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少女漫画と物語 第2回

「白眼子」と『舞姫 テレプシコーラ』と見た目の問題

鈴木愛美



 

 私は山岸凉子先生の漫画のファンである。山岸涼子の作品はとにかく怖い。怪奇譚も怖いが、日常に潜む人間の狂気を描いた作品のほうが圧倒的に怖い。山岸作品を読んで「この登場人物は自分だ」と我が身を省みたことのある人も少なくないのではないだろうか。私は20代半ばの頃に「天人唐草」(1979)を電車の中で読んでみるみる呼吸が浅くなり、不安に駆られたまま自宅に帰りつくや友人に電話してしまったことがあるが、のちに発表当時の女性読者たちがみんな同じようなトラウマを経験したと知って妙に安堵した(しかし、未だに怖くて読み返せない)

 

 そんなわけでファンを自称しながらも一作一作の衝撃度があまりに大きいので、心に余裕のあるときにだけ読むようにしていたら未だに読んでいない作品がそれなりにある。しばらくは脳内で厩戸王子やテレプシコーラの少女たちに想いを馳せていたが、久しぶりに何か新しい作品を読みたいと思っていたところ、近所の書店の「怖い話フェア」に『山岸涼子スペシャルセレクションⅠ わたしの人形は良い人形』(潮出版社)という、リアルな日本人形が表紙の、見るからに怖そうな作品がタイムリーに並んでいるのを見つけ、立ち読みをした勢いで(そしてそこまで怖くなかったので)買って帰った。


 『わたしの人形は良い人形』は表題作を含め、5本の作品が収録されたアンソロジーである。ほとんどが怖い話だが、最後に収録されていた「白眼子」(2000)があまりにいい話すぎて読後しばらく呆然としてしまい、数日間この漫画のことばかり考えていた。というと以下「白眼子」の魅力について続きそうなものだがそうではなく、ここでは「白眼子」を読んで連想したもう一つの山岸作品と、二つの作品をゆるやかにつなぐ、少女漫画の「見た目」の問題について考えてみたいと思う。


 白眼子とは作中の登場人物の名前で、超能力のようなもの(作中に「易占ではない」という台詞がある)でお祓いや透視をする盲目の男性である。実在の人物をモデルとしているようで、作中には昭和35年当時の新聞広告をトレースしたコマがある。

 物語は白眼子とその姉の加代に引き取られた戦災孤児、光子の視点から彼女の人生に即して語られる。「光子」とは自分の正確な名前がわからない、幼い彼女に白眼子がつけた名だ。当初は見知らぬ他人との暮らしに戸惑い、不思議な力を持つ白眼子やきつい性格の加代を恐れた光子だが、次第に彼らとも打ち解け、養女となり、二人との生活に居場所を見出していく。

 光子は世間一般でいう美人からは程遠く、顔には眉間から口元を結ぶようにして三つのホクロが一直線に並び、初対面の加代には「なんてブサイクな子だい」「顔中ホクロだらけじゃないか」と罵倒される。光子自身も思春期を迎えると容姿にコンプレックスを抱くようになるのだが、この特徴的なホクロが彼女と生き別れた親類とを引き合わせる奇跡をもたらす。ここで光子は自分の名が実は「道子」だったことを知り、親類のもとへ身を寄せたまま白眼子兄妹とは疎遠になるのだが、あることをきっかけに十二年後に彼らと再会を果たす。

 本書を読みながら、私は同じく山岸凉子の代表作『舞姫 テレプシコーラ』(以下『テレプシコーラ』と表記)のことを思い出していた。というのはこの二作がどちらも登場人物の容姿の醜さにかなりフォーカスする話だったからで、調べてみると「白眼子」の直後に連載が始まったのが『テレプシコーラ』だった。


 『テレプシコーラ』は第一部が2000〜06年、第二部が2007〜10年にそれぞれ連載された。バレエをめぐる少女たちの物語だが、いじめ、摂食障害、児童ポルノ、DV、貧困、医療ミスなど2000年代のあらゆる社会問題が盛りこまれた作品でもある。

 私は「白眼子」の幼少期の光子の顔つきを見て、『テレプシコーラ』の主人公篠原六花のクラスメイト、須藤空美を思い出したのだが、おそらく空美は光子よりずっと醜い少女として設定されている。空美は容姿のせいで学校ではいじめに遭い、加えて家庭では貧困と父親のDVに苦しみ、母親からは生活のため児童ポルノのモデルを懇願され、虐待・搾取されるという過酷な環境に置かれている。一方で元バレリーナの伯母の指導によりずば抜けたバレエの技術と身体能力を有しており、バレエに並々ならぬ熱意を抱いているが、貧困ゆえに日々のレッスンすらままならない。



 女性のコンプレックスは山岸作品に頻出のテーマだが、当時の山岸先生は特に見た目の問題——今ならルッキズムとラベリングされるのだろうが——に関心を寄せていたのだろうか。ただし、同じく不器量な女の子にフォーカスしているといっても、光子と空美の描かれ方はけっこう違う。


 「白眼子」で、光子のホクロは彼女自身のコンプレックスではあり続けるが、社会生活においてその容姿が問題になることはなく、彼女は複数の養子先で大切にされ、結婚、出産と女性のライフステージを試練に直面しつつも順調に歩んでいく(ネタバレになるので詳しくは書かないが、「ホクロに対するコンプレックス」の意味合いも変化していく)


