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宗教の名著巡礼 第21回

  • 執筆者の写真: 島薗進
    島薗進
  • 2 日前
  • 読了時間: 13分

ゴッホ作品はなぜ見る者の心をつかみ揺さぶるのか(2)

──正田倫顕『ゴッホと〈聖なるもの〉』新教出版社、2017年──

島薗進


牧師の父とともに暮らし教会の絵を描く


 正田倫顕氏のゴッホをめぐる2つの著書について、この本がなぜ私の心に響くものを持っており、ゴッホの絵画作品を見る目を更新してくれたのかを示そうとしてこの連載文を書いている。現代における宗教と芸術という観点、芸術作品におけるスピリチュアリティや悲嘆の表現という観点から、正田氏のゴッホ作品解釈に学ぶ。私自身がこの15年ほどの間に死生学やグリーフケア、また「宗教後」のスピリチュアリティについて考えてきたことに照らし合わせて、ゴッホ作品の宗教性について考えていくことになる。

 

 『ゴッホと〈聖なるもの〉』の第一章「キリスト教との関わり」では、伝記的事実と作品と手紙とを照らし合わせながら、教会や制度としてのキリスト教の現状に厳しい眼差しを向けるゴッホが、にもかかわらず絵画を通して、ますます宗教性を表現することに深くコミットして行ったことが述べられている。売春婦シーンにイエスの姿を見た作品は《悲しみ》と題されていた。また、《開かれた聖書のある静物》と題された作品では、イザヤ書の「苦難の僕」の箇所が開かれた分厚い聖書と、人々の苦悩と喜びを描いた小さな書物であるゾラの小説『生きる歓び』が並べて描かれていた。弱さに苦しむ人間の痛みを通してこそいのちの恵みも現れる。そうしたモチーフがすでに読み取れるものだ。

 

 続いて正田氏は教会を描いた作品を取り上げている。画家となる決心をした27歳になってオランダのエッテンの父母のもとで暮らすようになるが、それから2年ほどして父母たちを追うようにニューネンに移り住み、牧師である父の教会の牧師館で暮らす。それから1年数ヶ月後の1885年3月、父のテオドルスが世を去る。

 

その前後に、12世紀以来の歴史を持ち、古い塔のあるニューネンの教会の解体が決まっている。古い教会の塔や農民墓地の絵、そして父と家族が暮らしていた牧師館の絵がいくつも書かれている。父の死後、早い時期に「古い塔」の「取り壊しによる競売」の絵も描かれている。正田氏は「古い塔」の教会について、「この教会は人々の生活に密着し、長年彼らを支えてきた存在として捉えられている。その精神的支柱が今まさに崩壊しようとしている。ゴッホはこれを歴史的事件と言わんばかりに、懸命に躍起になって描き留めている」と述べている(46ページ、以下、ページ数は『ゴッホと〈聖なるもの〉』からのものだ)。

 

教会批判と父との葛藤


 当時の手紙を見ると、ゴッホが教会やキリスト教に厳しく反発し嫌悪を示していたことがわかる。「教会では人は無感覚になり麻痺してしまう」のであり、ゴッホ自身も「教会の冷たく固い水漆喰の壁」の前では「当惑させられ」、「魂の髄まで凍える」とも書いている(48ページ)。

 

「おお──創始者は卓越していたのに、現代のキリスト教に対して僕は友好関係をもちえない。──ぼくは現代のキリスト教の真相をあまりにも見透かしてしまっている。若いころはあの氷のような冷たさに魅了された。──しかしそれからは復讐をしてきたのだ」。さらにゴッホはキリスト教によって諸価値が転倒されてしまっていると看破している。「ご立派な連中が買っているのは一体どんな地位なのか、どんな宗教なのか。おお、それらは全く馬鹿げたことだ。社会を一種の精神病院に、逆さまの間違った世界にしてしまうのだ」(375/456──2種類の書簡集の番号)。(同前、48ページ)

 

 厳しいキリスト教批判だが、一方でキリスト教や教会をまったく捨て去って顧みないわけではない。亡くなる寸前までもゴッホ作品には、遠景に教会の塔が見えるものがある。生命力あふれる糸杉が描かれている《星月夜》という作品(1889年)にも、遠景に小さく、しかし高い尖塔のある教会が描かれている。七年ほど前には、「お父さんやお祖父さんの精神がぼくに宿ること、クリスチャンでありかつキリストの労働者であること、ぼくの生活が名を挙げる彼らの生活ともっともよく似てくること、これらがぼくの祈りであり最も深い願望だ」と書いていたこともあった(51ページ)。だからこそ、教会を描き続けたのだろう。

