コロナと文化的怠慢
鈴木愛美
今月から文章を書かせていただくことになった鈴木愛美です。普段は大学院で小説の研究をしています。
「少女漫画と物語」といっても、ここで少女漫画と物語について何か考察しようとしているわけではなく、私がふだん漫画そのものでも映画でも小説でも何でも、物語と呼べるものや物語のありそうなところに少女漫画と響き合うものを見つけてはキュンとする日々を過ごしているところから来ています(あまりにシンプルなので、すでに何かの書名などになっているのではと心配になりググってみましたが、幸いなさそうでした)。
そもそも私はタイトルをつけるのが非常に苦手で、何も思いつかないままひとまず原稿を書き始めたのでしたが、研究のことは論文に書けたらと思うし、関連するトピックでちょっとかじった程度のことを私が書くよりは、それらについての本などを読んでもらった方が圧倒的に良いだろうし……というのでこちらも悩んだ末、誰にも共通の話題で、この春に振り返って考えることも多かったコロナ禍のことから書いてみることにしました。
原稿が完成に近づいたところでようやくタイトルも決まり、そうすると不思議と少女漫画と物語っぽいことを書きたい気持ちも湧いてきましたが、それは次回以降にトライしてみようと思います。
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最初の緊急事態宣言が発令されてから丸2年が経ち、まだまだマスクは外せないながらも徐々にウイルスと共存していく生活形態に移行しつつある今となっては忘れつつあったのだが、2020年2月3月の手帳を見返すと、書き込んでいた予定が軒並みグレーのマーカーで消されており、楽しみにしていたピクシーズのライブを筆頭に、その他の各種イベントもすべて中止になり、打ちひしがれるというより困惑した記憶がよみがえる。
自分が国に管理される一国民なのだということを生まれて初めて自覚して虚しくなり、小説でしか見たことがなかったcurfewという単語を現実世界で連日耳にするようになったことがとても奇妙だった。
文学系の大学院生は文献を集めて読んで考えて書くというのがおそらく基本的な研究スタイルなので、変化といえば授業や学会がオンラインになったことくらいで、さほど影響はなかったような気もしていたが、思い返してみると、海外調査のチャンスは失われ、他大学の図書館にも入れなくなり……とブレーキのかかる場面が多かった。
Zoomが浸透したおかげで遠方の学会にも参加できるようになったり、移動時間が短縮できたりと選択肢が増えた面もあるが、一人一人が等分化された枠に収まった固い画面に向かって話すという行為には未だに慣れない。
自分の発した声が行き所をなくしまったようで、相手に届いているのかどうか不安になり、どうも一語一語なぞるように話してしまう。目の前に話し相手がいるときには、相手の身体が自分の声を吸収してくれている感覚に無意識のうちにだいぶ安心感をもらっていたことに初めて気がついた。緊急事態宣言明けに数カ月ぶりに友人たちと顔を合わせたときには、発声の調子や物理的な距離のとり方がほんとうにわからなくなっていた。
なんだかネガティヴなエピソードばかり書き連ねてしまったが、そんな風に日常言語や身体のモードが変わってしまったことにそれなりにストレスを感じていた一方で、外出自粛を余儀なくされてから、「出かけなくてもいい」ことに安心感を覚えたのも確かだった。
なんとなく、家にずっと居るのは良くないこと、という意識が私には子どもの頃からずっとある。
近年は外出するとすべきことを疎かにしているようで、それはそれで罪悪感のようなものを感じもするのだが、どちらかというと何日も家にいて全然身体を動かさないほうが落ち着かない。外の陽気を感じながら机に向かうのが、もったいないように感じてしまうのだ。だから雨の日は出かけなくていい理由があることに安心していた。
そういう面倒な葛藤を抱えている身としては、家で堂々と読書や作業ができる状況が楽でもあった。今が一時的な非常事態で、いずれ終わるときが来ることを考えると奇妙な時間のようにも感じられたが。同時に、新しい日常の中で家に「居られる」自分を発見したことで、それまで美術館や映画館には見たいものがあるときに出かけていたつもりだったのが、どこか強迫観念を抱えながら出かけていたのかもしれない……と感じるようになり、各種文化施設が徐々に再開しても、以前のようなフットワークが戻ってこなかった。
そんな自分の文化的怠慢にはっとさせられたのが、年明けに飛び込んできた岩波ホール閉館のニュースである(★1) 。
実際に同館に足を運んだ回数はあまり多くないが、岩波ホールで上映された映画にはフランソワ・トリュフォーの『緑色の部屋』(切実にDVDかBlu-ray化してほしい)やリンゼイ・アンダーソンの『八月の鯨』、ジョージアの監督ザザ・ウルシャゼの『みかんの丘』など、思い入れのある作品がたくさんある。
フランス映画社が倒産したときもそうだったが、流行に関係なく堅実に良い文化を生み出し紹介し続けている組織は生き残ると根拠もなく信じ込んでいた私は非常にショックだった。もっと通うべきだったというのではなく、そもそもその「良い文化」に対する執着が薄れつつあったことに危機感を覚えた。
いつも髪を切ってもらっている美容師さんに、他のお客さんから聞いた話として教えてもらったことだが、美術館や博物館はその空間に行かないと観られないという点で、映画館より集客力に関して強いのだそうだ。
確かに今は配信で映画がいくらでも見られるし、建築自体が絵になる美術館の方がSNSでも「映え」るのだろうなあ……と頷きながら聞いていた。ところが、2022年に入ってから私が映画館で観た濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』とフレデリック・ワイズマンの『ボストン市庁舎』はどちらも大盛況だった。
前者はちょうど外国映画賞の受賞ラッシュに沸いているところだったので、連日満席というのも納得だったが、驚いたのは世界的巨匠の話題作とはいえ、休憩込み5時間という長尺の後者もそれなりに席が埋まっていたことだ。
長尺映画といえばテオ・アンゲロプロスの『旅芸人の記録』(230分)などヒット作が少なくない。もちろん作品そのものの魅力が第一にあるはずだが、極端な長さも人のチャレンジ精神を刺激するのだろうか。
実際に私も「5時間」という数字にひるみつつ、数人でイベントのような気持ちで観に行ったのだが、映画はとても興味深い内容だった。正直所々でうとうとしてしまったし、長さが気にならなかったといったら嘘になるが、少なくとも早く終わらないかなという気持ちにはまったくならず、ボストンの日常と労働の風景や、行政と市民の饒舌な議論に引き込まれた。
ところでこの『ボストン市庁舎』の集客には前々作 (★2)『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』のロングランヒットも間違いなく関わっているはずである。そして『ニューヨーク公共図書館』を日本で最初に劇場公開したのは岩波ホールだった(★3) 。
今年はたくさん劇場と美術館に足を運ぼうと思う。
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註
★1──コロナ禍の影響による運営困難のため、2022年7月29日を以て閉館予定。
★2──前作はMonrovia, Indiana(2018)で日本未公開。日本公開作品としては『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』(2017)が前作にあたる。
★3──最初の上映は2017年の山形国際ドキュメンタリー映画際。
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