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宗教の名著巡礼 第18回

  • 執筆者の写真: 島薗進
    島薗進
  • 2 日前
  • 読了時間: 12分

悲哀の博徒が体現する日本的モラル(2)

──山折哲雄『義理と人情──長谷川伸と日本人のこころ』新潮社、2011年──

島薗進


『瞼の母』をめぐる作者の迷い


 今後、母とまみえることはないと覚悟を固め、「上下の瞼を合せると、おッかさんの俤が出てくる」という台詞がある『瞼の母』だ。ところが、この最後の「大詰 荒川堤」の場面には2種の「異本」がのこされており、『長谷川伸全集 第十五巻 戯曲1』(朝日新聞社、1971年)にも、ちくま文庫版『瞼の母・沓掛時次郎』(1994年)にも収録されている。

 そのうちの「異本」(一)は、定本の最後の「船頭歌 降ろが照ろうが、風吹くままよ、東行こうと、西行こと」の後に、「忠太郎 (一たび去ったが、その絶叫が聞える)おッかさあン──。(駆け来たる)おッかさあン──おッかさあン──おッかさあン。(おはま母子のあとを追う)」となっている。

 また、「異本」(二)では、「異本」(一)のさらにその後、以下のような展開となる。 


  おはま・お登世(呼ぶ声を聞きつけ、引返し来たる)

  忠太郎 (母・妹の顔をじっと見る)

  おはま (全くの低い声)忠太郎や。

  お登世 (低い声で)兄さん。

  忠太郎 (母と妹の方へ、虚無(こむ)の心になって寄ってゆく)

  おはま・お登世 (忠太郎に寄ってゆく)

   双方、手を執り合うその以前に。


 これについて山折は「この「異本」(二)をみると、大詰の場面をどうするかで作者が迷いに迷っていたことがよくわかる」とし、「みての通り「虚無の心になって」というところに長谷川の心情のすべてが注ぎこまれている」という。この「虚無」に注目しているのは山折独自の視点である。


虚無の心とは何か


 山折によると、都新聞社の先輩記者に中里介山がいた。長谷川伸が出世作「夜もすがら検校」を発表する1924年頃、中里介山は『大菩薩峠』を都新聞に断続的に執筆していた。『大菩薩峠』は、峠の頂きでそれこそ虚無の塊のような机竜之介が、通りすがりの老巡礼を一瞬のうちに辻斬りにする場面から始まる。


前世の宿業がニヒルの衣をまとって現世に出現し、その土俗的な衝撃を四方にまき散らすような物語が展開していく。介山は若い代用教員時代にキリスト教の影響を受け、内村鑑三に師事していた。が、のちに都新聞に入るころから仏教に関心を移していった。(43−44ページ)


 中里介山は『大菩薩峠』を「大衆小説」ではなく「大乗小説」だと称していたという。長谷川伸の『瞼の母』の「異本」(二)の「虚無の心」は中里と長谷川が共有していたもので、ふたりの主人公は、「前世の彼方から噴きだしてくる無常の風が吹いている」と山折は述べ、以下のように続ける。


それにしても、虚無の心とは何か。いくら信じようとしても、信ずることがままならぬ意識である。いくら愛そうとしても愛することがままならぬ。たちまち無常の風に吹き散らされてしまう意識のことだ。愛の無常といってもいい、信の無常ということである。(44ページ)


 山折が述べていることをすっきりと理解できるわけではない。しかし、あえて私なりに言い換えると次のようになる。理不尽な運命によって人が苦しみ、「神が、あるいは神仏がいるとすればどうしてこんなことが起こるのか」と問いたくなるようなことが起こる。山折はそれを「前世の彼方から噴きだしてくる無常の風」と述べているのだろうか。山折は「長谷川伸の人生は、あるいはこの虚無の心と「同行二人」の旅のようなものだったのではないかと思う」(45ページ)と述べている。それは、答えがないような苦しみや悲しみとともにある人生と言い換えることができるかもしれない。


長谷川伸の生母との対面


 続いて、山折は長谷川伸が母と再会するに至ったことについても6ぺージにわたって叙述している。『瞼の母』の発表は1930年だが、それが機縁になって、長谷川は47年ぶりに生き別れとなっていた生母と再会することになった。1933年のことである。

