生活者感覚に基づく宗教研究の新たな地平
──佐々木宏幹編著『宗教人類学の地平』
仏教企画、2022年5月──
島薗進
宗教人類学者・佐々木宏幹は1970年代以降の日本の宗教研究に大きな足跡を遺して来た学者であり、私どもにとってはきわめて信頼感の篤い先達であった。20歳代の大学院生の時期から導きを得てきた私にとっては、「佐々木宏幹先生」と記したいところだが、ここでは敬称を略させていただく。
92歳の今も健筆を振るっておられる著者の、70歳代後半から80歳代にかけての論考を収録するとともに、著者の業績を要約しつつその意義を示す2編の凝縮された論考が配置されている。今も宗教研究に新たな展望を指し示す力強い先達、佐々木宏幹入門の書として、本書はたいへん有益である。
「序」には、国際日本文化研究センターの元所長である小松和彦による「佐々木宏幹先生の学問」が寄せられている。小松は日本で「シャーマニズム」という用語がこれほどまでに共有されるようになったことは、佐々木宏幹の貢献抜きには考えられないと言う。「佐々木先生の研究が登場したことで、日本の「内向き」だった宗教研究の景観ががらりと変わり、世界とつながったのです」と述べている。
そして小松は、佐々木がシャーマニズム研究に取り組んだのは、シャーマンが人々の苦しみを救う存在だったからだとする。そして、この同じまなざしが「生活仏教」の研究にも展開していくという。佐々木にはシャーマンに学び、シャーマンのように人の苦しみを救いたいという思いがあったという。
先生の研究や講義、日頃の言動には、そうした優しい思いが漂い出ていました。それは、曹洞宗の
寺に生まれたがゆえに知らず知らずに身についていた、「宗教家」ともいうべき佐々木先生の「生
き方」とも通じていたのではないかと思います。実際、多くの学生が、多くの人びとが、先生に救
われたのではないでしょうか。
私もそのように感じている。共鳴するところの多い「序」である。
収録されている、高見寛孝の「佐々木人類学と日本の死者祭祀」、佐藤憲昭の「佐々木宏幹博士のシャーマニズム論」もたいへん密度の濃い論考であり、佐々木の業績の意義が明確にかつ奥深く示されている。そして、この2論文によって、佐々木が取り組んで来た研究領域の多くがカバーされている。すぐれた編集である。
だが、ここでは佐々木自身の「宗教人類学からみた日本の仏教文化」について紹介したい。この部分は約150ページを占めるが、もともと藤木隆宣が編集する『仏教企画通信』に、2006年から12年までに連載された文章から18回分を選んで掲載されたものである。そもそもこの書物の企画は、藤木の尽力によるところが大きい。
ここで論じられている内容は、佐々木の著書では、『〈ほとけ〉と力──日本仏教の実像』(吉川弘文館、2002年)、『仏力──生活仏教のダイナミズム』(春秋社、2004年)、『生活仏教の民俗誌──誰が死者を鎮め、生者を安心させるのか』(春秋社、2012年)などで論じられたことと重なり合っている。それらが、さらにわかりやすく語りかけるように論じられている。
考察の基点は、多くの仏教論者、とくに仏教圏に取り組んだ宗教人類学者が立ち止まった問いである。一方に、高度の厳しい戒律を守り、長期にわたる修行を行ったり、仏典を読み込み仏教教義を理解し語ることになれている、僧侶を中心とするエリートの仏教がある。他方で、一般の人びとが僧侶に求めているものは葬祭儀礼や祈祷儀礼の効果であり、これが生活仏教の中心だ。「人びとは身内や縁者の死者を来世において安定させ、先祖=「ほとけ」に成ってもらうために「僧侶の力」を必要とし、現世では自身および家族の幸福実現と持続を請い願って僧侶の力に頼るのである」(52ページ)。
エリートの仏教と生活仏教に隔たりがある。ここでエリートの僧侶や仏教学者に対して、佐々木が求めるものがある。「僧侶はこうした人びとの宗教的想いを大切にし、この想いに誠実に応えてやることが肝要ではなかろうか」(同前)。現実にはそうなっていない。これを仏教研究という側面から捉えると、「仏教研究の対象が教理・理念面にのみ限定される傾向が強く、このため寺院現場に展開する行為・儀礼化された仏教は軽視されるか無視される状況が長く続いてきたこと」(65ページ)になる。
この状況をどう超えていけばよいのか。そこで、佐々木が注目する概念の一つが「仏力」である。「世俗的な力(政治力、経済力、文化力など)が限界状況を呈したとき働きだすのがこの力である。「聖なる力」は「仏」に関係すると「仏力」となり、「神」に結びつけば、「神力」と表現されよう。この宗教(仏教)特有の力は、宗教(仏教)文化の基底を成すものであるが、宗教(仏教)が学問化され、知的対象として扱われるに従って、思想性、観念性、論理性を高めるにつれて軽視され見え難くなった重要部分である」(71−72ページ)という。
僧侶が「仏力」をもっていることを人びとが如実に感じ取っているとき、僧侶の仏教と生活仏教はうまくかみ合ってそれぞれが機能する。ところが現代社会では、そこに齟齬が生じるようになっている。「最近、葬儀や戒名にかかる費用が問題になっており、大都市では無宗教葬ならぬ「無僧侶葬」が増えているというが、この問題は僧侶のもつ「仏力」が以前ほど人びとの心を動かさなくなったことと繋がってはいまいか」(83ページ)と述べる。
「仏力」についての佐々木の考察はさまざまに展開していて考えさせられるところが多い。ここでは紹介できなかったが、「ほとけ」という日本語をめぐる考察も示唆深い。本書は他の書物でも深められているこれらの問題がわかりやすく紹介されており、いつしか佐々木宗教人類学の世界に引き込まれていく。そして、それは佐々木自身の人柄の魅力に引き寄せられていくこととも感じられる。
そこで、以下のようにも考えたくなる。読者は、実は佐々木の仏力に魅せられていくのかもしれない。宗教人類学の実践がそのまま生活者感覚に基づく宗教の捉え返しであり、自ら宗教的なものを新たに身近に捉え返すことにもなるのだ。本書は、そのような不思議な魅力をもった書物である。
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