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宗教の名著巡礼 第16回


スピリチュアルペインから「不条理」を捉え返す(続)

──三野博司『アルベール・カミュ──生きることへの愛』岩波書店、2024年──

島薗進


「不条理」、「反抗」、「愛」

 カミュの作品を三つの系列に分ける三野のカミュ論は次のように展開する。

カミュは自身の作品を、『異邦人』(1942年)に代表される第一の系列「不条理」、そして『ペスト』(1947年)に代表される第二の系列「反抗」に分けた。「不条理」の系列の主題は、絶対的価値の失われた時代にあって、死の定めのもとにある人間の姿を描くことだった。「反抗」の系列の主題は、歴史の名のもとになされる抑圧と殺人の拒否だった。『異邦人』の主人公ムルソーが直面した生の不条理は、人間にとって永遠の課題である。『ペスト』の主人公リユーと仲間たちが示した反抗は、普遍の価値を保ち続けている。(同前)

 続けて、三野は第三の系列の作品があるとするのだが、これは本書の副題「生きることへの愛」とも関わっている。

またカミュは早くから「不条理」「反抗」の先を見据えていた。「愛」を主題とした第三の系列の作品は、彼の急逝のため、未完成の遺作『最初の人間』だけが残された。だが、「不条理」以前の作品にすでに「愛」が語られている。彼は、一九三七年、二三歳のときにアルジェで初めて出版したエッセイ集『裏と表』のなかで、「生きることへの絶望なくして生きることへの愛はない」と書いた。闘病のためつねに死と対面することを余儀なくされた彼は、生に対する強烈な「愛」を抱き続けた。カミュの作品を初期からつぶさに見れば、そこには一貫して「愛」の主題があることがわかる。それこそが不条理や反抗の基盤にあるものだ(iii―ivページ)。

 少しわかりにくいかもしれないのは、「生きることへの絶望なくして生きることへの愛はない」という表現だが、これについては本書の若きカミュを描いた箇所に次のように書かれている。

カミュにおいて「生きることへの愛」は、逃れさっていくもの、滅んでいくもの、死にゆくものへの愛着に裏打ちされている。そのことは、しばしば引用される有名な句、「生きることへの絶望なくして生きることへの愛はない」に端的に表明されている(28ページ)。


『ペスト』に描かれている母

 「愛」の主題に関わって『ペスト』を思い起こすと、主人公の医師リユーと旅の人でボランティアの保健隊を始めるタルーの深い友情の場面が思い起こされるだろう。三野は『ペスト』において母の愛が重要な役割を与えられていることに注目している。

一九四六年の『手帖』に、カミュは「ペスト、それは女性たちがいなくて息苦しい世界だ」と書いた。『ペスト』は、女性が登場せず、男たちだけの活躍が語られる物語であるが、そこに彼らの闘いを静かに見守る母だけは描かれている。大量の死をもたらす惨事のなかで、「母と息子」の主題は、ある種の静謐をたたえてあらわれる。ペストに罹患したタルーは、リユーの家に滞在して治療を受けることになり、医師と同居する母を間近に見ることになる。彼は自分が書く手帖のなかで彼女の慎ましさを力説し、「かんたんなことばですべてを表現する彼女の話し方」を讃える。(111-112ページ)

 タルーはさらに「それほどの沈黙と陰に埋もれているにもかかわらず、彼女はどんな光でも、たとえペストの光であっても、それに対抗できる」と記している。そして、「ぼくの母もこんなふうだった」と書く。リユーと母の看病も虚しくタルーは死んでゆくが、リユー自身も自らと母の穏やかな愛を確認する。「いまこのとき、母がなにを考えているのかを、そして自分を愛してくれていることを彼は知っていた」。「母と彼はいつまでも沈黙のなかで愛し合うだろう」。『異邦人』では、母の死に対して無感動であるかに見える主人公ムルソーの異様さが強調されていた。母子関係について、『ペスト』ではだいぶ異なる描き方になっている。


『ペスト』『異邦人』と他者

 『ペスト』では、リユーとタルーのふたりが作家の分身のようで、その友情と連帯が心に残るが、他にも何人かの人物が出てきて、それぞれ個性的で異なる問題を抱えつつ、ペストとの闘いに関わっていく。フランスにいる恋人のもとに早く行きたいと思い、脱出を試みるが、考えを変えて人々とともに保健隊の活動に参加するランベール、目立たない官吏で才能がないのに文章を書くことにこだわっているが、人々を助けるために適切な行動をとろうとするグラン、自殺を試みるが、ペストが流行すると生き生きとしてくるコタールなどだ。『異邦人』にはなかった多声性に三野もふれているが(113ページ)、そもそも多声性とは他者とともに生きることの自覚、つまりは生きることへの愛の自覚の反映とも言えるだろう。

 ここで、『異邦人』を振り返ってみると、そこではアラブ人が登場するにもかかわらず、アラブ人の側からの視座はほとんど含まれていないことに気づく。主人公ムルソーはアラブ人を殺すのだが、それに対する罪の意識は明確でないようにも読める。これについて、三野は次のように述べている。

アルジェリアの植民地社会では、けんかが原因で白人がアラブ人を殺したとしても死刑になることはなかった。それゆえムルソーの過ちは別のところにある。彼の裁判は、父親殺しの裁判のすぐあとにおこなわれ、検事は父親殺しを引き合いに出しながらムルソーに無意識的な母親殺しの罪を負わせる。アラブ人殺害は、ムルソーを母親殺しの罪で断頭台へ送るための道具立てとして使われている(63ページ)。