 母かうは長谷川家を出た後、三谷宗兵衛と再婚し三男五女の母になっていた。長男の三谷隆正は当時、一高の教授、次男の隆信は外務省人事課長の職務についていた。隆正は内村鑑三の弟子の無教会キリスト教徒であり、法哲学とドイツ語を教えていた。度々、帝国大学教授に招かれたが、断り続けたという。『幸福論』という著作がよく知られている。

 33年2月12日、長谷川伸は牛込の三谷家の門をくぐった。山折は関連する資料をもとにこの出会いについて生き生きと描き出している。


三谷家の子どもたちは、母が長谷川家を去ったこと、その時数え四歳になる伸二郎という子どもをのこしてきたこと、その子が泣いている母にむかって「今に大きくなったら、お馬に乗ってお迎えに行ってあげるから、そんなに泣くのじゃないよ」といったという話を、たびたび聞かされていた。


 長谷川伸が三谷家を訪れたとき、母は長男隆正の家族と同居していた。隆正がすぐ弟に電話を入れ、隆信がかけつけ親子四人で水入らずの話になった。母と伸は二人とも深い感情を表にあらわすことをせず、たがいに手をとり合ったままだったという。二言、三言低い声で語る二人の姿を、隆正、隆信の二人の異父弟たちは黙ってみつめるだけだった。(48ページ)


 この後、長谷川伸は『瞼の母』の上演、上映を禁ずることにした。これは母、および三谷家の人々への気遣いという理由が大きいだろう。だが、それだけではなく、『瞼の母』のモチーフそのものに長谷川伸が疑問をもったということもあったかもしれない。

 母と会いたいとしても会ったからといって悲しみが癒えるわけではない。母と再会することを究極の目標のようにして生きる生き方には、何か足りないところがあるのではないか。にもかかわらず母と会いたいという気持ちの真実性は疑えない。山折は『瞼の母』の脚本に書かれた「虚無の心」という言葉に、長谷川伸の宗教的哲学的境地が見て取れると示唆しているようだ。私としては、それは「悲しみとともに生きていく」という覚悟を、そして恨みを晴らしたり代償を求めたりすることなく、母への愛と感謝と諦めへと至る成熟の歩みを表すものと捉えたい。山折の叙述は、『瞼の母』という題の意味を考え直す上で多くの示唆を含んでいる。


沓掛時次郎に見る民衆の倫理観


 長谷川伸の股旅物の魅力がどこにあるのか。山折は佐藤忠男『長谷川伸論』から引き継いだものが大きいと自ら語っている。「面白いのは佐藤氏が、長谷川伸の生い立ちに触れている点」だという。日本の大衆文学を築き上げた人びとのなかには、吉川英治、菊田一夫、松本清張など学歴を踏んでいない人びとが多いが、彼らの「教養」とは何か。長谷川伸はこの問いに答える鍵を提供しているという。

 そして、長谷川伸は「民衆の精神史研究」のもっともすぐれた開拓者だったと言うのだが、それはどこに現れているのか。佐藤は任侠道の究極は弱者に対する「負い目」を担い続けることだといっている。典型的には『沓掛時次郎』である。

 沓掛時次郎は中仙道の熊谷宿が舞台で、中ノ川一家の親分が召捕られ、三蔵だけが残っているところに、敵方がなぐりこみをかける。そこへ、たまたま敵方の親分の家にわらじを脱いで世話になっていた沓掛時次郎が出てきて、三蔵を斬り殺す。恨みも何もない三蔵だが、敵方に「一宿一飯の義理」がある時次郎が殺さざるを得なかった。三蔵は虫の息で妊娠している女房のお絹と息子の太郎吉を指さして時次郎に「頼む」という。時次郎とお絹と太郎吉の三人の旅が始まるが、時次郎が博徒の喧嘩に助っ人を頼まれ、戦っている間にお絹は死んでしまう。母の骨箱を抱えた太郎吉と時次郎の二人旅が始まり、幕となる。

