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宗教の名著巡礼 第19回

  • 執筆者の写真: 島薗進
    島薗進
  • 7月31日
  • 読了時間: 13分

悲哀の博徒が体現する日本的モラル(3)

──山折哲雄『義理と人情──長谷川伸と日本人のこころ』新潮社、2011年──

島薗進


『日本捕虜志』という大作


 長谷川伸は股旅物の脚本や小説を発表して作家となったのだが、研究者といっても良いような側面があり、資料を丁寧に調べて日本人の倫理観に迫ろうとした著作もある。その一つは仇討ちについてだが、もう一つは、日本人の捕虜に対する態度を調べたもので、『日本捕虜志』が代表作である。

 折口信夫が長谷川伸に深い敬意を抱いていたことを山折が記していることは、すでに(1)で触れた。折口信夫が公表した文章では『相楽総三とその同志』に高い評価を表明しているが、山折によると『日本捕虜志』に対しても高く評価していたという。山折は『義理と人情――長谷川伸と日本人のこころ』の第八章『日本捕虜志』でこの書物についてかなりの紙数を割いて述べている。

 長谷川伸が『大衆文芸』という雑誌に1949年5月号から50年5月号まで連載し、その後、1955年に自家版非売本として500部を刊行している。55年版の「序」には次のように書かれている(『長谷川伸全集 第九巻 日本捕虜志・印度洋の常陸丸』朝日新聞社、1971年)。

 

この本は昭和大戦の後期に入り、日本全土が火と鉄との直接攻撃で、地獄の惨苦に陥ったとき着手し、日本が降伏したその日までに、時日の聚集漸く半を超え、草稿は約四百枚になっていた。空襲のサイレンを聞けば草稿を土に埋め、解除のサイレンを聞いて掘出した。そのころ私は家人にいった。この稿が成るのと命がケシ飛ぶのといずれが先かなあ、と。(『長谷川伸全集 第九巻』297ページ)

 

 翌年、菊池寛賞も受賞したが、その後、少部数ながら版を重ねていった。1962年には商業的な出版ができるようになったが、その「後記」は、「読んでくださる方々よ、この本は捕虜のことのみを書いているのではない、“日本人の中の日本人”を、この中から読みとっていただきたい。どうぞ。」と結ばれている(同前、300ページ)。

 

リューリック号の兵士らの救助


 『日本捕虜志』では天智天皇時代の白村江の戦いからはじめ、元寇の時代、16世紀の秀吉の時代の文禄・慶長の役や幕末維新期のことも取り上げているが、主な話題は日清戦争と日露戦争である。日露戦関係の叙述が多いのだが、山折はその中でも、1894年8月14日、第2艦隊司令長官上村彦之丞がロシアのウラジオ艦隊のリューリック号を撃破した後の上村司令長官の対応についての長谷川の叙述に注目している。

 リューリック号は撃沈されたが、他の2隻はウラジオストック港内に逃げ帰ることができた。それは、出雲に乗る上村が追撃をやめてリューリック号の沈没現場に戻り、海面に漂う乗員の救助にあたったからだった。このことを後になって知った参謀、秋山真之は「あの2隻を遁がすべきではなかった」と言ったという。「宋襄の仁だ」とも述べた。「宋襄の仁」は『春秋左氏伝』にあるもので、宋と楚が戦った時、楚の布陣が整わないうちに攻撃しようという意見があったにも関わらず、襄公は「君子は人の困っている時に苦しめることはしない」として攻めず、そのために逆に楚に敗れてしまったというもので、「敵に対する無用の情け」を指すものだ。

 

捕虜を厚遇した司令官と兵士たち


 この時、救い上げられたロシア兵、六〇〇余名に対して、上村司令官は“捕虜を好遇せよ”の信号を発した。長谷川は後に中将にもなった佐藤(てつ)太郎先任参謀が後年に記した「日露戦争の思い出」という文章を引いている。なお、佐藤は法華経についての書物もある人物だという。

 

室の中央には残酷にも負傷した露兵が横たわっている。我が水兵は環状を作ってこれを取り囲み、手に手に扇を開いて煽いでやって居るのである。その時の状態は、今でも判然と眼の底に残って居るのである、時は8月14日、処は艦底である、釜の中に坐って居るような炎熱である、しかし、怨み重なる敵に同情し、力を協せて涼風を送るとは、如何にも神々しい所作ではなかろうか。自分はこれを見て嬉しさに堪えかね、思わず、ああよい事をしてくれる、よく劬わってやれと叫んだのである。たれとも知れずその時、こいつ等は、憎い奴でしたが、こうなると可哀そうですといった、自分は実に涙が出た。(同前、167ページ)

