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島々の精神史 第2回

青ヶ島の洗礼 後篇


辻 信行



 八丈島を飛び立ったヘリコプターから眼下の太平洋を眺めていると、黒々とした海流が現れる。なるほど、これが黒潮か。その流れは肉眼でハッキリわかるほど早く、色合いも青黒い。八丈島と青ヶ島の間を分断するように流れる黒潮は、青ヶ島を絶海の孤島にしてきた要因の一つである。予定通りの往来が困難なことから、戦後も例外的に選挙権が与えられず、1956年に初めて国政選挙の投票所が島内に設けられたという僻地である。


 約20分で青ヶ島に着陸。ヘリポートから民宿あおがしま屋に電話する。「もしもし、予約していた辻です。いま青ヶ島に着きました」「え~~!! なんで!?」「ヘリのチャーター便に乗れたんです」「そんなはずはない。チャーター便があるなんて聞いてないよ!」


 5分後、車で迎えにきてくれた女将さんは、ぼくを幽霊でも見るかのように一瞥する。「ほんとにあんた、辻さんなの?」「はい、そうみたいです」

島の最高地点・大凸部へと向かう道

 念願の青ヶ島は、この世離れした神妙な風が吹いている。それはとくに神社に顕著である。

明治時代の神仏分離は八丈島止まりであったため、青ヶ島の神社では線香に火を灯すなど、神仏習合が残っている。青ヶ島の神社は社殿や拝殿を持たず、イシバ(石場)に祀られるイシバサマ(石場の神々)への信仰を基盤としている。イシバとはユニハ(斎場)の一種であり、海辺から拾ってきた丸石や、山から取ってきた尖った石、そして祠などがゴロゴロと転がっている。

イシバ

 手始めに、ヘリポートの裏手にある金毘羅神社を訪れる。青ヶ島は、1785年の天明の大噴火によって無人化したが、復興のため、島民の避難先である八丈島から帰島する際、渡海の安全を船頭岩松が祈願した。すると数十年間にわたって事故がなかったので、この地に金毘羅大権現を勧請したとされている。


 1785年に発生した天明の大噴火では、当時327人いた島民のうち、130~140人が死亡したと推定される。残りの島民は命からがら八丈島に避難したものの、以後50年以上にわたり、島民たちは還住(帰島活動)を模索し続けた。あまりに長期にわたるため、文化の伝承が困難になったことを含め、その間の苦闘の歴史については、柳田国男「青ヶ島還住記」や、井伏鱒二「青ヶ島大概記」に記されている。


 車をレンタルして東台所神社に向かう。鬱蒼とした繁みのなかに参道がある。背の高い青草が生い茂る山中には、約1,900個の丸石から成る石段が聳え立つ。その参道を四つん這いになりながら登ってゆく。苔むして湿り気を帯びた丸石がツルツル滑るので、一歩ずつ慎重に足場を確保しなければならない。海岸からこの丸石を一個ずつ運んで積み上げた島民の苦労はいかほどのものだろう。それにしても、人の通った形跡というものがまったくない。あとから聞くと、この夏ここを登ったのは、ぼくでまだ2人目とのこと。


 東台所神社と同じく、外輪山の頂上の輪郭に位置するのは大里神社。「上のイシバ」と「下のイシバ」の二か所のイシバがあり、上のイシバは、現在途絶してしまっている「でいらぼん祭り」の祭場であった。青ヶ島の祭事の象徴である特殊神事で、ミコが女面を付け、再生の舞いを舞う。それが終わると下のイシバに移動し、「エンダンの祭り」が行われる。今度は男面(鬼面)と女面が登場し、縁結びの舞いが舞われたという。

大里神社の参道

 大里神社からトンネルを抜けて降りてゆくと、「丸山」と呼ばれる内輪山が現れる。青ヶ島は典型的なカルデラ火山そのものなので、中央に内輪山があり、その外郭を外輪山が取り囲んでいる。丸山は富士山にたとえられ、周囲はお鉢巡りができるようになっている。天明の大噴火以降、目立った噴火活動はないものの、活火山であることに変わりはない。その証拠に、丸山の周囲は地面が熱い。地熱を利用したサウナや「ひんぎゃの塩(「火の際」が語源)」の製塩所、地熱釜の屋外調理場もあるくらいだ。

活火山を利用した地熱釜

 ぼくは、あおがしま屋の女将から渡された、クサヤ・ジャガイモ・卵を地熱釜で蒸かして食べた。クサヤを食べるのは何年ぶりだろうか。おまけに火山の地熱でクサヤを蒸かすというのは、なんとも珍妙な話である。ジャガイモにもしっかりとクサヤの臭いが染みつく。しかし、これが意外とおいしい。なぜだろう。不思議である。


 柳田国男の最後の弟子・民俗学者の酒井卯作先生は、1950年代に青ヶ島を訪れている。その頃は、火山の地熱で温かなここ池之沢集落に高齢者が住み、畑が多い岡部集落に比較的若い世代が住んでいたという。また、両集落に家を持ち、冬は池之沢で、夏は岡部で暮らす島民もいた。しかし現在、年代・季節による棲み分けはなくなった。


 また、酒井先生は「青ヶ島には娯楽がなくて、毎晩の激しい親子喧嘩でストレスを発散していました。物を投げ合ったり、殴り合ったり、それはそれは見応えのある喧嘩だったんですよ」と振り返る。2022年現在の推計人口は172人であり、島全体が高齢化している。激しい喧嘩は命に関わるという島民が多いのである。


 地熱釜の調理場から車に戻ると、なぜかエンジンがかからない。これは困った。どうやらバッテリーが上がってしまったらしい。さきほどトンネルで点灯させたヘッドライトを消し忘れ、そのままエンジンを切ってしまったようだ。いまいるエリアは島内でも辺境の地、携帯電話の電波(2014年当時)も入らない。


