ 耕す者がいないので田畑も里・村もなく、米穀もない。養蚕もしないので絹織物もない
⑩ シマには高い山があり、永遠に火を噴き、硫黄を産し、硫黄が島とも名づけられている
⑪ 硫黄を商人は受け取り、代価として食物をくれる
⑫ 雷鳴が鳴り上がり、鳴り下り、麓には雨が多く、とても長生きできそうな所ではない
⑬ 肥前国鹿瀬庄に成経の妻の父、平教盛の荘園があり、衣食が送られてくるので3人はそれを頼りに生きていた。赦免となった成経と康頼は、9月に赦免の知らせを聞いてキカイガシマを発ち鹿瀬庄に着くが、年内は波風が激しいということで翌年1月末に鹿瀬庄から船出した
このうち⑩⑪は、硫黄島の地理的・商業的特徴そのものである。喜界島からは古来硫黄が全く産出されず、硫黄を売買する商人の存在も記録されていない。
俊寛はキカイガシマで徐々に衰弱し、最終的に断食した後に餓死したとされる。しかし歴史学者の高橋公明は、キカイガシマが決して貧しい島ではなかったと指摘する。それによると、①薩摩に舟津(港)があり、島との間に商人船が通うほど交通がある。②宋や元に輸出された国際貿易品の硫黄を拾うと食べ物を手に入れられる。③網人、釣人がいるほど魚介類が豊富である。よって俊寛が衰弱して餓死したというのは、当時の高貴な身分の人間は、都でしか生きられないのだと、人々が思いたかったためであると推測している。[2]いずれにせよ、キカイガシマは島流しに最適なヤマトの辺境であると同時に、海外との中間に位置する交易上重要な境界地点であったことが窺えるのである。
歴史学者の村井章介は、中世においてヤマトは境界の外に住むものを鬼と見做していたのだという。ここでいう鬼とは、頭に角が生え、手には棍棒を持つ一般的なイメージの鬼そのものである。しかしキカイガシマの住人は、『平家物語』におけるキカイガシマの特徴⑤~⑦にみられるように、一般的なイメージの鬼そのものではない。かといって、ヤマトと同じ風貌の人間でもない。つまり、鬼と人の中間に分類されるような存在なのである。このことから村井は、「この島は、中世の日本にとって、境内と異域との境界にある場所、内と外の両方の性格をかねそなえた空間である」[3]と結論付けている。
そのような境界の島としての喜界島でおこなったフィールドワークについては、前身のウェブマガジンEFGの第8号・第9号・第10号で書いているので、そちらで写真などをご覧いただくとして、今回はともにキカイガシマと呼称されていた硫黄島に行ってみることにする。鹿児島港からフェリーみしまに揺られること3時間半(本当にかなりの揺れで、座っていると気分が悪くなるので、ひたすらごろ寝していた)、硫黄島に入港した。
まず、海水の色に驚く。硫黄によって黄土色なのである。
島内には椿の花が咲き乱れ、あちこちをクジャクが闊歩している。1974年にヤマハがリゾートホテルを開業し(10年足らずで廃業)、そのさい持ち込まれたクジャクが野生化し、今でも島内のそこかしこを歩き回っているのである。
俊寛が住居としていたところは「俊寛堂」として残され、『雨月物語』の浅茅が宿のような趣を湛えている。
安徳天皇の住居跡(安徳天皇は壇ノ浦で死没したことになっているが、落人として「当地で生き延びた」とする伝承が、全国各地に存在する)には熊野神社が建っている。
「色彩の聖地」と呼びたくなる火山島の硫黄島は、隆起珊瑚からなるのっぺり平面的な喜界島とはあまりに異なる。やはり俊寛は硫黄島に流されたんだなぁと思いながら、岸壁の東温泉に浸かっているとウトウトしてくる。俊寛もこの島で呑気に午睡することもあったのだろうか。それにしても、東京という都で『俊寛』を観ながら居眠りすると知らない爺さんに小突かれるが、流刑先の硫黄島で温泉に浸かりながら居眠りしていても小突かれることはない。これはなんだか、俊寛の生きた時代と変わらぬ普遍的な真理であるように感じる。俊寛もこの島にいて、不自由のなかの自由を満喫していたのではないだろうか。そうだといいな、という願いを込めて、そう思いたい。
[1] 福寛美(2008)『喜界島・鬼の海域 キカイガシマ考』新典社
[2] 高橋公明(2002)「文学空間のなかの鬼界ヶ島と琉球」『立教大学日本学研究所年報』(1) 立教大学日本学研究所
[3] 村井章介(2006)『境界をまたぐ人びと』山川出版社、p64
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