 

 敵側の捕虜へのこうした態度が少なくなかったことを示すのが、長谷川のねらいだったが、これは日本の庶民が共有するモラル感情に通じるものだと長谷川は見なしていた。この逸話をめぐる長谷川の叙述から、山折が少し長く引いているのは、少し先の以下の部分である。

 

出雲に収容されたリューリック乗組の一ロシヤ将校が、艦内に飼われている小鳥を熟視し、この小鳥は前からここにありしかと問うた、日本人通訳が、いやいやあれはリューリックの溺者を救助にいったものが、救い漏れは最早ないかと、救助艇をあっちこっち漕ぎ廻していると、浮いていた板にあの小鳥がとまっていた、大海の中だし放って置いては、小さい翼ではとても陸地まで飛べまい、可哀そうだと捕えてきて、ああして飼って居るのだと答えると、ロシヤ将校は涙をうかべ、あれは私の飼っていた小鳥でした、われわれは北海で奈古浦丸を撃沈して以来、金州丸・常陸丸・和泉丸と撃沈し、佐渡丸も破壊したのだから、その報復を今こそ受けると思いの外かくも優遇をうけつつある、日本人はどうしてかくまで義侠なのかといい、神に黙祷を捧げた。(同前、169ページ)

 

 山折はこの「日本人はどうしてかくまで義侠なのか」という部分に傍点を付している(『義理と人情』159ページ)。長谷川が股旅物などで描き出してきた任侠のモラルと、こうした捕虜処遇のモラルにあい通じるものがあると長谷川は考えていたと思われ、山折はそのことを確認しようとして傍点を付したのだろう。

 

『日本捕虜志』のエピグラム


 山折は長谷川が各篇に付しているエピグラムにも注目しているが、ここではより詳しく紹介しておきたい。

 

前篇「天智天皇の2年、日本軍大敗戦後の一千二百余年に亘る彼我の捕虜」

 他人のことを作し、かれの作さざるを観る勿(なかれ)。

 ただ、おのれの何を作し、何を作さざりしかを想う可し。  ――法句経

 

本篇の一「明治二十七、八年戦役に於ける日本の捕虜、シナの捕虜」

 屍ヲ斂メテ敵ヲ送ル、礼慇懃ナリ。

 感情ハ異ナラズ、彼ト我ト。     ――三島中州

 

本篇の二「明治三十七、八年戦役に於けるロシヤの捕虜、我が捕虜」

 騎士道ここに行われたるを見たり。

 伝え聞く日本のサムライ道もその本質において騎士道と一致す。 

                   ――1905年、敵の一少尉

 

本篇の三「仁川沖と蔚山沖の海戦と日本海海戦の捕虜と旅順閉塞戦の旅順捕虜」

 仮令われ予言する能あり、

 また全ての奥義と凡ての知識とに達し、

 また山を移すほどの大なる信仰ありとも、

 愛なくば数うるに足らず。       ――コリント前書

 

本篇の四「戦場の捕虜と、日本内地二十九収容所の捕虜と、民間日本人惨苦の捕虜生活」

 他ヲ譏ル者ハ己ヲ譏ル者ヲ招キ、

 他ヲ悩マス者ハ己ヲ悩マス者ヲ招ク。

 斯クテ“業”ノ輪ハ廻リ、

 彼ハ他ヲ掠メテ他ニ掠メラル      ――仏教聖典

 

後篇「国内国外の捕虜拾遺」

 日本がその変革時代を通じて著しく改良されたてんだけを見るのでは充分ではない。

 ある意味では日本はかえって改悪された。  ――スタンレイ・ロジャース

 

弱者、敗者にたいする共感と惻隠の情


 これらのエピグラムは『日本捕虜志』が目指すところをよく表しているようだ。山折は、この作品には「3つの鋼のような思想軸が埋めこまれていると思う」と述べている。

 第1は、「歴史をどこまでもさかのぼって行くドキュメンタリー・タッチの執拗さ」、第2は、「弱者、敗者にたいする尋常ならざる共感と惻隠の情を、作者が溢れるばかりに抱えていたということ」、第3は、「長谷川伸がかたときも時代の危機意識を手放さなかったということ」だ(『義理と人情』130―132ページ)。