記者カミュが描いた「カビリアの悲惨」

 カミュは『アルジェ・レピュブリカン』の記者であった1939年、カビリア地方で詳細な調査を実施し、「カビリアの悲惨」という題で11本の記事を書いていた。これについて、三野は次のように記している。

アルジェリア北部地中海沿岸の山岳地帯にあるカビリアは、農耕民ベルベル人の昔からの居住地であったが、カミュは、植民政策によって被った現地の経済的・社会的荒廃をつぶさに記述し、その問題点を明確にした。「私がカビリアのことを考えるとき、思い起こすのは、花々が咲き乱れる峡谷でも、至る所にあふれる春でもなく、この取材のあいだ毎日無言で私についてきた、目や身体が不自由な人びとの、痩せこけた頬の、ぼろ着のあの行列だった」。彼は見聞したものをひとつとして裏切るまいと努めて、真実とリアリズムの描写を提示した。そして最後に、「文学など必要としていない一連の事実に、これ以上無益なことばを付け加えないほうがよいだろうと思う」と、彼はこの報告を締めくくっている(44−45ページ)。

 『異邦人』では現地人の苦しみや悲しみについて述べることはなかったが、無実の(イノセント、潔白な)者たちの処刑や主人公の罪の意識への言及はなされていた。『ペスト』では、無実の者たちの処刑という主題が感染症に見舞われた多様な人びとという状況へと置き換えられている。『ペスト』で描かれる無言の母は「現地人」ではないが、「現地人」とあい通じる存在としての側面が強められている。


『ペスト』の物語の形而上学的次元

 『ペスト』がナチスの支配の下でのレジスタンスと類比して捉えられることは少なくない。三野によれば、カミュ自身は作品公表のすぐ後の1948年にある人に宛てた手紙で、「『ペスト』は3つの読み方ができます」と述べたという。

ひとつは「疫病の物語」、二つ目は「ナチスの占領の象徴(さらにはあらゆる全体主義体制の予兆)」、最後は「悪という形而上学的問題の具体的例証」であり、彼は「メルヴィルが『白鯨』で試みたもの」を想定していた(115ページ)。

 これについては、ナチスドイツをペスト菌に置き換え、レジスタンスの体験を感染症との闘いの寓話として描いたのは、歴史から目をそらすものだとの批判もあったという。

とりわけ出版の八年後、一九五五年、批評家で思想家のロラン・バルト(1915−1980)は、カミュが打ち立てているのは半歴史的なモラルや孤独の政治学であると指摘した。これに対してカミュは、『ペスト』は「ナチズムに対するヨーロッパの闘いを明白な内容としている」のであり、そこには歴史的意味があると反論し、さらに、自分はこの小説が「いくつもの射程において読まれることを望んだのだ」とも述べている(115−116ページ)。 

 2019年以降の新型コロナ感染症(COVID-19)に見舞われた日本の再読者として、『ペスト』に感銘を受けた私の視点からすると、カミュの発言はたいへん的確である。「形而上学的問題」や「悪」についての問いかけ、つまりは容易に答えが見つからない問いは、21世紀の現在、新たな形で問い返されている。その一つの形が死生学やスピリチュアリティについての問いである。

 20世紀の前半から中頃にかけて実存主義や「不条理」が話題になったのは、「神の死」以後の形而上学的問いへのそれなりの応答の形でもあった。だが、それは少数のエリートである哲学者や文学者によって表現されるものとしてだった。もちろん多くの人がニヒリズムに引かれていくという予感があってのことだが、多くの人にとって「不条理」がそのまま身近な現象というわけではなかった。


英雄ではなくともに生きる人として

 カミュが『異邦人』を書いたときにも、大衆との断絶感が背景になっていたと見ることもできる。そもそも「異邦人」という題だが、これは植民地状況という観点から捉え返すのではなければ、ハイデガーが「ダス・マン(通俗的な「ひと」)」という語で示したような、大衆からの疎隔感を表したものと受け取るべきだろう。社会とうまく接触できない疎外された意識をもつ特殊な人たちということである。

 『シーシュポスの神話』のなかにも「英雄」という言葉がしばしば出てくることに、21世紀の読者はとまどうかもしれない。「シーシュポスが不条理な英雄であることがすでにお解りいただけたであろう。その情熱によって、また同じくその苦しみによって、かれは不条理な英雄なのである」(『新潮世界文学49 カミュⅡ』、389ページ)。

 これに対して、『ペスト』はエリート的な存在がいない物語である。リユーやタルーはヒーローではない。黙々とやるべきことを行う医師であったり、ボランティア活動家であったりする。そして、グランやリユーの母などのいわば「無名の」人たちが何人も登場している。『ペスト』が多声的であることは三野による言及を引いてすでに示したが、これはアルジェリアの貧しい居住環境で育ち、早く父を失ったカミュ自身の足取りとも関わっている。

 『ペスト』は市井の人々を描こうとしているのであり、それはカミュがジャーナリストであったり、演劇に積極的に関わる作家であったこととも関わりがあるだろう。そしてまた結核患者として自らも死を強く意識せざるをえない存在として、若者が多く死んでゆく戦争の時代を生き延びてきたこととも関わりがあるだろう。

 「宗教の名著巡礼」に『アルベール・カミュ――生きることへの愛』を取り上げることについて意外の感をもった方もおられることだろう。だが、ここまで論じてきたところでは、納得してくださる読者が多いのではないかと思いたい。現代のスピリチュアリティという点から見ても、カミュの仕事から示唆されるものが少なくないと考える。

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背景画像:「精霊の巌」彩蘭弥

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