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島々の精神史 第10回

神仏習合の茶の味

辻 信行


 「酔ってんの?」

 「ラリってんの?」

 「自己啓発セミナーでも受けてんの?」


 普段はネクラで無口、何事にも無感動で淡々としている筆者が、いきなり旅先から「絶景絶景! 死ぬほど絶景!! 日本じゃないよ、この絶景!!」などとメッセージを添えて友人たちにバンバン写真を送りつけた結果、帰ってきた言葉である。


 「類は友を呼ぶ」とはよく言ったもので、ひねこけたマセガキがそのまま大きくなった筆者の周りには、やはりへそがひん曲がって斜に構え、何事も批判的に疑ってかかり、自縄自縛に陥って、いつもうんうん唸っているような人間たちが寄り集まっている。よって、うっかり旅先で開放的な気分になり、素直な感動をストレートにラインする、などといった愚行を犯すと、ろくなことにはならない。


 しかし、そうせざるを得ないほどの喚起力を、隠岐は持っている。書斎派のイメージで塗り固められたレヴィ=ストロースが狂喜乱舞し、「暗い」だの「寂しい」だの腐しておきながら、宮本常一には「ぜひ行くように」と推薦した柳田国男の屈折した心情までもが慮られる始末である。


 筆者がもっとも感激しておかしくなったのは島前の知夫里島である。赤ハゲ山の頭頂部に向かって車を走らせると、あたり一面が徐々に禿げてゆき、優雅な高原地帯で牛が放牧されているエリアに到達する。強風の影響で木が大きく育たず、土も赤いことから「赤ハゲ山」と呼ばれているのだ。頭髪についての自虐ネタを大教室で披露し、すべり続けてもなお、めげずに芸を続けている哲学者・中村昇先生の辛苦が頭をよぎり、思わず涙が出そうになったが、それはさて置き、赤ハゲ山のてっぺんで360度を見晴らしてみる。


 まるでスイスとアイルランドを足して2で割ったような眺望である。牛の点在する長閑な丘陵とその先の穏やかな内海、さらに入り込んだ島前カルデラの地形を望むことができる。



 この内海は古来、嵐で波が高い時に、周辺を航行している船が避難するために使われてきたという。知夫里島、西ノ島、中ノ島の3島が、天然の防波堤となって、船舶を守ってきたのである。



 赤ハゲ山に限らず、隠岐で飼育されている牛たちは、ここでそのまま成長して最期を迎えるのではなく、日本各地へ送られて、その土地のブランド牛として育てられる。せっかくこんな絶景で育っているのに、もったいない気がする。「隠岐牛」が地味というなら、「カルデラ牛」「絶景牛」「スイスとアイルランドを足して2で割った牛」などといったブランド名で売り出してみてはどうだろうか。


 赤ハゲ山の近くにある赤壁は、国の天然記念物に指定されており、この島の創成期の噴火活動の痕跡を示している。マグマには鉄分が多く含まれるため、空気に触れて酸化鉄になると、赤い錆び色に変色し、それが溶岩として降り積もる。そして長い歳月で激しい波風に削られ、断面がむき出しになると、「赤壁」の完成である。



 ユネスコ世界ジオパークにも指定されている隠岐のダイナミックな地形は、総じて日本列島よりも、韓国・済州島に近い。あるいはユーラシア大陸の離島、と言った方が適切かもしれない。小さな連絡船に乗って西ノ島へ移動し、国賀海岸の摩天崖へ出たとき、改めてそう思った。そして、緑なす台地、その先の断崖絶壁は、まさにアイルランドのアラン島を想起させる。夏場でも平均最高気温が20度を超えないアラン島に比べ、隠岐は対馬暖流の影響で年間を通して温暖である。芸術人類学者・鶴岡真弓先生はしばしばアラン島に言及されるのでずっと行ってみたいと思っていたが、思いがけず日本のアラン島には、いまこうして到達することができたわけである。




 摩天崖の上では、馬が放し飼いになっていて、遊歩道が馬糞で溢れている。天にも昇るアラン島の絶景を眺めながら、馬糞を踏まないように細心の注意を払い続けるのは、さながら「天国と地獄」であるが、馬糞の多くは乾いているので、踏んづけても悪臭に悩まされることはない。


 西ノ島の近現代史において、松浦斌(まつうらさかる/1851~1890)の存在は重要である。焼火(たくひ)神社の宮司であり、「隠岐航路開拓の先駆者」である。明治時代初頭まで、隠岐と本土の間の往来は帆船しかなく、片道1週間程度かかり、波が高ければ航行は困難であった。1883年に定期船が就航するも、採算性の問題からすぐに廃止されてしまった。


 そこで隠岐国四郡町村連合会(以降、連合会)の議員でもあった斌は、公費による蒸気船の購入を提案した。しかし隠岐島議員は資金面から、廻船業者は商売面から、漁師たちは漁業への悪影響から反対する。それでも斌はあきらめなかった。購入額の半分を自ら負担すると表明し、隠岐四郡郡長と島根県令の支持を得て、イギリス製の蒸気船「隠岐丸」(131.52トン)を購入。1885年に定期船として就航し、ラフカディオ・ハーンもこの「隠岐丸」で渡島した。