 この第2については、山折は『日本捕虜志』の冒頭、序にあたる部分で、日露戦争で捕虜となったロシア軍将校につき、日本軍のある中隊でその捕虜を見学する案が浮上した時、金子亀作一等卒が語った言葉が引かれているのを示している(同前、131ページ)。

 

自分は在郷の時は職人であります、軍服を着たからは日本の武士であります、何処のどういう人か知りませぬが、敵ながら武士であるものが運拙(つたな)く捕虜となって彼方此方と引廻され、見世物にされること、定めて残念至極でありましょうと察せられ、気の毒で耐(たま)りませんから自分は見学にいって捕虜を辱めたくありません。(『長谷川伸全集 第九巻』8ページ)

 

捕虜を低く見た時代への抗い


 第3の点に関わることだが、山折は戦時中にこの書物の執筆にとりかかった理由について、「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」という言葉を含む「戦陣訓」に触れている。1941年1月8日、時の陸軍大臣東条英機によって示達されたものだ。戦場において捕虜になることを禁じるもので、アジア太平洋戦争の後期には、捕虜になるぐらいなら死ぬことを勧めるようなことが頻繁に起こる要因の一つとなったものだ。山折は「この「戦陣訓」は全体として見れば、明治15年(1882)に発布された明治天皇の軍人に対する勅諭(「軍人勅諭」)を、さらに細かく説明するという性格を合せ持っていた」として、次のように述べている。

 

やがて戦局がすすむ中で、この「戦陣訓」に盛られた過度の精神主義と、捕虜となることへの絶対否定の考えが、戦場の将兵たちに異常な強制力をふるうようになる。絶望的な状況における「玉砕」をはじめとする無益な自爆死、加えて悲惨な餓死などによる大量の犠牲を生みだした。(『義理と人情』137-138ページ)

 

 長谷川伸が『日本捕虜志』の資料集めを始めた時期には、「玉砕」や「特攻」が賛美される以前の時期である。だが、中国大陸やそれ以前に朝鮮半島で、現地の人びとから厭われるような日本軍や治安当局の行動が多々あったことについて、憂慮していたことは十分、推測がつくところだ。

 

 山折は続けて以下のように述べている。

 

長谷川伸が『日本捕虜志』を執筆するための資料を集めはじめたのは、おそらく日中戦争がこのように泥沼化していく時期に重なっていたのではないかと推察される。氏の門下生や知人のなかには、兵士として、あるいは報道班員として大陸の戦場に従軍した人々が多かったにちがいない。それらの人々が帰還した後、著者は、捕虜にたいする日本軍の取扱いについてさまざまの情報をかれらの口から直接聞いていたであろう。略奪や非行がいろんな挿話を交えて語られていたはずだ。日本人は天智天皇の昔から、捕虜を遇することには情厚い国民性を持っていたのに、それが失われつつあることを聞くのは、長谷川伸にとって何よりも辛いことであり心外であった。(同前、138ページ)。

 

 長谷川は戦後にその作業にいっそう力を入れていくが、その時期のことについて山折は、次のように述べている。

 

やがて戦後になり、戦争責任の問題を巡って東京裁判がはじまる。その過程で捕虜虐待の事実が相手国側からつぎつぎと明らかにされていった。その追及と断罪の声がしだいに大きな輪を広げていく中で、長谷川伸の『日本捕虜志』にかける思いはさらに募っていったのではないか。戦後の精神的混乱のなかで、日本人の多くが意気阻喪し誇りを忘れていくのを見て、耐えられない気持を抱いていたはずだ。(同前)

 

 山折哲雄は長谷川伸の全集のみならず、多くの資料にあたりながら、この作家が目指したものを分かりやすく伝えてくれている。私のこの3回の連載では、その一部しか紹介できていないことが残念だが、やむを得ない。

 

「埋もれた人々を掘り出したい」


 最後にあげておきたいのは、『義理と人情』の最後の章、第十一章「埋もれた人々を掘り出したい」の一部だ。ここで山折は、長谷川伸の「絶筆」を取り上げている。長谷川伸が亡くなったのは、1963年6月11日、79歳のときだが、その翌日の「毎日新聞」夕刊に「死のうか 生きようか」と題され、病床での口述筆記によるもので、全集には収録されていない。