 ただでさえ真夏の炎天下、火山の地熱で灼熱地獄の辺り一帯に人気はなく、助けを求めて歩いても一時間以上はかかるだろう。とりあえず、携帯を持ってあたりをうろつく。10分ぐらいそうしていると、なんとか電波のアンテナが1本立った。すかさず車を貸してくれた整備工場のお兄さんに助けを求める。15分後、「しょうがないなぁ」と言いながらお兄さんがやってきて、あっという間に復活させてくれた。ありがたいことである。


 息を吹き返した車で三宝港に降りてみる。当初、八丈島から乗船予定だった「あおがしま丸」は、ここに入港するのである。荒波に揉まれる岸壁は美しい。それにしても、なんと絵画的な風景だろう。

三宝港

 酒井先生が船で渡島した1950年代の青ヶ島は、飲み水の問題が深刻であった。各家庭で雨水を貯めて飲むのだが、その水にはボウフラが沸き、とても衛生的とは言えなかった。しかし1979年、向沢取水場という大規模な取水場が完成し、ここで雨水を貯水して、各家庭に水道水として供給されるようになった。これによって島の水問題は解決をみることとなったのである。


 また、1950年代の青ヶ島には、まだ「他火小屋」が残存していた。月経や出産のとき、血の穢れの観念から、女性が「他」の家族と釜戸の「火」を別にする「小屋」が、青ヶ島には戦後まで建っていたのである。他火小屋は基本的に女性が一人で籠る小屋であるから、妊婦が一人で他火小屋に行き、一人で出産し、難産でそのまま帰らぬ人となったこともあった。他火小屋の痕跡をどこかで見られないだろうかと思い、島内唯一の商店・十一屋酒店で聞いてみた。しかし、もうどこにも保存されていないという。


「ところであんた、なんで青ヶ島に来たんだい?」店主のおやじさんから逆に質問されてしまった。前夜、八丈島のガーデン荘で同じ質問をされ、理路整然と答えたところ、夜通し「えいこば」から説教された。ここは同じ轍を踏まないよう、真逆の回答をしなければならない。


「えーっとぉ……。青ヶ島に来た、理由はですねぇ。う~ん……、まぁ、なんつうか、よく分かんないつうか……そのぉ……。直感です!!」


 一瞬の間があった後で、ゲラゲラ笑われた。


「そうか、直感か! 直感でわざわざこんな島まで来るとは、兄ちゃんも相当の物好きだね!」


 説教を免れて無事にあおがしま屋へ帰り着くと、女将さんが神妙な面持ちで言う。「あんた、帰りのヘリは予約してあんの? 船は当分来ないよ。早くヘリの予約をしなきゃ。この前も、一週間帰れなくなったお客さんがいたんだからね。宿に10万円も散財して、悲鳴上げてたよ」


 これはまずいことになった。さっそくヘリの会社に電話する。「明日のヘリは満席ですので、キャンセル待ちを承ります。明日のキャンセル待ちは8番目、あさってのキャンセル待ちは7番目です」


 一日一便、9人乗りのヘリが満席で、キャンセル待ちが8番と7番。当面、チャーター便の予定もないという。一般的にこのような状況を、「絶望的」と言うのだろう。行きはよいよい帰りは怖いの典型である。行きのチャーター便にせよ、火口付近での車のバッテリー切れにせよ、ぼくは日頃の行いが悪いにもかかわらず、なぜか今回は奇跡が起きて窮地を乗り越えてきた。しかし、ついに運は尽きたのである。あとは大人しくここ青ヶ島で、10万円になるか20万円になるか分からない無間地獄に身を浸すしかないのであろう。

外輪山から眺める内輪山の丸山

 しかし、気が付くとぼくは、八丈島へ舞い戻っていた。キャンセル待ちの優先順位が8番目にもかかわらず、翌日ヘリに乗って帰れたのである。その理由は、いまもって分からない。「もしもし、辻さんですか? こちらは青ヶ島村役場です。ヘリの会社に代行してご連絡します。定期便のキャンセルが出ましたのでご搭乗ください」「えっ!? なんで8番目なのに乗れるんですか?」「それは私どもには分かりません。島のヘリポートで聞いてみてください」


 同じことをヘリポートで尋ねたが、「それは予約センターに聞かないと分かりません」という。なんだか腑に落ちないが、とにかく乗って帰れたわけである。

青ヶ島ヘリポート

 ふたたびの八丈島である。青ヶ島側に位置する千畳海岸に出てみると、高波がゴツゴツした岩場に当たって千々に砕け、飛沫となってこちらの顔まで飛んでくる。これでは船もしばらく出ないだろう。


 ぼくは青ヶ島で帰り際に商店のおやじさんから言われたことを反芻していた。


「車のバッテリーは上げるし、青ヶ島に来た理由は「直感です!」って言うし、随分頼りない奴だなぁと思ってたけど、スッと来てスッと帰れちゃうんだもんな。やっぱり島の神様は、兄ちゃんみたいな真正のアホが好きなんだろうねぇ」


 八丈島では「この馬鹿!」と怒鳴られ、青ヶ島では「真正のアホ」と感心されたぼくは、幸か不幸か、馬鹿とアホを丸出しにすることで、青ヶ島という絶海の孤島にスッと行ってスッと帰ってこれたわけである。今度行くときは、事前にきちんとヘリの予約をして、もう少し長く滞在しようと計画してはいるものの、その後、青ヶ島に渡島できる機会は訪れていない。やはり馬鹿とアホを徹底的に極めなければ、再び門戸が開かれる日はやってこないのかもしれない。

八丈島から望む青ヶ島

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