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宗教の名著巡礼 第17回


悲哀の博徒が体現する日本的モラル(1)

──山折哲雄『義理と人情──長谷川伸と日本人のこころ』新潮社、2011年──

島薗進


長谷川伸とヤクザ映画と寅さん

 

  長谷川伸という作家は「純文学」と「大衆文学」に分けるような場合、後者に入れられる。よって「近代日本文学全集」などには登場しないことが多い。しかし、影響力の大きい作家であり、ファンも少なくない。だが、その仕事の重要性についてあまり知られていない人物だ。

 私が直接、その作品を読むようになったのは最近のことだが、実は若い頃から長く間接的な影響を受けてきた。そのことに気がついたのも最近のことだ。18歳から20歳代前半というと金沢から東京に出て大学生になり、学園紛争や反戦運動に関わり、友人らと勉強会をしたり飲んだり遊んだりし、文芸やまんがや映画に熱中した時期でもある。

 その頃、大いに楽しんだ映画に東映のヤクザものとフーテンの寅さんがある。前者は加藤泰監督のものが多く、後者は山田洋次監督によるものだ。こうした映画作品に惹かれたことと、新宗教研究や民俗学、あるいは民衆文化研究といったものに可能性を見たことには関わりがある。要するに近代文化をリードしたエリートの文化ではなく、生活文化に根ざしているが、そこに精神文化として尊ぶべきものがある何かを求めていた。大学でこういうことを研究できる学科というと宗教学ではないかと思った。その結果、現在に至っている。

 とすれば、加藤泰監督や山田洋次監督にもっと関心を払うべきだった。ところがそのような学びの機会は乏しかった。50年余りを経て、このほどヤクザ映画とフーテンの寅さんの背後に長谷川伸がいることに思い至ったのだ。そういえば、演歌もずいぶん覚えた。演歌や歌謡曲の世界とも一脈通じるものだ。そうした庶民文化の系譜でなぜか心ひかれるもの──これを理解する際、長谷川伸は鍵となる人物の一人なのだ。

 

 

長谷川伸と折口信夫

 

 長谷川伸について学ぶことが、私自身の精神史を省みる上でも重要だということを教えてくれた2冊の書物がある。佐藤忠男『長谷川伸論』(中央公論社、一九七五年)と、この山折哲雄の2011年の著作だ。山折の著作には佐藤の著作の影響を受けたと書いてあるが、それとともに私が学んできた宗教学の先達としてなるほどと思ったところがある。

 山折の著作には若い頃から親しんできて、学ぶところが多々あったが、今回は特別だ。2011年の著作だが、刊行されたのが東日本大震災と福島原発災害の後の時期であり、集中して読めなかった。この度、「任侠」について考える集いに加わって、丁寧に読み返して、これほどに感じたことはないというほどの親近感を感じることになった。不明と勉強不足を恥じるしかない。

 わかりやすい例をあげよう。私は23歳から25歳にかけて(1972-74年)、大学院で宗教学の修士論文を書いていた。そのなかで、折口の「道徳の発生」という論文が重要な位置をもつことに気がついていたが、それと長谷川伸に関係があることをまったく知らなかった。ところが、山折の『義理と人情』には、以下のような叙述がある。

 

戦前か、あるいは戦後の話であったか、あるとき長谷川伸が国電にのっていると、見知らぬ紳士が立ってきて、ていねいに声をかけた。「わたくしは折口信夫でございます」と名乗り、深々と頭を下げた。日ごろ、その仕事に心からの敬意を払っている旨を告げて、立ち去ったのだという。その仕事とは、このあととりあげることになるが、当時長谷川伸が心をこめて書きつづけていた『日本捕虜志』のことであった(長谷川伸『日本捕虜志』(下)、中公文庫、村上元三の解説、259頁)。(『義理と人情』、116ページ)。

 

 

文学を通して宗教の理解を深める

 