 

 「入院中は、半分死んで、半分生きているようなものでした」とあり、「死にかかっている時は、呼吸も苦しく、もがいていましたから、さぞ苦しいだろうと、はたは同情してくれましたが、本人にとっては、なんでもないことでした。死はらくなことですね」とある。だが、生きて仕事をしたいという気持ちは強かったようだ。「生きたり、死んだりしている時、生きようか、死のうか、考えました。死ぬのは簡単で、生きるのは価値を作り出さなくてはならぬ。ただ生きているだけではつまらないものだ、と思いました」と述べている。

 

余生を傾倒させる作品にとりかかりたい。それがなくては、命を、この世に引き戻させてもらったのに、何とも申しわけのないことになります。ことに未知の方々にすまない。(中略)

仕事を見つけることだ、期するものはあります。おそらく誰も気がつかないでしょう。/文化、という言葉は、誰も口にします。文化は誰が作ったのか。

アメリカ大陸の発見、フランス革命、イギリスと香港、そうした大事業の実験は、本当は誰がやったのか。

日本史を見ても、それがいえます。日本人の偉さを日本人は知らなすぎます。

埋もれた人々を掘り出したい。

誤解された人物を正しく見たい。

さいわい日ごとに回復しています。人生に対する作家の義務を果たしたい。(同前、198ページ)

 

「はぐれ者」たちからこそ見えてくるもの


 このような生涯を貫く作家としての情熱とともに、自らの境遇、とくに親との関わりが薄かった子どもの頃の境遇と関わる「はぐれ者」たちへの共鳴、これも山折が強調して居るところである。『義理と人情』の「まえがき」に戻ろう。

 

「やくざ」社会とは言っても、それはかならずしも定住民ではない。はぐれ者たちの世界を広く包みこんでいた社会だった。農耕民的社会ではなかったというだけの話で、そのため定住する農耕民からは怖れられるとともに、憧れの目でみられてもいた。はぐれ者の方は旅から旅の生活の中で、人恋しくなって人の情けに憧れる。そのはぐれ者たちが深い人情に触れた時の驚きと感激、そしてその震えるような心のひだを描きだす上で、長谷川伸ほどの名手はほかにいなかったのではないだろうか。(同前、6ページ)

 

  戦後の日本は、こうしたはぐれ者たちがその境遇を脱していけるような方向に、社会全体が前進していくものだと思い込もうとするところがあったのではないか。「けれども、どうだろう。いま、あらためてわれわれの周囲を見渡すとき、新しい時代の新しいはぐれ者たちが大量に発生しはじめていることに気づく」(同前)と山折は述べている。

 ニートとかフリーターとか、アダルト・チルドレンというような言葉が飛び交い、『完全自殺マニュアル』(鶴見済)というような書物が刊行されたのは、1980年代の後半から90年代の前半にかけての頃だった。孤立と孤独は青少年だけのことではない。2000年代以降は、高齢者の孤立や女性の自殺の増加が問題になり、誰もが自分を「はぐれ者」と感じそうな環境が広がってきているのではないか。

 山折は「時代はまさに、長谷川伸の時代に逆戻りしつつあるのではないだろうか」(同前、7ページ)と述べ、「まえがき」を以下のように締め括っている。

 

長谷川伸が、もしいまこの世に生きていれば、さきにあげた非正規雇用者とか、あるいはネットカフェ難民を主人公とした小説や芝居を書いていたにちがいない、そういう人たちを励まし勇気づける作品にとりくむにちがいない、そう私は思っているのである。(同前)

 

 山折の長谷川伸論である『義理と人情』を「宗教の名著巡礼」で取り上げた理由の一つは、山折と親しかった鎌田東二氏一座が同氏の死を前にした2025年1月26日に上演した「ロックンロール神話考Ⅱ 末法篇2024」に、「瞼の母」が取り上げられていたことにあった。

 3回にわたって連載してきた「悲哀の博徒が体現する日本的モラル」だが、長谷川伸に対するオマージュであるとともに、日本の宗教学と私自身の歩みを振り返る上で、山折氏と鎌田氏、それぞれのお仕事に私が負っているものをわずかなりとも意識化しようとする試みでもあった。

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