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宗教の名著巡礼 第20回

  • 執筆者の写真: 島薗進
    島薗進
  • 2 日前
  • 読了時間: 12分

ゴッホ作品はなぜ見る者の心をつかみ揺さぶるのか(1)

──正田倫顕『ゴッホと〈聖なるもの〉』新教出版社、2017年──

島薗進


「宗教人間学」によるゴッホ論


 ゴッホの絵画作品には深く心惹かれるところがあったが、それを宗教的なものとの関わりから考えるという機会がなかった。これは単に勉強不足だったということもあるが、私の側が、宗教的な芸術表現ということに、次第に関心が強まってきたということもある。私はこの20年余りの間に、宗教学から死生学へ、そしてスピリチュアルケアやグリーフケアへと研究関心を移動させてきたのだが、その過程で詩歌や物語、そして音楽が持つスピリチュアルな働きに大きな関心を寄せるようになった。正田倫顕氏の『ゴッホと〈聖なるもの〉』(新教出版社、2017年)と『ゴッホの宇宙』(教文館、2025年)は、まさにそのような私の関心に応じるような形で、ゴッホの作品群を捉え返そうとしているように感じたのだ。これらの書物に親しむことで、私はゴッホ作品を見る目を更新させられたように感じた次第である。


 まずは、『ゴッホと〈聖なるもの〉』から見ていきたい。序論では、ゴッホ作品の宗教性を捉えるという問題意識と、その際、絵画作品と手紙というともに重要な資料をどのように扱うかという方法論について述べられている。ゴッホが残した844通の手紙を遺族が編集して刊行し、それ自身、芸術的な価値をもつものと見られている。小林秀雄は『ゴッホの手紙』(角川文庫、1957年、初刊、1952年)でこう述べている。


……これは告白文学の傑作なのだ。そして、これは、近代における告白文学の無数の駄作に対して、こんなふうに断言しているように思われる、いつも自分自身であるとは、自分自身を日に新たにしようとする間断のない倫理的意志の結果であり、告白とは、そういう内的作業のほとんど動機そのものの表現であって、自己存在と自己認識との間の巧妙なあるいは拙劣な取り引きの写し絵ではないのだ、と。(10ページ)

 

それほどにゴッホの手紙は読み応えのあるものであり、そこからゴッホと宗教との関わりについて論じていく素材も豊富にある。


 だが、正田氏は手紙に頼りすぎることの限界を指摘する。「豊富な手紙が返って手枷足枷となる可能性がある」という(13ページ)。これは絵画が表現しているものを、それ自身として重んじるという立場だ。「絵画には言葉によって意識化されていないもっと多くの表現がある」(16ページ)という。手紙が触れていない作品独自の領域があり、それはさらに、「画家の意志で説明出来る部分とそれを超えたものが働いている部分である。表層の論理と深層の論理と言い換えても良い」(17ページ)。正田氏はゴッホの絵画作品が表現するものは、画家の意識を超えた領域にも及ぶとし、そこを含めてゴッホの作品世界を読み解いていこうとする。そしてそのような立場を「宗教人間学的」(19ページ)と呼んでもいる。


『ゴッホと〈聖なるもの〉』と『ゴッホの宇宙』


 手紙から浮かんでくるゴッホの宗教性はキリスト教に関わるものとして捉えやすい。他方、作品を「宗教人間学的」に読み解いていこうとすると、キリスト教の枠を超えた宗教性の理解が求められ、宗教性という概念をより広く用いる可能性が生じる。『ゴッホと〈聖なるもの〉』の章立てでは、第一章「キリスト教との関わり」、第二章「ゴッホのイエス」はキリスト教との関わりでのゴッホの内面理解に関わるものであり、書簡の記述が重要な役割を果たすことになる。そして、第三章「ゴッホの太陽」では、作品から多くを読み取っていく「宗教人間学的」なゴッホ理解が優勢になっていく。そして、8年後の『ゴッホの宇宙』では、その全体が後者の方向で展開していくが、それについては後ほど述べていくことにしたい。