 この戯曲の筋を思いついたのは、長谷川伸が子どもの頃に、父の営む店に妊娠した女を連れてきた徳という名の土工のことがあったからだ。その女は徳の友人の女房だったがその友人が死ぬとき、自分の女房とお腹の子どもを見てくれと頼まれ、固い約束をかわした。「それで生活を共にしていたのだったが、女とのあいだはきれいなままだった。そのとき心にとめた見聞がもとになって、のちの『沓掛時次郎』ができあがったのである」(26ページ)。

 山折は佐藤の『長谷川伸論』の要点と言うべきところを、以下のように述べている。


股旅物は封建的な任侠の世界を題材にするものだった。それが大衆にうけたのは、惨めな現実に花咲く人情話がこの上なく哀切で美しかったからである。非合法のヤクザ社会の出来事として語られたために、かえってこの世ならぬ効果と感動を誘ったのかもしれない。(中略)

 それなら佐藤氏は、どのような意味においてそういっているのだろうか。それが『長谷川伸論』の冒頭に掲げられている「忠誠心の二つの道」と言う文章の中で語られている。これは任侠道と武士道を、忠誠心という観点から比較しているのであるが、その中で、任侠道の究極は弱者にたいする「負い目」を担い続けることだといっている。この場合、弱者の典型はしばしば「女」であるという。作品に登場する主人公は、自分より弱い、哀れな女のために忠を尽くす。それがモラルの土台となっていると言うのである。(31−32ページ)


尽くすべき対象は弱い者


 ここで、佐藤忠男の『長谷川伸論』のテキストに目を向けておこう。「忠誠心の二つの道」の『関の弥太ッぺ』にふれた部分だ。佐藤によればこの戯曲のあら筋は、「流れ者のやくざが、自分が斬ったスリの子を、その祖父母の家にまでとどけてやり、自分はまた旅に出て、再びそこに通りかかる。すると、むかし助けてやったその子が年ごろの娘になり、自分のニセ者に求婚されて困っている。やくざはニセ者を懲らしめ、自分がそのホン者であることは娘に隠したまま、自分を付け狙う連中との斬合いの行なわれる河原へと出かけてゆく」というものだ。

 この筋を紹介して、佐藤は「長谷川伸の作品は、すべての股旅ものの古典だが、そこでは、尽くすべき対象は、弱い者、可憐な者、あわれな者に決まっている。「弱気を助け、強きを挫く」という原則から外れることは決してない。もうひとつ、長谷川伸の作品では、やくざは常に、自分を恥じている」(『長谷川伸論』、20ページ)という。

 沓掛時次郎も関の弥太ッぺも番場の忠太郎も、やくざの争いごとで人を殺している。けんかと戦いになれば強くて英雄的ともいえるのだが、そんな生き方は世間で通用する道理にはずれていて、だからこそ身を隠すようにして旅を続ける身の上なのだ。


常識的に考えれば、いくらやくざの掟だからといって、恩も恨みもない他人をなぜ斬った、と言う疑問が出ることになり、しようのない封建的な思想だ、ということになるわけだが、もっと深く考えれば、人間は戦争では、恩も恨みもない他国人を平気で殺している。一宿一飯が、まあ二十年ぐらい国家で生活しているということに延長されているだけで、掟で関係ない他人を殺すことには変りはない。長谷川伸の小説や戯曲では、そういう掟に生きるということが、あたかも、やくざのそして人間の原罪ででもあるかのように把握されている。堅気の人間はその種の原罪を意識する機会に乏しいが、やくざはおきてに縛られる度合いが強く、その生死が苛烈であるだけ、その原罪を意識することも強い。(20-21ページ)


上からの慈愛、思いやりではない


 主人公のやくざは貧しい百姓のせがれかなにかで、貧しさゆえにぐれて放浪しているという点では社会の被害者といってもよい境遇だ。だからこそやくざの掟に従うような立場に追い詰められるわけだが、そこでは強さを発揮するヒーローである。だが、その強さの結果、「自分などよりももっとかわいそうな人間を、もっともっとかわいそうな境遇につきおとす結果になる。長谷川伸のヒーローはそれをいつも、己れの原罪として背負うのである」(21ページ)という。「もっとかわいそうな人間」は多くの場合、女だ。これは長谷川伸の作品を踏まえた1960−70年代の加藤泰監督の東映やくざ映画も同様だ。

