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宗教の名著巡礼 第9回


日本仏教における戒律をめぐる葛藤の歴史

──松尾剛次『増補 破戒と男色の仏教史』平凡社ライブラリー、2023年10月──

島薗進



軽視されてきた戒律復興運動 

 著者の松尾剛次氏は、日本仏教における戒律をめぐる葛藤の歴史について考察を続けてきた宗教史研究者である。松尾氏のこの研究が革新的であるのは、従来の研究では日本仏教における戒律の意義という問題が軽んじられてきたことによる。戒律という視点が軽視されてきたためにうまく理解できていなかった事柄が日本宗教史のあちこちに見られる。それらを拾い上げていくことで、日本宗教史、とりわけ日本仏教史の見え方が大きく変わってくるのだ。本書は2008年に初版が刊行されているが、この度、増補されてより読み応えがある叙述となって再刊されたことを喜びたい。

 一つの焦点として江戸時代から明治維新後に至る時期の戒律復興の動きがある。明忍、慈雲飲光、福田行誡、大内青巒、釈雲照、渡辺海旭といった名前が思い起こされるが、十分にその意義が問われてきたとはいいがたい。もう一つの焦点として、鎌倉時代から室町時代、すなわち13世紀から14世紀にかけての西大寺を拠点とした真言系の戒律復興の動きがあり、叡尊、忍性といった名前が浮かんでくる。松尾氏はこの中世日本の戒律復興の動向に注目しつつ、日本仏教史に新たな視野を切り拓いて来た研究者だ。

 この中世の戒律復興運動が軽んじられてきたのは、研究者がいわゆる鎌倉仏教、とりわけ浄土教と禅仏教に重きを置いて中世仏教を見ようとしてきたことと関係がある。また、明治維新以後の日本仏教が僧侶の妻帯を許容してきたことにつき、その意味を考えたくないという動機もあっただろう。また、これは現代日本の仏教寺院の多くが浄土教や禅宗の系譜の宗派に属することとも関わりがあり、鎌倉仏教中心史観ともよばれることがある。それはさらに、宗教における戒律を軽んじる近代的な宗教観とも関わっている。19世紀以来、近代的な学問諸分野が成立してくる段階で、宗教をキリスト教、とくにプロテスタントをモデルとして捉え、信仰や体験といった内面の事柄を軸として考える見方が有力だった。


近代的な宗教観の偏り

 そもそもキリスト教は律法を重視するユダヤ教のパリサイ派を批判し、形に従う戒律ではなく、神との直接交流を体験したり、イエスの贖罪と復活を信じることから始まった。これはどのような生活様式をもっていようと誰でもが得ることができる内面の事柄である。これに対してユダヤ教やイスラーム、あるいはヒンドゥー教のように外的な律法、シャリーア、ダルマなどに従う宗教は普遍主義的とは言い切れず、それより一段低いレベルの宗教だとする見方である。これを仏教にあてはめると戒律が一義的に重視される上座部仏教は「小乗」仏教であり、信や体験を通してすべての人に開かれている大乗仏教に劣るといった捉え方になる。そこで仏教本来のものから見ると軽視してよい付加的なものと見なす傾向があった。

 だが、実際には戒律をめぐる葛藤は日本仏教展開の大きな要因となっており、そこでは「破戒」や「女犯」や「男色」が実は大きな問題として意識されていた。また、戒律をめぐるその他の葛藤も踏まえて、戒律復興を唱え実践した仏教者たちがおり、ある時期、大きな影響力をもったこともあった。西大寺を中心とした叡尊(1201―1290)、忍性(1217−1303)らの真言律の系譜はなかでもその宗教史的意義が大きなものである。本書は、この時期の戒律復興運動の描出(第三章)を中心に、奈良時代から平安時代初期の仏教において戒律が重視されてきたことを顧み(第一章)、戒律復興運動に先立つ時期の「破戒」と「男色」を描き出し(第二章)、近世以降の戒律復興をも展望する(第四章)という構成になっている。


受戒と破戒の実際

 第一章ではそもそも授戒・受戒・持戒とはどういうことであるかが説明されている。仏教の理解にとってはたいへん重要なことだ。多くの人が(死後に)戒名を得ている日本人にとってはぜひとも理解しておきたいところだが、かなり複雑である。それが、ここではたいへんわかりやすく解説されている。小乗系の『四分律』と大乗系の『梵網経』の十重四十八軽戒の違い、酒の販売に関する戒の影響、肉食禁止が重視されてきた理由、戒壇がどの程度機能てきたかなど興味深い。とくに女性の受戒について詳しく説明されており、理解が進むことだろう。