 折口信夫の旧全集(1965−68年)の索引で長谷川伸を見ると、第30巻に以下の短い叙述があるのみだ。

お問ひかけの主題から少し逸れる嫌ひはあるが、長谷川伸氏『相楽総三とその同志』、多くの義人の冤枉(えんおう=無実の罪)を正す程、功徳になることはない。其上、其人々の行為が、毫も私欲を交へぬ勤王心から出ていることにおいて、長谷川氏のこの為事は、正に作者の本懐事である。之を読みながら、私は幾度殆く(ほとほと)号泣せんとしたか訣らぬ。(『藝能』第9巻第8号、昭和18年8月)、(旧全集30巻209頁)。

 折口信夫は悲劇的な命運をたどる人物に強い関心を抱き、そこに古代的な精神の表れを見た。『死者の書』はその代表的なものだ。長谷川伸の著作は、その折口信夫の関心にぴたりと応じるような内容をもっていたと考えることができる。山折の著作もそのことを見抜いており、国電での思いがけぬ挨拶というエピソードを紹介している。

 そういえば、私が最初に学会誌に投稿し掲載されたのは、折口信夫が若い頃に書いた民俗学の論文を独自の宗教論として読み解こうとした「民族的象徴と原始的宗教性」(『宗教研究』228号、1976年)というものだ。先輩である山折に初めて対面したのは、日本宗教学会の懇親会のときだったが、「君の折口論はおもしろかった」と言って下さったことを鮮明に覚えている。かけ出しの研究者として大いに励まされたものだ。

 文学、とりわけ悲劇的なものを通して原初的な宗教性への理解を深めていけるという直観が私にはあった。折口の宗教観はそのような悲劇的なものへの洞察と結びついている。その折口観は若書きの論文以来変わっていないのだが、山折はそれを理解してくれたように思った。山折の長谷川伸論に出会って、その思いを新たにしている。

 

 

長谷川伸はどのような作家か

 

 長谷川伸はどのような作家だったのか。まずごく概略を紹介する。1884年、横浜に生まれ、父は土木請負業だった。数え4歳のとき実母が家を出ている。そのあと父が別の女を家に入れている。数年後、父の事業が悪化し、伸は小学校を3年で中退し、横浜ドックの工事請負人の小僧をしたり、土木現場で働くなどした。1903年、横浜でジャパンガゼット社の新聞記者となるが、1904年に習志野砲兵連隊へ入営し、1907年まで軍務についた。

 1909年、毎朝新聞社(横浜)、1911年、都新聞(東京)の記者になる。1914年、「横浜音頭」を京都新聞に発表し、次々と小説を書いていく。1924年、「夜もすがら検校」を発表し、処女作品集『夜もすがら検校』を刊行、1926年、都新聞を退社し、作家生活に入る。

 1928から31年にかけて、いずれも戯曲だが、「沓掛時次郎」、「瞼の母」、「一本刀土俵入」を発表。流浪する博徒を主人公とした股旅物とよばれるもので、芝居や映画にもなり、著名作家となる。小説や戯曲を書き続けるとともに、仇討ちと捕虜の処遇について、また幕末の悲運の志士について研究し、『荒木又右衛門』、『日本捕虜志』、『相楽総三とその同志』などの大作もまとめた。1963年、79歳で亡くなっている。

 山折の長谷川伸論、『義理と人情』は11章からなるが、最初の3章で『夜もすがら検校』と3つの股旅物、『沓掛時次郎』、『瞼の母』、『一本刀土俵入』が取り上げられている。ここに長谷川伸作品の魅力が顕著に見てとれることは確かだ。股旅物とは何か、また長谷川伸の描く何が多くの人々の心を揺さぶるものになったのかを示すため、ここでは『瞼の母』をやや詳しく紹介したい。

 

 

番場の忠太郎、弟分を助ける

 

 『瞼の母』は「序幕」(3場)と「大詰」 (3場)からなる。序幕は嘉永元年(1848年)の春で、1場は「金町瓦焼の家」だ。フーテンの寅さんの舞台に近い。瓦焼惣兵衛(講中で伊勢参り中)の妹おぬいが博徒の喜八と七五郎を追い払う。下総飯岡で親分を斬りにいき、大勢を傷つけて逃亡し、実家にゆうべから来ている兄の半次郎がいる。帝釈様から帰ってきた母おむら、半次郎を叱りつけ、堅気になるようにと諭す。そこへ、旅の博徒で、半次郎とともに斬り込みに行った番場の忠太郎が来て、隠れて様子を見ていたが、おぬい、おむらによびかける。

 

おむら 友達衆のだれ一人だって、親のない者はないだろう。お前さん方は親のことを、夢にも見ないでいるのだろうか。

忠太郎 俺と来て遊べや親のねえ雀か。(溜息をつく)

おぬい え?