 佐藤はこのように論じてきて、このモラルを一方で「愛」とか「ヒューマニズム」と比べている。「自分が優位に立って弱者に手をさしのべるというのではなく、負い目を感じて尽くす、というところに、「愛」とか「ヒューマニズム」という外来の観念ではとらえにくい微妙なニュアンスの違いがある」(23ページ)という。これについて山折は、次のように述べている。


相手にたいする負い目を正しく意識することこそが人間の自然の情であり、モラルの源泉なのだ。ここで注意しなければならないのが、たんなる相手にたいする「思いやり」ではなく、「負い目」であるといっている点ではないだろうか。「負い目」の情を抜きにした「思いやり」は軽薄である、という意識がその背後には控えている。今日のわれわれの社会ではしばしば「思いやり」ということを言う。「思いやり」、「思いやり」とばかりいって、人とのつながりの大切さを強調する。しかしそこには、相手にたいする負い目を意識する人間の自然の情が欠けているのではないか、そのような佐藤氏の声、いや長谷川伸の声がきこえてくるようである。(『義理と人情』32ページ)


弱い者への忠、弱い者への負い目


 これは助けになる解説だが、山折が省いているように見えるのは、『長谷川伸論』からの上に引いた引用箇所にすぐ続く箇所の佐藤の「忠」と「義理人情」への言及である。


それは、まさに義理人情というものであるが、この言葉もあまりにばくぜんとしていて意味の確定しにくいものなので、もう少し意味を限定すると、それは、一種の「忠」という観念に近いものではないかと思う。忠という観念は、主君への忠誠とか、忠君愛国とかいう文脈の中でばかり使われすぎたために、今日ではもっぱら、自分よりも上位の何者かに対する忠誠を意味する観念になっているが、もともとの意味は「誠実」に近いものであり、相手が何者であるかに関わりなく、その相手に誠実をつくす義務感を示す言葉であると思う。(『長谷川伸論』23−24ページ)


 では、長谷川伸の作品で描かれるヒーローの「忠」の対象はどういう人たちか。「自分より弱い、あわれな自分よりもっとあわれな女」である。弱い女のために「忠をつくすというところにモラルの土台」がある。これは「負い目」の対象ということでもある。「すべての男は、すべての女に負い目があり、すべてのやくざは、すべての堅気の衆に負い目があり、すべての大人は、すべての子どもに負い目がある。ただ、それを自覚するかどうかが、良い人間と、悪い人間との違いであり、その自覚をうながすことが彼らの(長谷川伸や加藤泰のー島薗注)ドラマツルギーなのである」(同前、24ページ)。

 義理人情と忠と負い目を重ねていること、それを弱さゆえの苦難や悲しみと結びつけているところに佐藤の論の特徴がある。そして佐藤はさらにそれを「天皇制の論理」とも対比している。「忠誠心の二つの道」とは股旅物の道と天皇制の道とを指すものだろう。


人間同士の間では、負い目はアプリオリにあるのだ、というこの感覚は、天皇制の論理において、すべての日本国民は生れながら天皇に負い目をもっている、とされていた心情的な論理の構造に近く、しかも、それを逆転させたものであると思う。それは忠誠観念の一種であり、しかも天皇制的忠誠観念とは逆の方向を持つものである。(同前)


 ここは、佐藤の分析の深いところだが、山折はここには踏み込んでいない。義理と人情と分けて考えるのは適切ではない。義理人情という情感的倫理の世界と捉えるべきだ。ここまでは佐藤と山折の重なる論点だ。佐藤がさらに一歩を進めるのは、「「義理人情」と一口で言われる情感的倫理の世界では、男が公的な世界に生きようとすると、私的な世界では負い目が増大する」(同前、25ページ)。そしてそれは、社会で弱い立場に置かれて痛みをこうむる存在があり、やくざもそうだが、女性がそうであり、やくざと関わる女性がとくにそうだということだ。(続く)

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