済州島の記憶を取り戻す
辻 信行
よく分からないうちにやって来て、分からないなりに衝撃を受け、帰ってから日が経つにつれ、「あぁ、行って良かったなぁ」としみじみ実感することがある。ぼくにとってそれが、済州島であった。
近代史が専門のイ・ヒョンナン先生に誘われて、大学院生や教員みんなで済州島に行くことになった。ぼくにとって済州島と言えば、「石のおじいさん」である。トルハルバンと呼ばれるそれは、石でできた島の守り神だ。火山の噴火によって生まれた済州島は、火山岩がゴロゴロ転がっており、石への信仰がとても篤い。
また、島内のあちこちに「堂(たん)」と呼ばれる聖所がある。「堂」と書くが、ここには建物がない。神木の前に祭壇があり、石垣で囲まれているだけの小さな聖所である。神社の原型のようであり、御嶽のようでもある。せっかくならこういう済州島の民俗信仰を見てみたいとイ先生に伝えたところ、「そういうことは、私たちはとっくの昔に調べたの。今回のテーマは歴史。とくに四・三事件」と言う。はて、四・三事件とは、一体なんだろうか。
調べてみると、第二次世界大戦後に済州島で起きた、極めて大規模な虐殺事件らしい。なんでも島民の五分の一にあたる、3万人以上の人々が虐殺されている。戦争が終わったあとで、なぜそのような事件が起きたのだろうか。下調べもままならないうちに、出発の日がやってきた。長崎の上空を通過してから30分も経たないうちに、靄がかかって全体が薄墨色の島影が現れる。中央のハルラ山だけ、黒い山体をのぞかせている。この山の噴火によって、済州島は生まれたのだ。
まずは三姓穴を訪れる。文字通り、地面に3つの穴が開いている。かつてここ耽羅国を創建した高乙那、良乙那、夫乙那の三神人が、湧いて出てきたと伝えられる穴であり、神話における済州島・開闢の地となっている。三神人は、それぞれ現在の済州を代表する姓である高氏、梁氏、夫氏の先祖とされているため、3つの姓を持つ済州島民が、共同でここを維持管理している。三神人は狩りをしながら暮らしていたが、ある日、済州島の東海岸に日本から流れてきた木箱が漂着した。木箱には三人の日本国王の娘、牛、馬、五穀の種が入っており、三神人はそれぞれ日本国王の娘と結婚して農業を営み、耽羅国を開拓したという。
独立国家の耽羅国であった済州島は、1105年に高麗王朝へ取り込まれ、その後、元に支配された。元寇のとき、済州島は基地であった。この島の木材によって船が作られ、弘安の役(1281年)の際には、この島から日本に向かった船もあった。元寇と言えば、思わずいまのモンゴルが想起されるものの、実際の構成員は、朝鮮や中国にルーツを持つ人々が大半を占めていた。その後、朝鮮王朝に戻ってからは主要な流刑地となり、1910年から45年までは日本によって統治された。
第二次世界大戦後、朝鮮半島の南北分断を固定化する恐れから、済州島民は南朝鮮単独での総選挙実施に反対する。この動きを、南朝鮮国防警備隊やその後身の大韓民国国軍、民間右翼などが問題視し、島民の虐殺に至ったのが、四・三事件である。1948年4月3日に起きた島民の武装蜂起を中心に、3万人以上の人々が虐殺された。四・三事件は韓国政府によって長年にわたり秘匿にされ、2003年になってようやく「国家権力による人権蹂躙」と認められ、盧武鉉大統領(当時)が済州島を訪れて遺族に公式謝罪をおこなった。現在は犠牲者たちの墓地の立つ平和記念公園に、済州4・3平和記念館が開設されている。
平和記念館の中には、なんの文字も刻まれていない、真っ白な石碑が横たわっている。事件に対する正式な名称が定まっていないことから、まるで犠牲者たちの遺骨を寄せ集め、一つの巨大な石にしたかのような「白碑」が、薄暗い部屋に佇んでいる。さらに廊下を抜けてゆくと、犠牲者の名前が天井まで堆く刻まれた石碑が展示されている。この石碑のドームに一歩足を踏み入れただけで、胸が打ち震える。事件の存在そのものから抹消された人々が、いまここに名前が記されることで、尊厳を取り戻している。耳には聞こえない人々の息遣いが濃厚に感じられ、ただ静かに瞑目したくなる。この石碑の前に身を置いたことが、ぼくにとって済州島でのハイライトであった。
