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島々の精神史 第20回

24 時間前
読了時間: 7分

西表島の洗濯風景 

辻 信行



 ここに一枚の写真がある。撮影されたのは1954年、西表島の古見集落。撮影者は民俗学者の酒井卯作先生(1925-2023)。当時まだ20代の青年である。 

 

西表島・古見の洗濯場(1954年)撮影:酒井卯作 
西表島・古見の洗濯場(1954年)撮影:酒井卯作 

 柳田国男の最後の弟子として知られる酒井先生は1954年当時、波照間島に1週間滞在し、そこから一旦石垣島に戻り、西表島の古見に上陸した。そして最初に目に飛び込んできたのが、この洗濯場の光景である。 

 

 民俗学は洗濯場におけるフィールドワークを重視してきた。どのような素材のどのような服を洗濯しているのか。それを見ることで、地域の生活水準や経済状況を知ることができる。たとえば宮本常一は次のように語っている。 

 

 女たちは汚れたものを里へ持ってかえってせんたくするのだそうであるが、その乾かされている着物や布団の皮はあまりにもいたんでいる。道ゆく人はこざっぱりした支度をしていても、日常人に見せない生活がどんなに貧しいものであるかは稲袈に何十枚となく乾してある布によって知ることができる。 

――宮本常一『日本の離島』 

  

 あいにく古見の写真では、洗濯物がどのような衣服であるか判然としない。大底朝要(1998)「古見村のくらし」『沖縄芸術の科学』(10)によると、かつて古見の人々の着る物は、すべて手織の芭蕉布と芋布であった。しかし時代とともに木綿布織り、絹布織りへと変化した。とは言えそれは、ある程度裕福な暮らしの人々に限られたようである。 

 

 女性の正装はスディナ、カカンの上からウパルというものを羽織ったが、現代では年中祭事に神司のみが着用している。男性はクンズィキィヌ (藍染めの着物) の上から羽織を着けていた。いつの頃からか定かでないが、生活に余力のある人は袴を身につけた。 

 

 軽装は、男女ともにウパル、羽織を着けず女性はスディナ、カカン以外の着物、普段着よりすこし長めのキィヌ (着物) を着けた。普段着は芭蕉布または芋布製で短めの着物のユツァマというものであった。冬はそれを重ねて寒さをしのいだ。仕事着は現在のように特別に仕事着として作ったのではなく、普段着が古くなると仕事着に当てていた。破れたものをつぎはぎして着け、ヤリカクあるいはフクダといった。 

 

 酒井先生の写真からは、余裕のありそうな身なりの人や洗濯物は確認できない。それぞれ黙々と作業しながらも、女性と子供の集う洗濯場のにぎやかさ、和やかな生活感といったものを感じ取ることができる。 

 

 それから72年後の2026年、筆者は西表島を訪れた。せっかく行くのだから、酒井先生が撮影した写真の場所を訪ねてみたい。そう思いながら古見に入り、集落をぶらついてみる。海へ向かう道を歩いていくと、前方に手入れの行き届いた花園のような庭が見えてきて、一人の婦人が作業をしている。 

 

「こんにちは」と声をかける。 

「何かお探しですか?」と婦人が言う。 

「えぇ、実は昔の写真の撮影場所を探しているんです」 

「どんな写真でしょう?」 

「この写真です」 

「まぁ!この写真のことならよく知っています!酒井先生という民俗学者の方が撮影されて、私は先生とお会いしてお手紙を交わしたこともあるんですよ!」 

 

 なんということだろう。洗濯場を探して歩き始めた直後、すぐにこのような出会いがあるとは。この婦人の名は、新盛基代さん。庭作業の手を止めて、すぐに私を洗濯場のあった場所に案内してくれた。そこは現在、美しく石段が整備され、水遊びのできる憩いの場となっていた。ここで洗濯をする人はいなくなったものの、72年前の面影を留める水場として機能している。 

 

洗濯場の現在  
洗濯場の現在  

 さて、後日新盛基代さんについて、酒井先生が生前不定期開催していた「卯作の会」の記録を遡って調べると、しばしば話題に挙がる人物であった。たとえば、こんな風に。 

 

 何事も長くやっていると面白いことがありますね。私が西表島で撮った子供の写真のなかに、「川で洗濯している人におんぶされている子供は、私です」という人がいました。その新盛基代さんは今、古見で食堂をしています。今年(2019年)の秋に八重山に行く予定なので、もしかしたら会えるかもしれません。 