 

 その背後にゴッホと牧師館の主である父との心の深い部分での葛藤があったと考えざるをえない。正田氏は前回に紹介した《開かれた聖書のある静物》について、「この絵の基層には、父とゴッホの葛藤がある」と示唆している(39ページ)。大きな聖書は父と教会を小さなゾラの書物はゴッホ自身のようでもある。そのような葛藤の反映は少し後の時期の教会を描いた作品群にも引き継がれているようだ。経済的に父親に依存し、父を引き継ぐことを目指したことがあったが、それを拒む決断をした息子である。しかもそこに宗教に対する深い思いが絡んでいたという点で、宗教に関心がある日本の読者なら宮沢賢治を思い起こすかもしれない。

 

喪の作業を表す「古い塔」などの作品


 ゴッホは父が死んだ後、子どもを連れて一時的に帰っていた二歳年下の妹アンナから家を出るよう求められた(52ページ)。40年近く後になって、アンナは「彼は自分の望むままに振る舞い、何事も容赦しないし誰も許さないのでした。どれだけお父さんが苦しんだことでしょう」と述べたという(同前)。収入がなく両親のもとに同居していたゴッホと、死を前にした父の、お互いを「許さない」ような関係に母は苦しんだことだろう。他の妹によるとゴッホはアンナからの非難をひどく不快に思い、生涯ゴッホに仕送りをし、親しく手紙のやりとりをしていた弟のテオ以外の家族としばらくは音信を絶ったという(53ページ)。

 

 父の在世時から死後にかけて描かれたニューネンの牧師館や《農民の墓地》や何度も繰り返し描かれる「古い塔」、そして「その古い塔」の《取り壊しによる競売》などの作品について、正田氏は「絵画において喪の作業を繰り返しているようにも思える」と述べている(52ページ)。

 

 父が亡くなる2年ほど前にゴッホは、「とても苦労するだろうが、ぼくは田舎の葬式を絶対に描きたいともくろんでいる。その時には、お父さんの肖像もまた描きたいと思っている。宗教的な見解におけるどうでも良い相違はさておき、ぼくにとって村の貧しい牧師の姿は類型的にも性格的にも、最も共感できるもののひとつだ。もしいつかそれに取りかからなければ、ぼくはぼくでなくなるだろう」(299/361)と述べていた(58ページ)。父への愛惜の念がうかがえる言葉である。

 

 そのような父への思いを念頭において、父の死の2ヶ月後に描かれた《農民の墓地》の絵を見ると、正田氏が作品を叙述する言葉がしっかり心に落ち着くように感じる。

 

既に述べたようにこの塔は一二世紀の古い教会建築の一部であり、取り壊しの最中である。もはや尖塔はなくなり、あと一歩で跡形もなく解体される。野の草花が手前の地面にあり生命の気配が少しはあるものの、十字架が地を多い圧倒的に死が充満している。教会は墓場つまり死の只中に立っており、それ自体墓標のようでもある。黒い鳥が教会の上空を飛び、不吉な気配が漂っている。(57ページ)

 

《畑の中の古い塔》(1884年7月)
《畑の中の古い塔》(1884年7月)

《農民の墓地》と死とともにある生


 この作品について、ゴッホ自身はテオ宛の手紙で「ぼくが言いたかったのはこうだ。農民たちは何世紀もの間そこに埋葬されてきたのだ。生きている間に掘り返したまさにその畑にである。そうしたことをこの廃墟がいかに示していることか」と述べている。

 

──またこうも言いたかったのだ。死と埋葬はなんと造作なく起こることであるか。秋に葉が落ちるように平然と起こる。──ただ土がすこしばかりひっくり返され──小さな木の十字架だ。教会墓地の草地が終わるところ、小さな事で壁の向こう側は畑がぐるりとあって、地平線を背景に美しい最後の線をなしている。──海の水平線のようだ。そして今この廃墟はぼくに語っている。堅固に作られたのに、いかに信仰と宗教が崩壊してしまったかを。──だが農民たちの生と死は今も将来もいつもいかにおなじものであるかを。あの教会墓地に生えている草や花のように、彼らはいつも芽吹いては枯れるのだ。ヴィクトル・ユゴー(V.M.Hugo, 1802-1885)もまた葬られたばかりだが、彼は「宗教は過ぎゆくが、神はとどまる」と言った(411/507)。(同前、56ページ)

