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宗教の名著巡礼 第7回


危機に臨む神話と詩の力(1)

──鎌田東二『悲嘆とケアの神話論──須佐之男と大国主』春秋社、2023年5月──

島薗進



本書成立の経緯

 本書には「あとがき1」、「あとがき2」があり、それぞれ1月4日と17日の日付がある。その後に「補記」があり、1月10日から約1ヶ月の入院生活と、ステージⅣの告知があり、「昔であれば、余命二年が限度であろうが」と死の近さの自覚が述べられている。そして、「そのような死との対峙のさ中で、神話と詩との対峙に取り組み、生涯をかけて探究してきた成果のエキス」として本書を上梓すると記されている。

 本書刊行に至る背景には、一方に2018年から刊行されて来た神話詩五部作があり、他方に『古事記ワンダーランド』(2012年)などの数々の神話を軸とした神道論がある。鎌田氏の詩には私自身、20歳代のときから親しんできたが、新たな神話詩五部作は現代的な危機的状況を踏まえた緊張感と突破口を見失わない躍動感にあふれたもので大いに鼓舞されてきた。また、記紀神話に精通し、比較神話的な視座ももちつつ独自性の高い実践的かつ学術的な解釈をし、現代的な神道理解の基盤としている鎌田氏の古事記論には、かねてより敬服しつつ学んできた。

 しかし、この『悲嘆とケアの神話論』は格別である。そのことを鎌田氏は氏らしい挑戦的、刺激的な言葉で述べている。「これはわが執念の書であり、神話について客観的な立場からの研究や解釈を主としてきた宗教学や人類学に対しての挑戦状であり、『古事記』を含む日本文学史を十分に踏まえることなく日本文学に従事してきた文学者たち、作家たちに対する抗議の書であり、「遺言」でもある」(260ページ)。

 他方、「痛みとケアの神としての大国主神」という観点の独自性を強調したところでは、「このような観点を示すことによって、現代社会や現代世界に向き合う神道神学のありようを構想してみたい」とし、そして「七十一歳を過ぎてようやく「神道神学」の領域に少し近づくことになった」とも述べている(193ページ)。長く蓄え育てられてきたテーマが、死に直面するこのときにこそ新たに花開いたと言えるだろう。


生涯の課題と新たな主題

 著者自身が「遺言」の書とよぶ本書だが、「詩と神話」という生涯の課題と執念を、新たな形で実らせたものでもある。それは「痛みとケアの神」という主題にそって大国主の新たな理解に焦点を合わせてもいる。鎌田氏自身の探究にとっても新しい地平が見出されており、神道神学にとっても新しい次元を切り開くものになるはずだ。その自負にふさわしい作だろう。

 鎌田氏の諸著作を長く愛読していた私としては、学者・表現者としての生涯を貫く通奏低音的地平と、2010年代以降の鎌田氏が新たに獲得した地平が、コロナ禍やウクライナ戦争やステージⅣのがんとの直面を通して新たな地平融合を起こした書物というところに注目したい。本書は神道を基盤とした独自の現代宗教思想として読み取れると思うが、それはこの新たな地平融合によって可能になったものだろう。

 これは出雲神話の新たな解釈の積み上げによってなされている。1)「幼少期から啼き叫び続け、青山を枯山になし、海の水を干上がらせる巨大暴力神」須佐之男を受けて登場し、2)二度殺され二度甦った「痛みとケアの神」としての大国主、そして、3)その大国主の国譲りとを経て日本の特殊な平和主義へ—この3段階による出雲神話の捉え返しである。

 大国主神話のこれまでの捉え方については、結章の冒頭に主要な研究が取り上げられており、「伝統的な幽冥神学的枠組みから離れて現代神学的な課題の只中に投げ込んでみたい」(195ページ)というモチーフが示されている。阪神淡路大震災とオウム真理教事件のインパクトは大きかった。さらに、コロナ禍とウクライナ戦争を経て、この構想が熟して来たという。だが、私の見るところでは、東日本大震災後の災害支援やグリーフケアの現場への関与がもたらした「痛みとケア」や「弱さ」の力への関心が、より大きく作用しているようにも見える。


須佐之男の悲しみと歌の力

 本書では須佐之男についての捉え返しも一定の位置を占めている。とくに第1章「日本神話詩」の「開放譚 スサノヲの叫び」は現代風にわかりやすく、平明に書かれており印象的だ。「父よ/あなたは あさはかだ/父よ/あなたはひとりよがりだ/いつも そうだった/おとこたちの 手前勝手はもうたくさんだ」。この第1章の詩篇は五部作詩集のなかでも特異である。

 鎌田氏の詩篇の多くは鋭く輝く言葉の力強いリズムと躍動に特徴があって、美しく繊細だがときに難解だ。第3章「悲嘆の神話詩」から「嘆きの城」の末尾を例に引く。「どうか教えてください/秘密の扉の開け方を/嘆きの城を焚き上げて/星空の風とする魔法をお示しください」「海風の中/マンドリンがひとりでに鳴った」「立ち上がるオルフェウス/冥界下りのスサノヲととも」(158−159ページ)。ところが、この「日本神話詩」では、少し前の時代の金子みすゞ、野口雨情らの童謡や、1970年代以降の中島みゆきの作品などの「うた」に近い言葉で語られていて、入っていきやすい。神道ソングライターとしての鎌田氏の面目躍如というところもあり、日常的な痛みや葛藤を表す平易な言葉で語られている。多くの人たちに受け入れやすいものではないだろうか。

 「結章」の3「いのちとむすひと神々」では、イザナミがその死を代償として生まれた火の神カグツチを殺し、その血の飛沫から神々が誕生することについて、「いのちや生死の問題を考える時に『古事記』はさまざまな問いの材料を提供してくれる」として、以下のように述べている。

  ここでは、殺害された神は死によってすべてが終わるわけではなく、殺された神々の血からまた新たな神々が出現するというように、死と生成、死と誕生が織り合わさる形で分かちがたく結びついている。そしてその生まれてすぐ殺害されたカグツチとイザナミの痛みと悲哀を受けて化生してきたのが須佐之男命というのが私の解釈である。(208−209ページ)

 須佐之男は悲嘆の塊のような存在だ。だが、その須佐之男も「うた」でこころを晴らすことはできた。音として力をもつ詩、すなわち「うたの力」である。

 母の痛みと悲しみを背負いきれずに 暴れに暴れ/壊しに壊し/わめきにわめいてきたおれが/初めて 正調の調べを持った晴れの歌をうたったのだ

   八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに

     八重垣作る その八重垣を

 須佐之男もうたの力で「かなしみをほぐし/母の痛みと恨みを 解き放った」とある(45−46ページ)。独自の須佐之男理解であり、「悲嘆」に人々の関心が向く現代ならではの捉え方と言えるだろう。

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