 なお、2冊の書物には、ゴッホの絵画作品の図版が多く掲載されており、それらを度々、参照しながら本文を読んでいくことになる。私のこの紹介文はゴッホ作品について文字で述べるだけだが、インターネットで探せばすぐに画像が見つかるものが多いので、参照していただければ、正田氏の著書とゴッホ理解のいくらかの助けにはなるかと思う。


牧師・伝道師志望と挫折


 第一章「キリスト教との関わり」はゴッホの伝記のおおかたの叙述とも重なっている。フィンセント・ファン・ゴッホはオランダ南部のズンデルトというところで1853年に生まれている。父はカルヴァン派(改革派)の牧師であり、ゴッホ自身、牧師や伝道師になろうと志した時期が複数回あった。だが、まず伯父の世話によりグーピル商会で画商の仕事につき、16歳から7年間続けた(1869年から76年)。


 この間にゴッホはハーグ、ロンドン、パリなどを移動し、フランス語やドイツ語や英語に習熟するとともに、同時代の新たな思想や文学にも親しんだようだ。その間に失恋で傷つき、陰鬱に自己の内部に閉じこもるようになり、勤務態度が悪化したようで、グーピル商会を解雇される。23歳の時である。

 

 それから27歳で画家として生き抜こうと決意するまでの4年間は、ゴッホなりの宗教的な使命觀に基づく生き方の模索の時期だった。学校の教師や書店勤めもしたが、一方、熱心に宗派の違うさまざまな教会に通い、牧師になりたいと考えた。アムステルダムの大学の神学部の入試準備でギリシア語やラテン語に取り組んだが、1年余りで挫折してしまう。


 その折、古典語教師のメンデス・ダ・コスタに、「メンデス、ぼくのように貧しい人々に安らぎを与えこの地上で調和の取れた生活をさせたい人間にとって、このような恐ろしい勉強が絶対必要なものだとあなたは本気で信じますか」(『ゴッホと〈聖なるもの〉』24ページ)と記している。のちに、「僕は大学全体(あるいは少なくとも神学部)を言いようのない汚れようで、パリサイ人の温床だと考える」(24-25ページ)とも述べていることが紹介されている。

 

 その後、ベルギーに移り、伝道師を目指す。教会の指導者としての牧師ではなく、人々の生活場面で、とりわけ苦難に見舞われがちな人々のもとで伝道にあたろうとしたのだ。試用期間に炭鉱地帯のボリナージュで炭鉱夫たちの伝道にあたった。「持ち物をすべて与え、自分は裸同然でベッドもなしに寝る。坑夫と一体になろうとし情熱的な献身をした」(25ページ)。ところが、伝道委員会からは伝道師としてふさわしくないと判断され、この道も断たれることとなった。


《悲しみ》という作品


 その後、両親がいたオランダのエッテンに帰り、ここでもまた従姉妹で未亡人のケー・フォスに愛を打ち明けるが拒まれる。さらに父に教会に行くことを強制されたが、それを拒否し、ハーグに移り住む。そこで、子持ちの孤独な売春婦シーンと出会う。このシーンを描いた最初期の作品が《悲しみ》と題されたものだ。これは筆者の理解だが、人間の悲しみについてはゴッホが度々、言葉で語っているが、いくつかの絵画作品の背後にも悲しみというテーマを読み取ってよいと思う。それは最初期の《悲しみ》という作品が示唆しているところでもある。


 小林秀雄はこの作品について、「彼はこういう観念的な絵は一枚しか描かなかった、従って、おそらく唯一の駄作と言えるのだが、どういう深い仔細による駄作であるかは、彼の書簡という傑作に俟つ他はない」(『ゴッホの手紙』23ページ)と述べている。私はこれとは異なり、将来の傑作を予感させるものと見る立場だ。正田氏が引いているゴッホの手紙の以下の一節を読むと、小林が「観念的」と評しているものの意義が推測できる。

 

冷たく無慈悲な舗道の上に、陰鬱で悲しみに暮れた女の姿が君の前とぼくの前に現れたのだ。そして君もぼくも彼女の前を素通りせず、二人とも立ち止まりぼくたちの人間らしい心の促しに従ったのだ。このような出会いには何かしら驚異的なものがある。少なくとも振り返って考えてみると、暗い背景に青ざめた顔、エッケホモのように悲しい表情を見るのだ。ほかのすべては消え去る。あれがエッケホモの感情だ。そして本当に同じものがその表情にあるのだ。ただここではそれが女の顔なのである。/のちには──事情は確かに変わる──しかしあの最初の瞬間を忘れることはない。(『ゴッホと〈聖なるもの〉』28ページ)