 それに対して、空美の容姿はジェンダーの問題と絡み合いながら、明らかに彼女を生きづらくさせる要素として働いている。空美のバレエを見た六花は「あの男か女かわからない須藤さんがものすごくきれい!」と感嘆し、彼女の踊りを見た者は、伯母を除く誰もが空美の顔のことなど意に介せず見惚れてしまう。だが、現実にはバレエの世界は多くのスポーツと同様にそもそも男女の別が明確であり、少なくとも作中ではそれらが見た目の問題と大いに接続されている。空美がコンクールに男子と偽って男子枠で出場する背景には、彼女の容姿が王女やお姫様役を踊るのにそぐわないという伯母の判断があるのだし、体型に悩み摂食障害に陥る少女が登場したり、コンクールの審査に審査員の容姿の好みが関わっているのでは? と指導者が疑いつつも仕方なしとする場面が描かれたりと、見た目が少女たちのバレエ人生を左右することを示す描写が随所にちりばめられている。


 空美は学校では顔立ちのせいで「男子」扱いされていじめの標的になる一方、彼女の女性としての身体は児童ポルノの被写体として商品化され、消費される。ただし、女性といっても商品になるのは成熟していない男の子のような身体のみで、撮影時に彼女の醜い顔は常に帽子や布や仮面で覆い隠され、文字通り身体が引き裂かれたかのような様相を呈す。レッスン中にポルノの過激な撮影がフラッシュバックした空美が吐き気をもよおし、「わたしが何を踊るというの?」とバーを握りしめるとき、彼女が踊れなくなるのは身体が記憶によって引き裂かれてしまっているからだ。バレリーナとしてだけでなく、人間としての尊厳が傷つけられた少女の悲痛な叫びが響く場面である。

 

 光子と空美の共通点として興味深いのは、ともに途中で名前が変わり、なおかつそれが常に容姿の問題と関わりつつ、彼女たちの人生の転機となっている点である。

 光子がホクロをきっかけに親類と再会し、そこから「道子」と呼ばれるようになるのは前述の通りだが、光子は白眼子たちと過ごした「光子」としての自分と、「道子」として新たな人生を歩む自分のどちらも肯定し、受け入れながら生きていく。だが、空美が名を変えるのはそれまでの自分を上書きするときだ。

 空美の名前は作中で2回変わる。最初は「須藤空」として、その容貌を逆手にとり男子としてコンクールに出場するときである。ここで彼女は性別を偽ったことが発覚してコンクールを途中棄権するだけでなく、六花たちの前からも姿を消してしまう。

 二度目は「ローラ・チャン」という名の美女バレリーナとして再び六花の前に姿を表すときである(六花は様々な符号からローラと空美を同一人物と判断するが、作中でその真偽は明らかにされない)。整形手術によってなのか、ローラの顔には空美を思わせる骨格などの身体的特徴は何一つ残っていない。加えて従来の解釈ではありえないデザインの衣装をまとったローラを見た六花は「あの衣装は身体能力と容姿に絶大なる自信がなければ着ることはできない」と感じる。

 ただバレエをするためだけならば、必ずしも美女になる必要はないはずである。なぜ空美は圧倒的な「美女」として舞台に戻ってこなくてはならなかったのか。作中で六花も思いを馳せるように、この振れ幅にこそ過去を抑圧し抹消しようとする空美の思いの強さが見出されるだろう。加えてそこには、バレリーナとして、また一人の人間として彼女自身の——空美自身の言葉としては語られなかった——容姿に対するコンプレックスもまた込められているのではないだろうか。物語において、空美のバレエに魅了される者は、誰一人として彼女の顔のことをネガティヴには捉えていなかったし、空美が自分の容姿を自ら卑下する場面が描かれることもなかった。それでも自分の容姿があらゆる人から蔑まれるのを、彼女はいつも無言で聞いていたのだから。


 「白眼子」と比較すると、「見た目」の問題はバレエという主題も相まって『テレプシコーラ』でより深化させられているといえるが、「醜さ」にフォーカスしつつ、全く異なる人生を歩む二人の女性を描いたこれらの物語は、「見た目」が私たちの人生を変えうるものであることを改めて気づかせてくれる。それは光子の物語が示すように、美しさを目指すことが正義であるとか、見た目に関するコンプレックスを何か別のもので補おうとすることを一面的に推奨するものではないのであり、他方で空美の物語は、「見た目がすべてではない」といった綺麗事では決して済ますことのできない見た目の問題の根深さを見せつける。

 今回は触れる余裕がなかったが、トミヤマユキコが指摘するように「全てのブサイク女子がじっとりと暗い性格で、美人を妬み、いつか大変身してイケメンと恋がしたいと思っているわけではない」(トミヤマ 129)のであり、少女漫画には、美しくなったり、片思いの相手と結ばれたりすることだけがゴールではない、という展開にもっとフィーチャーした作品も、美人であるがゆえの苦しみを描いたものもいくらでもある。そして少女漫画において、見た目の問題と格闘する女性たちの姿が形を変えながら何十年も描かれ続けているという事実そのものに、私たちはもっと意識を向けなければならないだろう。



引用文献

トミヤマユキコ「ルッキズムの解毒剤ブサイク女子マンガについて」『現代思想』11月号、2021年。



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