 

 これは《農民の墓地》についてのゴッホ自身の解説だが、ほぼ同時期に描かれた《取り壊しによる競売》についても正田氏は「教会の周りには死が立ちこめている」(59ページ)と述べている。

 

 ニューネンの牧師館で父母と過ごした1年半ほどの時があり、父が亡くなり、追い出されるように牧師館からカトリック教会の施設に移動し、半年後にはニューネンを去る。この間に、ゴッホは父との死別、母や他の家族との別離を経験する。その中でキリスト教会との別れも決定的となる。正田氏はこれを「取り返しのつかない喪失体験」であり、絵画作品はそれに伴う「喪の作業」の現れだと捉えている。「古い塔」や農民墓地や「牧師館」を描いた作品は、挽歌とよぶこともできるかもしれない。

 

 それは父と教会のキリスト教への挽歌であるが、その対象は牧師や伝道者であろうとして苦しんできたゴッホ自身でもあると正田氏は捉えている。

 

確かに崩壊してゆく教会には、描かれなかった父の姿が包含されている。そして同時に「ぼくでなくなった」ゴッホ自身の姿も重なっていると思える。喪の作業という観点から見れば、これもまた自己の一部が朽ち果てていくことの確認であり、その事実を受容するための作業であったのではないか。(58-59ページ)

 

 これは正田氏が述べていることではないが、地平線に小さく、だが画面全体にとっては一つの中心として描かれる「古い塔」の心象は、後に糸杉の彼方に小さく描かれる尖塔にも引き継がれるのではないだろうか。10歳代後半から20歳代の半ばに至るまで、経済的に依存し、葛藤がたえないが、敬愛の念も深かった父と、父をついで牧師か伝道者になろうとするゴッホ自身の自我の何かがそこに託されていると捉えても良いのだろう。そうだとすると、「古い塔」の心象は尊いものの喪失という悲しみのモチーフとつながっており、売春婦シーンを描いた《悲しみ》や《開かれた聖書のある静物》とも連続的なものと見ても良いのかもしれない。

 

《農民の墓地》(1885年5−6月)
《農民の墓地》(1885年5−6月)

死の前に描かれた《オーヴェールの教会》


 正田氏の導きに従って、さらに時期の異なる2つの教会を描いた作品を見てみたい。ひとつは、父の死後5年を経て、37歳のゴッホが自殺を図り死亡するまでの約2ヶ月間滞在したフランスのオーヴェール・シュル・オワーズの聖母被昇天教会を描いた《オーヴェールの教会》とよばれている作品だ。精神を病み、発作の可能性を恐れながら、死を強く意識する滞在中の作品だが、一見したところでは安定しているようにも見える。

 ゴッホ自身は妹のウィレミーン宛の手紙で、以下のように述べている。

 

ぼくの手元には村の教会のより大きな絵がある。どんな出来栄えかというと、純粋なコバルトの深くて単純な青色の空を背景に、建物は紫がかり、ステンドグラスの窓はウルトラマリンの青い色斑のように見える。屋根はすみれ色で、部分的にオレンジ色だ。前景には花のさいた緑が少しと日の当たったバラ色の砂がある。これはまたぼくがニューネンで描いた古い塔とほとんど同じものだ。ただ今はおそらく色がもっと生き生きとし、壮麗であるだろう(W22/879)。(60ページ)

 

 この教会は12世紀後半に建てられたものだが、外見上まったく崩れかけた様子はなく、正田氏が実際に見に行って現在もどっしりと安定した外観を保っていると述べている(62ページ)。「だがゴッホが描くと不安定極まりなく、倒壊寸前に見える」という。そして、「何よりも注目すべきなのは、祭壇のある空間が手前から奥へと押しつぶされてしまい、もはやこの教会は心臓部を欠いてしまっていることだ」という(同前)。正田氏は、この絵によるとイエス像があるはずの祭壇の部分が空間的に抹殺されており、イエスの居場所がなくなっていると論じる。この論は現地で教会の外観や祭壇をつぶさに見て、ゴッホ作品の特異性を見届けたことに基づくユニークな論だが、私にはすんなりと飲み込めないところがある。

 