それから3年が経った2017年。四・三事件を小説で書き続けてきた作家、金石範さんの講演を聴く機会が訪れた。一橋大学の韓国学研究センターで開催された「体験と記憶の東アジア~作家・金石範が語る」である。金石範さんは1925年、済州島出身の両親のもと、大阪で生まれた。戦時中は済州島で暮らし、朝鮮独立をめざす人々と出会う。45年、大阪で終戦を迎えソウルに渡るも、翌年日本に戻り、以来定住する。金さんにとって四・三事件を済州島で体験しなかったことは、ずっと心の枷になっている。
「おまえはいつまで日本にいるのか。祖国にはもう帰ってこないのか」。1948年に韓国の友人から届いた手紙には、そう記されていた。当時、日本と韓国を結ぶ手紙は、片道一か月かかった。それでも手紙でやり取りを続けるうちに、友人は「自分も日本に行って勉強したい」と漏らすようになった。しかし49年5月に届いた最後の手紙で、友人はこう綴った。
「やっぱり俺は、多くの同志たちを置いて日本に行くことができない。その代わり、俺の愛する恋人が、日本で勉強したいと言っている。彼女は国民学校からずっと首席でいま音楽学校に通っている。石範、おまえがそっちで世話してやってくれないか。返事を待っている」。
当時学生だった金さんは困惑しつつ、それでもなんとか彼女を迎えられるよう準備を整えた。しかしこの手紙を最後に、友人からの音信は途絶え、彼女も来日することはなかった。友人は警察に捕まり、殺されたのだった。
「この話をするといつも涙が出るの。だけどすごく力が沸いてくる。死んだ友人はいつも私の中にいて、励ましてくれる。もし私があのとき韓国にいたら、彼と同じように警察に捕まって、殺されていたでしょう」。そう言うと金さんは、しばし嗚咽した。
四・三事件に立ち合えなかった悔恨は、金さんを小説の執筆に駆り立てた(この点、四・三事件を体験したからこそ書くことができないという詩人の金時鐘さんと対照的である)。全七巻から成る金石範『火山島』はその金字塔だ。作家の姜信子さんは、「金さんの作品には、『人間とは一人ずつ死んで、死体は一つでないといけない』と語る四・三事件を目撃した女性が登場する。国家は人々の記憶を盗もうとするが、金さんの作品は死者たちの記憶を取り戻そうとしている」とコメント(姜さんはエッセイ『空白を満たしなさい』で、済州空港の滑走路の横から、四・三事件の膨大な犠牲者たちの遺骨が発見されたことを受け、飛行機の離発着のたびに、骸骨がカタカタ音を立てていたという印象的な叙述をしている)。
金さんはこれに応じて、「私は死者たちに励まされてきた。四・三事件で殺された人たち、手紙をのこして逝った友。生者は私を裏切るが、死者は裏切らない。歴史とは死者たちのこと。死者を想うと涙が出るが、悲しくて出るのではない」と語った。
昨年(2021年)、金さんが絶賛するドキュメンタリー映画『スープとイデオロギー』(ヤン・ヨンヒ監督)が公開された。四・三事件の記憶を抱え込んだヨンヒ監督の母が主人公だ。冒頭、入院先のベッドの上で、母は四・三事件の記憶を語る。しかし自宅に帰ってカメラを回すうちにアルツハイマー病が始まり、ヨンヒ監督が聞けば聞くほど、母は四・三事件の記憶を手放してゆく。そんな母と共に済州島を訪れることで、ヨンヒ監督はそれまで理解に苦しんでいた母の行動──生き別れて北朝鮮で暮らし、とっくに成人している息子たちに、自身の生活が苦しくても仕送りをし続ける──を、涙ながらに理解することとなる。
さまざまな人々が済州島を訪ね、さまざまな形で発信することで、四・三事件のことが少しずつ日本でも知られるようになってきた。時間的な隔たりが広がれば広がるほど、国家によって封印されていた記憶が、人々に取り戻されるということがある。済州島における幾度もの複雑な統治と戦乱、それに対する島民たちの抗いの記憶は、いまようやく私たちの手の中に戻ってきたのである。
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