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宗教の名著巡礼 第5回


宗教研究にこそ哲学の突破口がある

──高木きよ子著『ウィリアム・ジェイムズの宗教思想』

   大明堂、1971年5月──

島薗進



 独自性があまりに高く、同時代を大きく超えているためにあまり読まれない、あるいは適切に継承されていないような書物がある。ウィリアム・ジェイムズ(1842−1910)の『宗教的経験の諸相』(1902)はそのような書物だ。ジェイムズを哲学や心理学の歴史の上で理解することも重要だし、その意義は大きい。だが、ジェイムズを宗教学の先駆者として、また宗教研究者の傑出した先達として捉え返すことも必要である。いや、そうしないとジェイムズの求めたところがよく理解できないのではないか。

 このような思いをもっている私にとって、ジェイムズ理解の力強い支援者が故高木きよ子氏(1918−2011)である。高木氏の西行関係のご著書、桜関係のご著書も独自で、現代的な視座が豊かな貴重なお仕事だ。歌人であり、米国での学びが長く、晩年は源氏物語の講義を続けておられた高木氏だが、文学の素養と宗教学の素養に加えて、哲学や心理学も深く学ばれ、この書物をまとめられた1971年にはアメリカ・カナダ十二大学連合日本研究センターで教えておられた。英語圏の学生に日本学の基礎を教えるという立場におられたのだが、私が東京外国語大学日本語学科に奉職した1981年にもその豊かなご経験を踏まえて、留学生の日本学教育について教えを受けたという経緯もある。

 その高木氏の『ウィリアム・ジェイムズの宗教思想』はジェイムズの生涯と学問と思想の全体像を描き出しながら、人間としてのジェイムズにとってなぜ宗教が重要であったか、また、彼なりに宗教を理解することが学者としての歩みの核心にあった哲学的関心にとっていかに重要であったかが理解できるように書かれている。

この文章でその全体を紹介することはもちろんできない。ここにはいくつかの印象深い叙述を抜き出して、私のコメントを付け加える。

 「ジョナサン・エドワーズ、エマソンのたどった道、──すなわち、カルヴィニズムに対する反カルヴィニズム──は、時代をへだてて、ウィリアム・ジェイムズの祖父──父の線で、同じようなくりかえしをみせるのである。そして、その思想の流れが、ウィリアム・ジェイムズの宗教への態度として展開する過程ともなってゆくのである。/ジェイムズの友人で、20世紀のアメリカ哲学を代表するジョサイア・ロイスは、次のようにいっている。「アメリカ哲学を代表する人間は三人いる、それは、ジョナサン・エドワーズ、エマソン、そしてウィリアム・ジェイムズである。」(25ページ)

 『宗教的経験の諸相』を注意深く読むと、カルヴィニズム的な神と人間の断絶、そして深い罪の自覚に基づく救いの信仰(エドワーズ)から、内在する神がもたらす恵みの経験を基盤とした調和的な宇宙の思想(エマソン)、その両者を引き継ぎ、自らの苦悩を受け止めつつ「信じる意志」の道へと歩もうとするジェイムズの生涯の道程が見えてくる。高木氏の著書はそのことがよく分かるように書かれている。

 次の叙述は、ジェイムズが自然科学者を目指して化学を学んでいたとき、生物学で教えを受けたルイ・アガッシから学んだことについて述べているところだ。

 「具体的事実に徹することを、身につけたのも、アガッシに負うところがきわめて大きい。「自然にしたしんで、事実を自らの手でとりあげよ。自らの目で観察せよ」ということばが、アガッシの口からたえず出て、それが、ジェイムズの心を深くとらえた。アガッシは、ゲーテのファウストの中の句、「友よ、すべての理論は灰色なり。黄金なすいのちの枝はただみどり」を好んで用いた。ジェイムズは、終生この句を忘れることがなかった。それまでの彼の目にふれた思想的傾向は、ものごとの原理をとらえ、目的を考え、その価値を云々する方向であった。その傾向に対して、抽象的観念をすてて具体的事実に徹することに目覚めさせたのは、アガッシにほかならなかった。」(48−49ページ)

 これは哲学批判の哲学の道を選ぶということでもある。兄のヘンリー・ジェイムズの文学作品は哲学のように難解だが、『宗教的経験の諸相』は文学作品よりも人の心を引き込むという評があったと思うが、それを思い起こさせる。

 ジェイムズが自らの考え方の核心を得るのは20歳台の後半、うつ的な状態に陥り、病的な不安と恐怖に囚われた経験の後のことである。ジェイムズは聖書の言葉にかろうじて支えられ、不安と恐怖から立ち直ることができた。これは平凡な宗教体験として捉えることもできる。

 「しかし、この宗教体験ののちに、ジェイムズが到達した境地は、より重大な意味をもっている。それは、生きていることに対する不安の感じであり、それをのりこえて、いかに生きていくかという解決を見出そうという苦悩と工夫である。そこに、ジェイムズの、人間の問題と、その解決があった。」

 続いて、高木は1870年の春ごろのジェイムズの日記から新たな歩みを始めることを語るいくつかの箇所を引用している。4月30日の箇所は以下のとおりだ。

 「いたずらな思弁や思索をすてて、活動の中に、人間としてりっぱな生き方を見出していこうと思う。すくいは、主義や観念の中にはない。考える活動の集まりつもった中にある。/意志的に活動するばかりでなく、意志的に信ずるところまで達しなければならぬ。自分の個人の実在を、それを創造した力とを信ずることである。人生は、行動し、苦しみ、創造することである。もし人間が悪に打克つことができるか、あるいは出来ずに死を選ぶかとい岐路に立つ時、いずれにしても強い意志が必要である。これは自由意志を信じるというところから出てくるのである。」

 高木はこの箇所を引いて、「ジェイムズが以上のように、人間生活の根本的なるものをみつけ、それによって、長いこと苦しめられていた境地から脱することができた。……彼の人生観、あるいは哲学は、一口にして、この日記の中に、その大綱が語られていると思う。」(157−159ページ)

 以上、『ウィリアム・ジェイムズの宗教思想』から3箇所を引いたが、これだけの叙述でも、ジェイムズ読解のための重要なヒントが読み取れるのではないかと思う。この書物はジェイムズ理解の手がかりが力強く示されているが、それだけではない。2020年代の現在においても、宗教とは何か、また宗教と学問と人生の関わりは何かということを考える上で、重要であり続けているジェイムズ思想の現代的意義を照らし出してくれている。

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