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宗教の名著巡礼 第6回


統一教会の問題点を内から見通す

──櫻井義秀著『統一教会――性・カネ・恨(ハン)から実像に迫る』

   中公新書、2023年3月──

島薗進



 統一教会については多くの書物が書かれてきたが、宗教学、宗教社会学の学術的な視点を踏まえ、その全体像を示そうとした格好の案内書が刊行された。櫻井義秀『統一教会──性・カネ・恨から実像に迫る』である。桜井はすでに中西尋子との共著、『統一教会──日本宣教の戦略と韓日祝福』(2010年)、単著『カルト問題と公共性──裁判・メディア・宗教研究はどう論じたか』(2014年)を刊行しているが、新著は新たな知見が数多く盛り込まれており、一般読者にも理解しやすく書かれたものでありながら、専門的な研究者にとってもたっぷり読み応えのある書物である。2022年7月8日の安倍元首相殺害事件の後、統一教会について多くの論述がなされてきたが、本書によって得られる歴史的、かつ問題解明的な見通しは大いに助けになるはずだ。

 第一章「メシアの証し──文鮮明とは何者か」では、日本の植民地統治の時代に育った韓国のキリスト教系の新宗教についての概観を示すとともに、統一教会がどのように形成されたのかの歴史を示している。とくに性による罪を強調しつつ、性と血統転換による救いを説くキリスト教系の信仰系譜から、統一教会が際立った存在へと発展する経緯は興味深い。日本の植民地統治とそれがもたらしたとも言える朝鮮戦争による苦難に対する「恨(ハン)」が、教祖の信仰の基盤にあったのは確かだ。教祖は韓国に優位を置き、日本に対して厳しい見方をしている。だが、そのような信仰が韓国ではあまり成功しなかったのに、日本でこそ多くの信徒を得るに至ったのはなぜか。本書の底流にある問いかけともなっている。

 第二章「統一原理と学生たち」では、日本での60年代から70年代にかけての運動が一定の成功を収めたことが、当時の左派学生運動との対比を通して示されている。「理念主義と暴力性こそ、学生運動の負の遺産であり、当事者やシンパとなった学生たち、学生運動に擁護的であった左派知識人の間で総括的な反省がなされなかった点でもある。そして、まさにこの二つの特徴(理念主義と暴力性──島薗注)が、統一教会を担った幹部信者たちにも継承されることになる」(80-81ページ)とあるが、これは重要な指摘である。統一教会の布教や信仰活動が多くの人権侵害を生んだことの背景が問われているのだが、この時期の若手信仰者がその後の教団指導部となったことに一つの要因があることが示されている。

 第三章「統一教会による人材と資金調達の戦略──布教・霊感商法・献金」では、多くの人権侵害を生んだ活動の実態を示しながら、随所でその暴力性の要因を明らかにしようとしている。一つには、「活動家たちであった学生たちが社会人として働き、その給与で家族を養い、可能な範囲で献金や喜捨を行うという社会生活を経験しなかったこと」であり、また「幹部信者は前衛(さきがけ)としての意識が過剰であり、誰も知らないことを知っているというエリート意識を持」っていたことにあるという(112-113ページ)。

 しかし、ある時期からむしろ従順で上からの命令に従う信徒が多数を占めるようになり、それに呼応する信仰活動の形態が広がっていく。80年代の霊感商法から90年代後半以来の先祖解怨による搾取へと展開するなかで、命令する少数の教団幹部と貧困で厳しい生活に耐え、ひたすら自己犠牲的な献金や労働や信仰活動を行う一般信者に分かれていく。桜井は統一教会信徒の実践信仰の特徴を、1)マゾヒスティックな信仰、2)体験主義的な信仰、3)逃げ場のない信仰、と捉えている(158-159ページ)。

 ここから、「乾いた布からさらに水滴を絞り出すような信仰生活になぜ耐えているのだろうか」という問いが出てくる(159ページ)。これについて、「祝福」つまり合同結婚によって至上の幸福が得られるという信仰とか、植民地時代の日本が犯した罪に対する悔悛の意識とか、いくつかの示唆がなされているが、必ずしも明快な答えにはなっていないようだ。韓国に嫁いだ日本人女性の問題を通して、上記の問いへの答えを示そうとしているのが第四章「祝福と贖罪──韓国の日本人女性信者」と見ることもできる。彼女たちが信仰を振り捨てることができた場合もある、だが、教祖がメシアであるという信仰を捨てることは、容易なことではない。あらゆる犠牲を払って、その信仰を支えようとしてきた過去があるからだという。

 第五章「統一教会の現在と過去──法的規制と新宗教」では、これほどの人権侵害を行なってきた教団の違法性はどこにあるのかが問い直されている。1987年に郷路征記弁護士によって提起され、2001年に札幌地裁の判決が出た「青春を返せ訴訟」の重要性が示され、信仰活動そのものが当事者の信教の自由を奪う違法性をもったことが認められる。なぜ、民事裁判によってようやく2000年代に入って違法性が明らかにされたのか。刑事事件による解明がなぜかくも少なく、ようやく2000年代後半によってなされるに至ったのか。統一教会問題を踏まえて「カルト」の法的規制を考えるのであれば、この理由の解明を避けることはできないだろう。

 教えられるところのきわめて多い書物であり、新宗教研究書としても高い達成度をもった書物であるが、一点、注文をつけるとすれば、政治の関与の問題があまり取り上げられていないことである。統一教会の暴力性、抑圧的な教団構造、そして違法性の摘発が長くなされなかったことは、この政治の関与という問題を抜きにしては明らかにできないものではないだろうか。

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