忠太郎 こいつあ、あッしづれにできる発句じゃござんせん。信州のなんとかいう人が作ったと、聞いた時から、俺のことだ俺の身の上を咏んだのだと、馬鹿相応の一つ憶えで、ツイ口に出たのでござんす。親はあっても顔さえ知らず、いどころだって知らねえあッしに、本当の親の味はわからねえんでござんすが、またそれだけに、ああもあろうか、こうもあろうかと、夢か妄想に描くような、あッしにはあッし相応の考え方がござんすのさ。お邪魔をしましたお婆さん、妹さん、番場の忠太郎はただいま限り、半次郎さんと縁切りでござんす。ご免なんせ。

おむら え、聞き分けてくださいましたか。

忠太郎 親のねえ子は人一倍、赤の他人の親子を見ると、羨ましいやら嫉ましいやら。おさらばでござんす。

半次郎 (障子を開き駆け出る)哥児(あにい)──哥児。

 

 忠太郎は弟分の半次郎が堅気になることを促し、家に帰るように諭した。そしてそれがうまくいくように隠れて見守っている。半次郎を襲おうとやってくる、敵方の喜八と七五郎を忠太郎が斬り倒す。

 

 

母を探し求める忠太郎

 

 その忠太郎は江州番場(滋賀県米原近くの中山道の宿場)の生まれだが、5歳で母と生き別れ、12歳で父と死に別れ、母との再会を目指し、江戸にいるらしい母を探しに行くという。そのことを知っておぬいやおむらは感心する。

 弱きを助け、わが身の利を顧みない忠太郎だが、母への想いは強く、「大詰」は江戸柳橋の料理茶屋水熊のある横丁が最初の2場だ。女主人のおはまと娘のお登世、そして板前や女中などがいる。店に入ろうとする忠太郎を店員たちがはばむうち、おはまと忠太郎の対話となる。

 

忠太郎 おかみさん──当って砕ける心持ちで、失礼な事をお尋ね申しとうござんす。おかみさんはもしや、あッしぐらいの年頃の男の子を持った覚えはござんせんか。無躾とは重々存じながら、それが承りてえのでござんす。

おはま(びくりとする、答えない)

忠太郎 あッおかみさんは憶えがあるんだ(思わず膝を進め)お顔に出たそのおどろきが──ところは江州阪田の郡、醒が井から南へ一里、磨針峠の山の宿場で番場といふところがござんす。そこのあッしは。(おはまの答えを待つ)

おはま(憶えがあれど、忠太郎の風采に危惧を感じ、打算が鋭くはたらく)番場宿なら知ってますとも、それがどうしたというのだね。

忠太郎 え?(意外な返事を怪しむ)おきなが屋忠兵衛という、六代つづいた旅籠屋をご存じでござんすか。

おはま ああ知っている段か、あたしが若い時にかたづいたことがある。

忠太郎(自制しきれずに)おッかさん。(『国民の文学4 長谷川伸』河出書房新社、1969年、362ページ)

 

 

忠太郎を拒絶するおはま

 

 おはまは忠太郎が我が子だと気づきながらも、9歳で死んだはずだと皆に言ってきたことを持ち出し、警戒心と料亭の女将のプライドが主な理由で追い返す。とくに忠太郎が渡世人(博徒)であることをとがめる。

 