 「ヨハネによる福音書」の言葉を引いて「エッケホモ(この人を見よ)のように悲しい表情を見る」というのは、処刑前のイエス、無力な存在としてのイエスをシーンの姿に重ね合わせているということだ。正田は「この絵においては、救う者と救われる者は相即しているのではないか」(30ページ)と捉えている。教会にはないイエスの像、イエスの精神の働きのあり方を描いた作品としてこの《悲しみ》を捉える正田氏の視点は、現代的な宗教理解、現代的な「痛みとケアのスピリチュアリティ」という点から独自性のあるものと思う。


居場所のなさから画家へ


 正田氏はこの時期のゴッホの心の深い痛みを以下のように叙述しているが、そこには多くの現代人がこうむっている苦悩に通じるものを感じ取ることもできるだろう。


不幸な人を助けたいという情熱は燃えさかっているが、両手両足は縛られ現実的には何も行動できない。牧師という職に就けない以上、説教を通して人々に語りかけることはできない。個人的に直接人と接しても、孤介で奇矯なところがわざわいし、お互いに不愉快になって関係が壊れるばかりである。自分は全く無用な人間で、この世界に居場所が見つからないのか。家族からも世間からもうとましがられ、うさんくさい人間と思われるだけなのか。(中略)伝道師の任期が切れもはや働けなくなったあと、ゴッホは長い間抑鬱状態に陥った。十ヶ月以上手紙も書けず、悶々と逆境に耐えた。鳥は羽が生え変わるときに、鳥屋(とや)にこもるという。ゴッホは自分の困難な境遇を鳥屋の時期にたとえ、まるで自分が存在しないかのようにしていたという。(33−34ページ)

 

 しかし、画家としての歩みを始めた後、ゴッホは絵画のなかに自己の使命を見るようになっていった。そして、それは彼の宗教性がそこでこそ形にできる、そこでこそ無限のものに出会えると感じ取っていったのではないか。教会のキリスト教とは異なるところにイエスの生きる姿を表すことができるということ、それは1882年の《悲しみ》で萌芽的に描かれ、1885年の父の死の後に描かれた《開かれた聖書のある静物》に明瞭に表れているようだ。

 

《開かれた聖書のある静物》と「苦難の僕」


 《開かれた聖書のある静物》という作品は、分厚く大きい聖書が開かれておかれており、その場所は『イザヤ書』の52章から53章で、「苦難の僕(しもべ)」の詩が詠われているページだ。

一方、その手前に小さくて軽そうなエミール・ゾラ(1840-92)の『生きる喜び』が置かれている。さらに聖書の横には消えたろうそくが立っている。正田氏は、この消えたろうそくは伝統的にはヴァニタス=はかなさのシンボルであり、死の象徴としても読めるという。牧師であった父の死、そして教会のキリスト教の弱体化が表現されているとするが、なるほどと思うところである。では、「苦難の僕」の箇所を示しているのはどういうことか。不当に迫害され理不尽に苦しみ死んでいった義人の姿が描かれた箇所だ。


後代イエスの死の意味が分からず暗闇の中にいた弟子たちに、旧約聖書の新しい解釈が開かれた箇所でもある。とりわけ五三章5節には「彼は何と、われらの不義のゆえに、刺し貫かれ、われらの咎のゆえに、砕かれていたのだ」と書かれている。処刑のあとイエスを裏切り逃亡してしまった弟子たちは、ここを自分たちにひきつけて読んだ。そして「僕」をイエスと同一視することで、新約聖書に特徴的な代死信仰、すなわちイエスが身代わりに死んだとする信仰は誕生した。ゴッホはキリスト教が最も重視していきた旧約の箇所をゾラの小説と対置していることになる。(38−39ページ)


