大神島は恐山なのか
辻 信行
大神島は老婆の島である。
老婆のほかには子どもしかいないように見える。
日が沈む頃になると、岩の上に大鴉が群がってきて啼きはじめる。
なぜ、老婆と子どもしかいないのか、と考えていると、誰でも物語作家になれるだろう。
――寺山修司「ニッポン呪術紀行1 沖縄・大神島で見た夢」『旅』47(1)、1973年、169頁
寺山修司の描く大神島は、恐山そのものである。老婆、子ども、鴉…。それらは映画『田園に死す』の冒頭で描かれる恐山のイメージと重なっている。しかし、現実の大神島は沖縄の小さな離島である。青森の荒涼とした下北半島に位置する恐山とは、あまりにかけ離れている。
それでも大神島には、恐山に通じる何かがあるのだろうか。そんな思いを抱えながら、ぼくは大神島に行ってみることにした。初冬の曇天下、やや強い風の吹く宮古島・島尻漁港。欠航が危ぶまれたが、一日4便の大神島行きの船は無事に出航するという。「神」と書かれた小船に乗ること15分、なだらかな山型の島に到着した。
熊のような図体のKさんが出迎えて、島内を案内してくれる。ここで生まれ育った50代の男性で、仕事として案内人をしている。大神島の人口は約30人。ハイビスカスの咲く平屋の小さな民家、ネギやニンニクが栽培されている小さな畑、それらを縫うように小道があり、そこを歩いて遠見台と呼ばれる島の最高地点に登ってゆく。
途中の分岐点で、「ここから先は入っちゃダメです」とKさんが言う。大神御嶽につながる道である。祖神祭(ウヤガン)に関わる人間以外、それが行われる場所に入ってはならない。島内の人間も祭祀の内容を詳しくは知らず、島外の人間には祭祀のおこなわれる場所すら教えてはならない。これは昔から守られてきたことだという。祖神祭も衰退し、かつてに比べれば随分と開かれた島になったが、祭祀の決まり事を老婆たちが取り仕切る慣習は変わっておらず、いまだによそ者が首を突っ込むことは許されない。
寺山は大神島に上陸した際、自身が「招かれざる客」と感じたと語っている。当時の大神島の排他性については、民俗学者の谷川健一が「私も歓迎されない人間として遇された」(谷川健一『女の風土記』読売新聞社、1975年、163頁)と語り、作家の星雅彦が「老婆はしゃがんだだけでなく、困惑の表情を隠そうとせず、心理的に私に対し距離感を示した」(星雅彦「大神島探訪記」『琉球の文化』創刊号、1972年、145頁)など、異口同音に記録されている。しかし現在、そのような排他性はあからさまな形では表出しておらず、そもそも老婆に会うことすらなく、随分と変わってしまったのだと感じる。
それでも変わらずこの島に立ち続けているのが、「ノッチ」と呼ばれる奇石である。キノコのような形をして海岸に「生えている」。そう、生えているように見えるのだ。ここからピンと来るものがあった。それは、恐山の奥の院と呼ばれる仏ヶ浦である。
天然の断崖絶壁が、津軽海峡の荒波と強風に何万年も揉まれ、巨大な奇岩群となっている。2kmにわたって続き、その大半が仏像の形をしていることから信仰の対象とされ、恐山の奥の院とされるようになった。恐山の菩提寺と宇曾利湖の一帯も、地獄と極楽浄土が造形されており岩場もあるが、やはり大神島の奇石は、どちらかと言えば仏ヶ浦に近い。
大神島で祖神祭を取り仕切る老婆と、恐山で死者を呼び出すイタコ。大神島の奇石、仏ヶ浦の奇岩。寺山のなかでそれらが容易につながることは想像に難くない。とは言え一方は南国の島であり、もう一方は北国の山である。なんとなく似ているからと言って、両者を重ね合わせるのはいささか乱暴ではなかろうか。しかしここには、寺山の沖縄に対するアンビバレントな眼差し、さらにはこの世界そのものに対する一貫した眼差しがあらわれているように思える。
ここであるアンケート調査に着眼したい。1971年6月、『詩人会議』編集部が会内外の詩人に対して次のような質問を送った。
「『沖縄返還協定』が今月(六月)十七日に佐藤政府とニクソン政権のあいだで調印されました。あなたは、この協定、あるいは報道で接したことについて、どう考えられますか」
――「アンケート「沖縄返還協定」について」『詩人会議』9(8)1971年8月、28頁
これに対する詩人たちの回答は、「厚顔無恥。ひたすらに恥づ(ママ)かしい」(宗左近)、「どんな政体にも、権力を認めたくありません。権力クタバレ!」(吉野弘)など、米軍基地を残したままで返還に応じる佐藤政権に激しい批判を浴びせている。その中で唯一、代理人による回答をしたのが、寺山修司である。
ただ今、寺山はヨーロッパ旅行中のため、アンケートにお答えできません。
どうも、申しわけありません。
代理人によるこのそっけない回答は、怒りに燃え立つ周囲の詩人たちの中で浮いている。なんとも寺山らしい、とニヤついてしまう。
寺山が沖縄に無関心だったかと言えば、そうではない。冒頭に引用した沖縄・大神島の訪問記を連載「ニッポン呪術寄稿」(雑誌『旅』)の初回に位置づけ、沖縄各地で撮影した今村昌平監督の映画『神々の深き欲望』の批評を2本書き、この映画に影響を受けながら遺作映画『さらば箱舟』を沖縄で撮影している。
しかしその一方で寺山は、演劇論『迷路と死海』において「南なんかへは行くなよ」と言っている。南方憧憬は時代を支配する疫病であり、南には沈黙と祈りしかなく、自分は北に踏みとどまって言語に執しながら、言語による世界変革をおこなうのだと。
この矛盾した寺山の態度については、以前他のところで論じたが(拙稿「寺山修司と沖縄――アンビバレントな眼差しをたどる」『知性と創造 : 日中学者の思考』11)、 そもそも寺山は、故郷の青森でさえ、現実をありのまま見るような態度は取っていない。寺山にとって、この世はすべて異界であった。ゆえに土俗性を誇張の方向に造形した故郷・青森に対し、沖縄はむしろその誇張された青森イメージをも塗り重ねながら、どこでもないどこかへと造形されていった。
アンケートにおける寺山の回答は、偶然であるにせよ、ある意味において寺山の沖縄観が表出している。つまり、「ここにあらず」ということだ。紀行文や映画評、映画のロケ地などを通して沖縄に関わりを持ちながら、この地をどのように扱うか思いあぐね続けた心情と重なっているのである。
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