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少女漫画と物語 第4回

大人とぬいぐるみ

鈴木愛美



 

 私はぬいぐるみと暮らしている。10年くらい前になんとなく小さなクマのぬいぐるみを連れて外出した際、(連れて歩きはせず、車の中に置いていたが)自分でもこの年齢でこの行動はちょっとやばいのではないかと思ったが、その後もぬいぐるみは少しずつ増えていき、接する時間も増えた。うちにいる10数匹のぬいぐるみはみんなそれぞれのキャラがある。別に設定しているわけではなく、一緒に暮らしていると勝手に性格ができてくるのだ。


 昨年はロンドンに3匹のぬいぐるみを連れて行き、アビーロードで写真を撮った。周りの観光客たちがビートルズになって写真を撮る中、ぬいぐるみと横断歩道を撮っているような奴は私だけだったが、変な目で見てくる人もいなかった。ちなみに私にはぬいぐるみを撮るより自撮りの方がよほどハードルが高いので、ぬいぐるみと自分を自撮りはしていない。


 大人とぬいぐるみの海外事情は知らないが、日本では近年両者の関係が浸透してきたように思う。そういえば誰も大人がぬいぐるみで遊んだら恥ずかしいとは言っていない気がするので、その前提自体私の自意識過剰かもしれないし、環境が云々というより私自身が年齢を経るごとにあまり周りを気にしなくなってきたこともあるかもしれない。とはいえ両者の関係が理解されてきたように思えるのは、棋士の渡辺明名人とフィギュアスケーターの羽生結弦くんのおかげもあるのではないか。『将棋の渡辺くん』を読むと私などまだまだだと思うし、一方で羽生くんが競技会のキスアンドクライでうっかり落としてしまったプーさんに本気で謝っているのを見ると大変共感する。さらに今はちょうど映画『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』も公開中である(この原稿を書き終えたら観ようと思っている)。


 漫画でも、登場人物とぬいぐるみの親密な関係は度々見られる。私の世代だと『姫ちゃんのリボン』のポコ太を思い出す人も多いのではないだろうか。姫ちゃんの大切なぬいぐるみポコ太は姫ちゃんが魔法の力を持つとしゃべり出し、以来常に傍らにいる相棒となる。最近の漫画だと、渡辺ペコの作品にはよく悩める大人の内面を映し出す「もう一人の自分」的な存在が現れるが、『にこたま』ではクマのぬいぐるみ、「むるたん」がそういう立ち位置だったように思う。


 そんな中、とりわけおもしろいなと思うのは近藤聡乃の『A子さんの恋人』に出てくるぬいぐるみのクマと大人たちの関係である。この作品は主人公のえいこが3年ほどニューヨークで暮らして東京に帰ってくるところから物語が始まる。クマはものが少なく身軽に生きている(と思われがちな)えいこにとって数少ない「ずっとそばに置いてる物」である。だがえいこがそれほどクマに執着しているようには見えない。クマは一応物語の最初から最後まで登場し、ニューヨークでも東京でも物理的にはえいこのそばにいる。しかしクマが渡米したのは母親が勝手にスーツケースに入れたからだし、えいこはそんなクマを到着するや否や「使わないけど捨てない物入れ」に「ぽい」と入れて放置した挙句、その箱を恋人A君に託し、帰国後しばらくしてからその箱が送られてきて二人(一人と一匹)は再会する。そんな具合にクマはだいぶ放っておかれている。なのに、4巻を過ぎたあたりからこのクマは俄然存在感を増しはじめ、徐々にメインキャラクターの一匹にまで上り詰めるのだ。


 クマは大抵セリフもなく床に転がっていたり、気ままに動いたり、ときどき「お腹すいた」とか「箱から出せ」とかわめいて暴れたりといたってマイペースである。えいこは恋人A君と元彼A太郎との三角関係に答えを出せずいつも悩んでいるが、クマはときどき三角関係に口出しはするものの、別にもう一人のえいこというわけでもない。えいこだけでなく恋人たちや友人たちにもひょいひょいとついていき、時に国境まで超えてしまう。なんだか要領が良くて自立したクマだな……と思っていて気づいたが、クマもたぶんぬいぐるみなりに自立した大人なのである。


 『A子さんの恋人』には「いい大人じゃない大人」と「いい大人」が話題になる回があるが、頻繁に出てくる移動の話や描写は、おそらくこの漫画の中で大人の基準にけっこうかかわっている。えいこ、A君、A太郎の3人は、それぞれの関係において重要な局面で、揃って「お金はこういう時にこそ使うものなんだから」と長距離のタクシーや東京-アメリカ間の飛行機(ビジネスクラス&普通運賃)にお金を惜しみなく使う。自分で稼いだお金を自分で選んだタイミングで惜しみなく使えるのは、精神年齢はさておきある程度大人の証拠だ。言い換えれば、大人はどこにでも行けるのだ。さらにこれらの場面にはいつもクマがいて、クマはえいこや恋人たちに連れて行かれるのではなく、勝手に車に乗り込んだり鞄に潜り込んだりして自分からついていく。ぬいぐるみはお金を出せないので、人間と同じレヴェルで「自主的」に移動することはできないけれど、人間の意志で連れて行かれるのではなく、自分でついていくという点でぬいぐるみなりの自立ぶりを見せている。そして先の話と矛盾するようだが、自立してくれているおかげで、漫画の大部分、えいこはぬいぐるみを自分で連れ歩く「ヘンな大人」にならないで済んでいる。大部分、というのは、実際ぬいぐるみを抱えて泣き顔で電車に乗るえいこを見て乗客がどよめく場面もあるからだ(乗客は泣き顔だけでなく、クマにも反応している)。


 先の「大移動」ののち、えいこがA太郎の家から走って帰る場面と、A君の家へと急ぐ場面は対照をなしていると私は考えているが、なぜかというとどちらの場面でもえいこがクマを抱えて走っているからだ。クマを抱えている場面は他にもたくさんあるが、この二つの場面では、クマはデフォルメされたキャラクターとしてではなく、ぬいぐるみそのものとして写実的に描かれている。つまり自立したクマのぬいぐるみとしてではなく、えいこが「ずっとそばに置いてる」ぬいぐるみとして描かれているのだ。クマが自立したキャラクターとして好き勝手に行動することで、えいこの大人としての立場が担保される一方、恋人たちとの関係が変わるかもしれない重要な場面でリアルに描かれる「ぬいぐるみ」は、クマが放ったらかしてもずっとそばにいた変わらない存在であるという点で、変化を前に動揺し、何かにすがるようなえいこの気持ちを、また同時に、大人だろうがなりふりかまっていられない彼女の焦燥感を演出しているようにみえる。


 このクマを見ていると、私が近年ぬいぐるみを旅先に連れていくのがそんなに恥ずかしくなくなってきたのも、私にとってもぬいぐるみたちのキャラが出来上がっているから、「連れていく」というより彼らが自主的に「ついてくる」感覚になっているからかもしれないなと思う。それでも傍目には(私にもだけれど)ぬいぐるみなので、堂々と連れ歩いたらえいこと同じくどよめかれるのだろうけど。大人であることをいい意味でわきまえつつ、今後も仲良く暮らそうと思っている。

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