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宗教の名著巡礼 第24回

  • 1 日前
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更新日:2 分前


ゴッホ作品はなぜ見る者の心をつかみ揺さぶるのか(5)

──正田倫顕『ゴッホの宇宙』教文館、2025年──

島薗進


ゴッホの「星月夜」と糸杉と「宗教」

 自らいのちを絶つ前の2年余り(1888年2月〜90年5月)の間に、南フランスに滞在したゴッホは、星月夜と星空を描いたいくつかの作品――「ローヌ川の星月夜」(1888年9月)「夜のカフェテラス」(1888年9月)「ウジェーヌ・ボックの肖像」(1888年9月)「星月夜」(1889年6月)――を描いている。「星月夜」はまた糸杉を描いた作品でもあるが、同じ時期に糸杉 を主軸とした「糸杉」(1889年6月)、「小麦畑」(1889年6月)「糸杉のある道」(1890年5月)も描かれている。

 


  よく見ると、糸杉を描いた作品の多くにおいて、遠景に小さく教会の尖塔が描かれていることに気づく。そして、いのちを絶ったパリ北方のオーヴェール・シュル・オワーズ(1890年5月〜9月滞在)では、「オーヴェールの教会」(1890年6月)という作品を描いている。この作品については、正田氏が『ゴッホと聖なるもの』(2017年)で論じていることを、この連載の(2)ですでに紹介している。それは「第一章 キリスト教との関わり」という章の中でだが、死を前にした時期のゴッホが妹のウィレミーンにあてた手紙で、「これはまたぼくがニューネンで描いた古い塔とほとんど同じものだ」と記していることについても述べた。

 


  また、ゴッホが父の死の前後の時期に、教会の「古い塔」や墓地について繰り返し描いていることについて、正田氏が父との別れとともに、生命力を失ったキリスト教会への喪の作業(トラウエルアルバイト、グリーフワーク)と捉えていることも紹介した。今、一度、引用する。「父の在世時から死後にかけて描かれたニューネンの牧師館や《農民の墓地》や何度も繰り返し描かれる「古い塔」、そして「その古い塔」の《取り壊しによる競売》などの作品について、正田氏は「絵画において喪の作業を繰り返しているようにも思える」と述べている(52ページ)」。

 ここでは、もはや生命力を失ったキリスト教会との別れとそれにかわる何かを仰望する仕草として、ゴッホの作品と捉える視点が示されている。同じ箇所で引用したように、正田氏は『ゴッホと〈聖なるもの〉』において、次のようにも述べていた。

 

キリスト教とキリスト教でないものの対立、つまりキリスト教とイエスの対立はほぼ同時期ニーチェやドストエフスキー、トルストイによっても表明されている。また聖書学もキリスト教を相対化し、歴史上のイエスの実像を探究し始めている。こうした一九世紀後半の精神史的潮流の中にゴッホを位置づけることも可能である。(71ページ)

 

トルストイ「わが宗教」への関心

 ここで、私がとくに注目したいのは、死を前にした時期のゴッホがトルストイに強い関心をもっており、それはトルストイの「宗教」論に惹かれてのことだったという事実である。すでにこの連載の(4)でも、「夜のカフェテラス」を描いていた頃、88年9月29日の弟テオへの手紙で、ゴッホは「ぼくはやはりどうしても「宗教」が必要なので、夜、戸外に出て星を描く」と書いていたことにふれた。その2週間余り前の手紙では、次のように「種まく人」の画家ミレーとドストエフスキーについて触れていた。

 

「種まく人」の思想は、いまでも頭にこびりついている。「種まく人」とかいまやっている「夜のカフェ」のような度外れな習作は、普段ならぼくにも凶暴で醜悪に見えるのだが、いま手許にあるドストエフスキーについての小論のような、何かに心を打たれると、ただそういうものだけがぼくには一番意味があるように思えてくる。(『ファン・ゴッホ書簡全集 5』みすず書房、1478ページ、手紙番号533)

 

 だが、「宗教」に関わって言及が多いのはトルストイだ。『ファン・ゴッホ書簡全集』の人名索引に従うと、ゴッホの手紙にトルストイの名が登場するのは1887年夏のベルナール宛のものが最初のようだ。そこには、「きみにトルストイの『ロシア民話集』を読むことをすすめたい」と記されている(『ファン・ゴッホ書簡全集 6』、1961ページ、手紙番号B1)。死が近い89年9月終わりか10月初めの妹ウィレミーン宛の手紙には、「きみはもうトルストイの『わが宗教』を読んだかね。あれは非常に実際的な、本当に役立つ本だということだ。きみはそういう本が好きなのだから徹底的に読むといい」と記していた(同前、1945ページ。手紙番号W14)。

 しかし、トルストイに関するゴッホの考えがある程度の長さで記されているのは、88年9月の2つのテオ宛の手紙においてだ。前の方の手紙(手紙番号542)には、まず次のように記されている。

 