 しかし、ここに描かれている農婦の像についての、これもたいへんユニークな解釈を読むとそうかもしれないと思わないでもない。この絵では教会には影があるが、農婦には影がない。そして、農婦は教会の脇道を教会からなるべく離れるように、両肘を張り肩を怒らせて歩き、前方にあるものに対して対決的に見えるという。そして草花に親和的で、彼女を中心に〈気〉が流れるように描かれている。農婦自身が太陽であるとすると、こうした描き方が納得のいくものとなる。そこで、「農婦は教会の教えなどとは関係なく、自分の生活を太陽と重なって生きている。生命原理を生きている」という。

 

このようにゴッホの絵画における光は外界の光線を忠実に再現したものではない。太陽と農婦の間では主客の関係が崩壊し、農婦即太陽、太陽即農婦となっていたのである。「日の当たったバラ色の砂」は現在褪色し茶色いタッチになっているとはいえ、農婦という太陽に照らされ輝いているのだ。(68ページ)

 

《オーヴェールの教会》(1890年6月)
《オーヴェールの教会》(1890年6月)

滅びゆく教会と働き生きる者との対比


 正田氏はさらに進んでユニークな解釈を押し進める。農婦こそが生命力の中心として描かれ、教会は権威を失い、崩壊に近づいており、人を寄せ付けず、孤立したまま佇んでいる。「いつの間にか形骸化した遺物になってしまったのだ。だが教会の時計盤は農婦の方に向けられ、眼のように彼女を見守っているようでもある。教会はくずおれ滅ぶことで、より大きな生に主役の座を明け渡そうとしているように見える」(同前)。

 

 こうしたユニークな解釈を裏打ちするものとして、1881年の《重荷を背負う者たち》と1887年の《ラ・ルービーヌ・デュ・ロワ運河と洗濯女たち》が参照されている。どちらの作品でも、遠方に(前者では合わせて片隅に)教会や十字架が描かれているが、主人公は働く人間たちで、そこにこそ生きるキリストの姿や生命の根源の像が現れているようだ。働く人間の生成はゴッホが深く愛したミレーの作品に通じるものだ。したがって、これらの作品で描かれた教会や十字架は、滅びゆく過去の権威を象徴しているものと捉えることができる。こう正田氏は論じている。それは、「おお――創始者は卓越していたのに、現代のキリスト教に対してぼくは友好関係ももちえない」(378/464)というゴッホの手紙の表現に合致するものだとする。

 

キリスト教とキリスト教でないものの対立、つまりキリスト教とイエスの対立はほぼ同時期ニーチェやドストエフスキー、トルストイによっても表明されている。また聖書学もキリスト教を相対化し、歴史上のイエスの実像を探究し始めている。こうした一九世紀後半の精神史的潮流の中にゴッホを位置づけることも可能である。(中略)

 

ゴッホはイエスを教会の囲い込みから解放し、イエスと人々の間にある夾雑物を取り除こうとしたように思える。(中略)こうした意味で、《オーヴェールの教会》は一九世紀末の精神運動の一翼を担っている。ゴッホはキリスト教の相対化およびイエスの探究を同時代の巨人たちと共に成し遂げたのだ。(71−73ページ)

 

 さらに、正田氏は「滅びの聖性」に論究する。「人間の幸福や救いを実現したいという元来の想いとは裏腹に、何もできずに哀れに滅ぶしかない。しかし矛盾と軋みを一身に体現した教会はそのことで逆に聖なる磁場を発散する。なぜなら最も惨めで最も見窄らしいものが、最も高貴なメッセージを全身で発しているのだから」(73ページ)。

 

 ここまでが『ゴッホと〈聖なるもの〉』の第一章の紹介になるが、ここだけでは十分に納得できないと感じられる方もおられることだろう。『ゴッホと〈聖なるもの〉』の残りの2章、そして、『ゴッホの宇宙』まで読むとより理解しやすくなるように思う。だが、ゴッホの生涯の概要とゴッホのキリスト教との関係を論じたこの第一章を丁寧に読んでこそ、正田氏のゴッホ論の核心的な部分に近づきやすくなるということも確かだろう。


《重荷を背負う者たち》1881年4月 
《重荷を背負う者たち》1881年4月 
《ラ・ルービーヌ・デュ・ロワ運河と洗濯女たち》 1888年6月
《ラ・ルービーヌ・デュ・ロワ運河と洗濯女たち》 1888年6月


 



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