 第二章では1200年前後を主に取り上げながら、日本仏教史には破戒の例が少なくないことを述べ、女犯、飲酒、僧兵などとともにとくに男色が珍しいことではなかったことについて述べられている。詳しく叙述されているのは、東大寺の高位の官僧で華厳宗を中心に仏教の研究で多くの成果をあげた宗性(そうしょう)(1202―1278)という人物の男色だ。宗性が36歳のときの「五箇条起請」という誓文の第2条に「現在までで、95人である。男を犯すこと100人以上は、淫欲を行なうべきでないこと」、第3条に「亀王丸以外に、愛童をつくらないこと」などとあるという(73ページ)。

 ところがかなり後のことだが力命丸という愛童もおり、その愛童が殺害されるということが起こり、「あまりの悲嘆に言葉を失っています」、「恋慕の思いが片時も止む時はありませんでした」といった記述もあるという(83ページ)。宗性はまた賭博と酒を断つという誓いも行っているが、それが何度もあるという。さらに宗性の残した文書には誰々の「真弟子」という言い方が度々出てくるが、これはその師とされる人物の実の息子であることを意味しており、つまりは女犯があったことの証拠でもある。

 印象深い例示によって、「破戒」が珍しいことではなかったことが示され、第三章で述べられる戒律復興の動きや、親鸞のように非僧非俗という立場が登場することの前提となったことが示唆されている。なお、近世になると政治的に戒律遵守が強化されたことも記されているが、以上のような中世の前提があり、明治維新後の展開が準備されたと捉えられてもいる。


戒律復興運動はどう展開してきたのか?

 第三章では、中世の戒律復興の展開がわかりやすく示されている。叡尊、忍性に先立つ実範、貞慶、俊芿、覚盛らが果たした役割が理解される。ここで戒師の導きにそって行うのではなく、自らというより直接仏・菩薩から行う自誓受戒というものが行われるようになる。これは東大寺で行われている正式の受戒に対するアンチテーゼであるが、また、「他者を救済する菩薩比丘であれ」という菩薩比丘を目指すものでもあった。そこには「興法利生(こうぼうりしょう)」という利他的な活動を重視する姿勢が含まれている。「叡尊らの自誓受戒は、菩薩戒の受戒であり、他者の救済をめざす実践者としての菩薩のための戒と位置づけた点に特徴があるのです」(145ページ)。

 従来、鎌倉新仏教に対置される「旧仏教」の側に位置づけられがちだった叡尊らの戒律復興の動向だが、松尾氏はそれが黒衣を着る遁世僧によるものであることを強調する。遁世僧は官僧主体の白衣を着する主流寺院に対し、そこから脱してより本来的な仏道実践をめざす者たちだ。その意味では、真言律などの戒律復興を担う僧侶たちは、禅や浄土教の担い手たちと並ぶ反主流的な地位にあった。当時、この新義律宗は急速に勢力を伸ばし、「信者数が10万を超え、末寺も1500ヶ寺と、鎌倉・南北朝時代を代表する教団の一つとなっていた」という(151ページ)。しかも女性の成仏を認め、法華寺尼戒壇を設立したが、これは「日本仏教史上の快挙というべき、画期的な事柄」だった。


新たに見えてくる仏教史の光景

 このような新義律宗の動向に照らすと、「無戒名字の比丘」ばかりのこの世という親鸞の末法思想、そしてそれに基づき公然と妻帯を行ったことの意義があらためて見直される。「親鸞と叡尊のベクトルは正反対の方向を指してい」たが、「破戒の現状認識と、悩める人々の救済という点では共通していた」という。

 第四章は「近世以後の戒律復興」について概観しているが、慈雲飲光(1718−1804)が明治維新後の仏教者に与えた影響、とりわけ戒律復興運動の意義についての叙述は、近代仏教研究者への有益な助言にもなると言えるだろう。「慈雲の正法律は、宗派を超えて僧侶たちの破戒状況を正す機能を有していましたし、十善戒は、現世の問題から逃避的で近代化にそぐわないと批判された仏教の、現世的な倫理を提供すると考えられたから」だという。

 私は「戒律をめぐる葛藤」が日本仏教史を捉え返す上で重要だと考えるのだが、本書は中世を中心に、豊富な歴史的資料を検討した上で、「破戒」と「戒律復興」という視点から戒律をめぐる日本仏教の葛藤状況を描き出しており、その意義が大きい。資料を通して学ぶことの重要性についても多くを教えてくれる。専門研究の成果を非専門家や一般読者に伝えるという点でもすぐれたモデルを示してくれている。

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