 では、ゾラの『生きる喜び』はどのような物語か。書名とは裏腹に暗く悲劇的な物語だという。主人公のポーリーヌは善意と自己犠牲を貫くが、愛を得られず不幸なままだったのだという。


献身的に人々に尽くし幸福をもたらしても、自分は悲しみと辛酸にまみれるだけなのであった。彼女は孤立したままで、隷属的立場から脱することもない。ポーリーヌは生きる喜びなど全く味わわず、苦しみを一身に担っていたのだ。/とすると、「苦難の僕」はイエスのみならず、ポーリーヌとも重なって見えてくる。ゴッホがシーンにイエスの姿を見たように。それぞれの状況は異なっていても悲劇的な登場人物の間には照応関係が認められる。悲劇性という共通項でくくれば、ポーリーヌもまた無名の「苦難の僕」と言えるのではないか。(40−41ページ)


ミシュレ、ストウ、ゾラへの共鳴


 聖書と現代小説を同じ平面に並べ置くというのは、伝統的なキリスト教会の担い手たちからすれば 冒涜とは言わないまでも身の程を知らぬ軽薄さの現れと見えたのではないか。だが、ゴッホは現代小説と聖書の間に連続性があるという視座をもっていた。正田氏はここでゴッホの手紙を引く。


ぼくの意見では、ストウやミシュレは福音書の反復ではなく、続きなのだ。ミシュレやビーチャー・ストウを考えてみると、彼らは福音書がもはや有効ではないとは言わない。彼らはこの時代に、ぼくたちのこの生活に、たとえば誰かを挙げるとすると、君やぼくにとって、それをどのように適用できるかを理解させてくれるのだ。ミシュレは福音書がぼくたちにもともとただささやくだけのことを、十全に声高らかに言いさえする。そしてストウも実際、ミシュレと同じくらいのことを、十全に声高らかに言いさえするのだ。(41ページ)


 ジュール・ミシュレ(1798-1874)はフランスの歴史家で歴史における民衆の生の叙述を重視し、王制に抵抗しコレージュ・ド・フランスの教授の地位を追われた人物だ。ハリエット・ビーチャー・ストウ(1811-96)は米国で奴隷制廃止運動に加わり、『アンクル・トムの小屋』を著した人物だ。ゴッホは、ミシュレ、ストウ、ゾラのいずれもが民衆の生活のなかに、聖書が描き出しているイエスの生き方の真実に相当する何かを描き出した人物と見ているようだ。これは、ゴッホが働く農民の姿をえがいた画家、ジャン=フランソワ・ミレー(1814-75)を深く尊敬し、ミレーのモチーフにならった絵画作品を多く描いていくこととも符節が合う。


闇から光へ


 正田氏はさらに、聖書とゾラの書物を描いた《開かれた聖書のある静物》には、「闇に光を投じる存在」というモチーフが現れているのではないかと論じている。


七年前の手紙でゴッホはこう述べていた。「福音書だけでなく聖書全体の核心あるいは根本的な真理の一つは「闇に射しこむ光」なのだ、闇から光へなのだ」(126/148)。そして二年後には、彼の心寄せる文学作品もまた「闇の中の光」(W1/574)であると述べられている。また四年後の手紙(615/823)では、夜のパリでショーウインドーに小説が並ぶ本屋の光景は「光の源泉」であり「闇の中の光」のようだとたとえられる。そしていつか描きたい現代的なモチーフだと捉えられている。つまり聖書も現代文学もともに、ゴッホにとっては暗闇の中に光を投じる存在だったのだ。そうするとテーブルが二冊の本を同等に受け入れているように、両方の本を含んだこの絵全体がゴッホなのではないか。(42ページ)


 以上、『ゴッホと〈聖なるもの〉』の第一章「キリスト教との関わり」の論点のうち、1882年の《悲しみ》と1885年の《開かれた聖書のある静物》に関わるものを紹介してきた。私が共鳴する論点に偏って紹介しているところがあるかもしれない。事実、私は以上の叙述から、ゴッホ作品を見る目を大いに開かれたと感じている。


 次回は『ゴッホと〈聖なるもの〉』の第一章の他の論点にもふれつつ、第二章、第三章の論点についても述べていきたい。

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