おはま だれにしても女親は我が子を思わずにいるものかね。だがねえ、我が子にもよりけりだ──忠太郎さん、お前さんも親を訪ねるのなら、なぜ堅気になっていないのだえ。

忠太郎 おかみさん。そのお指図は辞退すらあ。親に放れた小僧ッ子がグレたを叱るは少し無理。堅気になるのは遅蒔きでござんす。ヤクザ渡世の古沼へ足も脛まで突っ込んで、洗ったってもう落ちっこねえ旅にん癖がついてしまって、なんのいまさら堅気になれよう。よし、堅気で辛抱したとて、喜んでくれる人でもあることか裸一貫たった一人じゃござんせんか。ハハハハ。ままよ。身の置きどころは六十余州の、どこといって決まりのねえ空の下を飛んで歩く旅にんに逆戻り、股旅草鞋を直ぐにもはこうか。

外で聞いている者たちとのやりとりがあって、

長え間のお邪魔でござんした。それじゃあおかみさんご機嫌よう、二度と忠太郎は参りゃしません──愚痴をいうじぇねえけれど、夫婦は二世、親子は一世と、だれが言い出したか、身に沁みらあ。(同前、366ページ)

 

 おはまが「忠太郎さんお待ち」とよびかけるのを耳にも入れず、忠太郎は出ていく。「考えてみりゃあ俺も馬鹿よ、幼い時に別れた生みの母は、こう瞼の上下ぴったり合せ、思い出しゃあ絵で描くように見えてたものをわざわざ骨を折って消してしまった。おかみさんごめんなんせ」と障子を閉める。ここに「瞼の母」という題の由来が見えている。

 忠太郎が去った後、娘(忠太郎の妹)のお登世があの人はいつも話していた兄のことだといい、母を説得する。すぐに母は心を揺さぶられ、忠太郎を追いかける。

 

 

「瞼の母」故に発現する義侠心

 

「大詰」の3場は荒川土手だ。身を隠している忠太郎が追いかけてくる母娘をやり過ごす。

 

お登世 何だこの淋しいところに忠太郎兄さんがいるような気がしてならない。呼んでみよつかしら。忠太郎兄さん──忠太郎兄さん。

おはま(力づいて)忠太。(といいかけて、どこにも答えがないので、見る見る力が抜ける)

お登世 だあれもいないんだわ。(とぼとぼ歩き出す)

おはま(悄然として歩き出し、2人共ついに去る) 

 この後、忠太郎のセリフがあって、再び「瞼の母」を確認する場面となる。

忠太郎 ──(母子を見送る。急にくるりと反対の方に向いて歩き出す)俺あ厭だ──厭だ──厭だ──だれが会ってやるものか。(ひがみと反抗心がつのり、母妹の嘆きがかえって痛快に感じられる。しかもうしろ髪ひかれる未練が出る)俺あ、こう上下の瞼を合せ、じいッと考えてりゃあ、逢わねえ昔のおッかさんの俤が出てくるんだ──それでいいんだ。(歩く)逢いたくなったら俺あ、眼をつぶろうよ。(永久に母子に会うまじと歩く)

 

 最後に、勘違いした板前に言われて、金五郎というヤクザ者がからんでくる。忠太郎は親はあるか、子はあるかと尋ね、金五郎が「無え」と答えると、即座に斬り殺す場面があって幕となる。

 この番場の忠太郎の像には幼くして母と別れた長谷川伸自身の心情が強く反映している。ヤクザ者は、殺し合うような場に生きる故に母との再会もままならない。弱い者を助ける志とその力をもつヒーローなのだが、深い負い目をもち、ヤクザの集団からもはぐれている。そのような居場所のない生き方の孤独や悲哀と、自らを捨てても他者を助ける義侠心が裏腹になっている。母を恨む煩悩は重い。それに対して、「瞼の母」は目に見えない次元の重要性を象徴している。複雑な恨みと悲しみを胸に秘めつつ、半次郎家族のような他者を助け、孤独に耐えて生きる姿が人々の共鳴をよぶ。

 長谷川伸の股旅物がなぜ昭和の多くの人々の心をとらえたのか。また、彼はなぜ仇討ち研究や捕虜研究に多大な力を注いだのか。山折の論述を追いかけながら考えていきたい。それは、1960年代から70年代にかけての東映ヤクザ映画やフーテンの寅さん物に強い魅力を感じた私自身を振り返ることにもつながるだろう。

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背景画像:「精霊の巌」彩蘭弥

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