 蒸気船の購入額は、現在の価格で約9,400万円である。いくら連合会と均等に折半したとは言え、斌の負担は相当なものである。しかも斌の負担はこれで終わりではなかった。定期航路で営業上の損失が生じた場合、これも連合会と均等で負担することとなったのである。斌は所有する焼火山の山林約1万9,000本を欠損時の担保としていたが、けっきょく定期航路は赤字を積み重ねた。これにより、焼火山は伐採が進められて禿山になった。斌はこの労苦がたたって病に倒れ、38歳の若さで他界したのである。


 その後、定期航路の運航は連合会で島営として担われ、1895年には隠岐汽船株式会社が誕生して現在まで引き継がれている。隠岐汽船は斌の眠る焼火山の沖合を通過するときは、「汽笛一声」と称し、斌に敬意を表すために汽笛を捧げてきた。西ノ島の別府港には斌の銅像が立ち、その功績が説明されている。


 その別府港で現在の宮司、松浦道仁さんと待ち合わせる。松浦宮司は宗教哲学者・鎌田東二先生の國學院大學時代の同級生である。とてもユニークで才能豊かな方であり、西ノ島にスタイリッシュな図書館「いかあ屋」まで設立された(「いかあや」は、西ノ島弁で「行こうよ」の意味。この図書館が目当てで島にやってくる学生も多い)。


 焼火山の頂上に建つ焼火神社に向けて、長い階段をのぼりながら、松浦宮司のお話を伺う。「鎌田はね、学生時代から変わってましたよ。断食をやるんだとか言ってね。ホントに何日も飲まず食わずで、フラフラになってね。あいつは馬鹿ですよ」。こちらは断食をしているわけでもないのに、長いのぼり階段が続き、フラフラしてきた。断食など、一生できそうもない。今回の隠岐滞在は、歴史学者で中央大学教授のイ・ヒョンナン先生と、大学院の先輩で韓国の総領事館に勤務してきた新井佑一さんと一緒である。新井さんは底なしの体力の持ち主だが、ヒョンナン先生は階段をのぼると聞いた瞬間からフラフラしている。大丈夫だろうか。



 松浦宮司が気を利かせてゆっくりのぼってくださったおかげで、小一時間でなんとか三人とも頂上の拝殿にたどりつくことができた。ヒョンナン先生が感嘆する。「韓国のお寺にそっくり!」そうなのだ。この建物は神社と言うより寺である。「私の4代前までは、宮司ではなく、住職と呼ばれていたんですよ」と松浦宮司が言う。なんでも、廃仏毀釈の波を受ける明治以前は焼火山雲上寺であり、現在も神仏習合の名残に焼火権現と号されている(焼火神社のある西ノ島を含めた島前の神社は現在でも神仏習合の趣を残す一方、隠岐空港のある島後は廃仏毀釈の弾圧がより強く、寺院は圧倒的に少ない)。


 拝殿の隣の嚴は、「焼火」という名称の起源にもあった火の玉伝説の舞台である。海上から火の玉が三つ浮かび上がり、この巨大な奇岩に入っていくのを目撃されたのが焼火神社の縁起である。歴史的に焼火神社は灯火を灯し、夜間の船舶に対して灯台の役目を果たしてきた。この灯火は、もともと伝説の火の玉であったとされている。いずれにせよ、灯台としての焼火神社の役目もまた、厚い信仰を形作ってきた。


 本殿の少し手前に、趣のある建物がある。住居にもできる実利性を備えていて、2階に上がると、とても見晴らしが良い。松浦宮司が自ら、抹茶を点てて出雲名産の羊羹を振る舞ってくださった。松浦宮司の母上は出雲の人であるという。かつて出雲の農村では、農作業の休憩中、田んぼのあぜ道に腰かけて抹茶を点てて飲んだという。小さなお茶碗で、羊羹を菓子にして、肩肘張らずにぎやかに喋りながら楽しんだものだという。


 実は隠岐に行く少しまえ、宗教学者の島薗進先生と一緒に、あるお茶室に伺う機会があった。伝統文化の風流を学ぶこの上なく貴重な機会であったが、正客の島薗先生が「緊張して、お茶の味がよく分かりません」とこぼすほどの会で、こちらとしては「緊張して、心臓が動いているか分かりません」という状況であった。その分、焼火神社ではいわゆる「茶道」の礼節を気にしなくて良かったので助かった。


 つまり、農作業の休憩で飲む抹茶の延長なのである。いまでこそ、抹茶を使ったドリンクやスイーツが全世界的に流行しているが、「抹茶を気軽に楽しむ」ということの先駆けを、出雲の農婦たちは実践していたのである。松浦宮司が焼火神社で点ててくださった神仏習合の茶の味は、心身の力みをほどくまろやかさと、ラフカディオ・ハーンの求めた神秘の泉へと誘うような不可思議な奥深さをあわせ持っていた。


焼火神社にて(撮影:松浦道仁宮司)


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