 

 そして酒井先生は2019年、実に65年ぶりで新盛基代さんと会うことができた。10月19日の石垣島での講演会に新盛さんが来てくれたのだ。 

 

 新盛キヨさんはインテリで品があり、とても西表島の人とは思えませんでした。新盛さんによると、古見や小浜島の泊まったところの人はまだ生きているそうです。 

 

 とても嬉しそうに語っている。新盛さんは西表島の古見に生まれ、その後で石垣島の白保で暮らした。西表島に戻って40年になるという。竹を多用した家で筆者に急遽昼食をふるまいながら話をしてくださった。いま食堂は営業していないが、古見公民館館長や古見伝統芸能保存会会長を務め、島の伝統文化や伝承の保存に尽力されている。 

 

 酒井先生が1954年に古見で泊まったとき、就寝時にこんなエピソードがあった。区長の家で寝ることになり、家の人が蚊帳を張ってくれた。しかし畳の上には、枕と毛布一枚が置いてあるだけだ。酒井先生は、はて、どうやって寝ようかと思った。たった一枚の毛布を、畳の上に敷くべきか、あるいは畳には敷かずに掛布団とするべきか。島民はどうしているのだろうと思い、便所へ行くふりをして家のおばあさんの寝姿を見てみることにした。するとおばあさんは畳の上に直に寝て、毛布を自分の身体に掛けていた。そうかと思い、酒井先生も同じようにしたという。その頃、沖縄では食堂であっても畳の上に座布団はなかった。畳の上には直接座ったほうが涼しい。寝るときも同じようにしていたというわけである。 

 

 また、島によってはひどく写真を嫌うところもある。かつての石垣島がそうであった。しかし西表島は異なり、写真撮影を拒まれることはなかったという。おかげで多くの写真を撮ることができた。子供たちの並んだ写真も残っており、それを見て「これはあそこのオジイ、これはあっちのオバア」などと後年になって言われた。子供達の写真の中には小さい子をおんぶしている子もいる。親は赤ちゃんをしっかりおんぶするように、紐で大きい子の背中にくくりつける。子はそのまま学校へ行く。そうすると赤ん坊が泣き始める。泣き始めたらおんぶした子も困って泣き出す。そうやって子供たちは大きくなっていったのだという。 

 

 酒井先生はしばしば、「旅はまともにいくと、忘れてしまう。でも、アクシテンドが続くと印象が深くなり、よく覚えていられるものです」と語っている。それは西表島でも同様であった。 

 

 西表島では風呂が倉庫のなかにありました。そこに行くと、20歳ぐらいの若い娘さんが風呂に入っていました。「そこで待っていて構わない」と言うのに、私はビックリして飛び逃げてしまったんですね。あとから、なぜあんなに逃げたんだろうと思いましたよ。だって、途中で転んで向う脛を強く打ってしまったんですから。 

 同行者の中に医者がいたのですが、最初から「診察はしない」と言っていたんですね。 

 あの頃は医者がいない島もかなりあって、診察を始めたら切りがなくなります。そうクギを刺されていたので、いくら同行者と言っても、「診てくれ」とは言えません。ズボンの下だから、手拭いを巻きました。皆の前ではカッコをつけますが、外へ出ると足を引きずります。完治したのでいまでは笑い話ですけれど、古い人間にはそういった下らない話がたくさんあるものですよ。今は宿の設備が良くなって、面白くないですね。 

 

 さて、2020年のある日、酒井先生の自宅にNHKを名乗る女性から電話があり、古見の写真を使いたいと言ってきたという。いたずら電話だと思い適当に返事をした。その後で詳しそうな知人に聞いてみたが、電話の主が名乗った番組は存在しないという。しかし、この写真は実際にNHKの「にっぽん百名山 - 西表島 古見岳〜亜熱帯 生命の頂 -」で使用され、酒井先生は「本当だった」と仰天したという。 

 

  

 

 72年前に酒井先生が撮影した1枚の写真をきっかけに、西表島とご縁ができた。これからしばらく、ぼくはこの島に通うことになるだろう。


洗濯場の写真を持つ新盛基代さん 
洗濯場の写真を持つ新盛基代さん 

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背景画像:「精霊の巌」彩蘭弥

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