ぼくは『両世界評論』でトルストイについての或る評論を読んだが、彼はイギリスのジョージ・エリオットのように、自国の民間宗教に没入したらしい。/宗教について書いたトルストイの本があるはずだが、その表題は多分『わが宗教』となっていて、きっと立派な本だと思う。この評論から推察したところでは、彼は民間宗教のなかにキリスト教における真に永遠的なもの、またすべての宗教が共通に持っているものを探求している。彼は肉体の復活さえも認めようとしないらしく、虚無主義者のように死後には何もないという。しかし人間個人は死に、たしかに死んでゆくが、人類はいつも生きつづけるといっている。/とまれ本そのものがないから、彼がどう考えているか正確なことはいえないが、彼の宗教はきっと残酷なものではなく、またわれわれの苦しみを増すものでもなく、反対にわれわれの心を慰め、明澄(セレニテ)と活動力、生きる勇気やその他くさぐさのものを啓発してくれるものだと思う。(『ファン・ゴッホ書簡全集 5』、1498ページ)

 

トルストイの「わが宗教」と民話の宗教性

  ロシアの作家、レフ・トルストイはゴッホより25歳年長で1828年の生まれだが、長編小説『戦争と平和』(1869年完成)、『アンナ・カレーニナ』(1877年完成)で世界的に著名となったが、その後、作品を書かずに自己吟味に沈潜する時期が続く。自己の生き方そのものを問い直し悔い改める一方、ロシア正教会を批判し、自らが納得できる「宗教」の探求を進めていく。長編小説、中編小説が書けない時期が続いたという点では、作家としてのスランプとも言えるが、それは教会のキリスト教ではない、日々を生きていく上で欠かせない、生き方の根源となるような信仰のあり方を探り、論述することに集中した時期でもあった(川端香男里『人類の知的遺産52 トルストイ』講談社、1982年、藤沼貴『トルストイの生涯』第三文明社、1993年)。

 やがて、『懺悔』(1882年)、『わが信仰』(1884年、ゴッホの手紙に「わが宗教」とあるもの)などを書き、中編小説『イワン・イリイチの死』(1886年)以降、再び作家活動をも再開する。しかし、『人生論』(1887年)などで教会のキリスト教とは異なる世界観と生き方について論じることも続けていった。ゴッホの手紙で『わが宗教』と訳されているのは、現代の日本では『わが信仰』と訳されることが多いものだ。ゴッホが「民間宗教」に言及しているのは、小説を書かなかった時期に著された民話風の短編物語「人は何で生きるか」(1881年)、「イワンの馬鹿」「二人の老人」など(1885年)に表現されたものに由来するものだろう。ゴッホはこちらを読んでいた。他方、『わが信仰』を紹介した評論を見てはいたが、それを読むことはなかったようだ。

 これらの著作で示された思想は「トルストイ主義」とよばれ、教団組織(この場合、ロシア正教会)が保持している形式化された伝統的宗教にはついていけなくなった知識人らに、それとは異なる「あるべき宗教」を提示するものとして受け止められ、世界的に大きな影響が広がった。インドの独立運動と非暴力抵抗運動を導いたガンジーも大きな影響を受けているが、日本の白樺派や明治末以降の教養知識人層にも大きな影響を与えた。

 宮沢賢治もその一人だ。日本のベジタリアン運動にもトルストイの影響があったとされているが、1918年にベジタリアンとなった賢治にも影響があったかもしれない。1926年頃に書かれた「農民芸術の興隆」にもトルストイの名が記されている。自らの信仰を反映させた童話という表現形式を選んだことについても、トルストイの影響があった可能性を考えてもよいだろう。

 

ゴッホが「日本」に託したもの

 ゴッホは1887年でトルストイの『ロシア民話集』を読んでいた。『ロシア民話集』に収められた、宗教的生き方を描いた民話風の物語に強い感銘を受けたことが推察できる。そして、意外にもそれを浮世絵などに表れた日本の文化とも結びつけていたようだ。

 すでに引いた1888年9月の手紙(手紙番号542)では、トルストイにふれたすぐ後で葛飾北斎と「日本の版画」にふれている。

 

バンの複製のなかにある北斎の「草の芽」と撫子をすばらしいと思った。/しかしどういわれようと、平板なトーンで彩色したどんなありふれた日本の版画も、ぼくにはリューベンスやヴェロネーズと同じ理由で、すばらしいものなのだ。ぼくはそれが原始芸術ではないことを百も承知だ。しかし原始芸術がすばらしいものであるからといって、ぼくにはこのごろの言草のように、「ルーブルへ行っても原始芸術から向うはいけないね」という理由には少しもならない。(1498ページ)


葛飾北斎 秋草
葛飾北斎 秋草

 テオ宛の同じ長い手紙の先の方でゴッホは、再びトルストイにふれ、トルストイと「日本芸術」を結びつけている。

 

トルストイは『わが宗教』という書のなかで、たとえ暴力革命であろうと、民衆のなかに内的な密かな革命が起り、そこから新しい宗教というか何か全く新しいものが再び生れてくるであろうといっているらしい。この新しいものは名前はないが、昔キリスト教がそうであったように、心を慰め、生をゆたかにするという力を持つものらしい。この本はきっと非常に面白いに違いない。/いつか人は最後に皮肉(シニスム)や懐疑や冗談はもう沢山というようになり、もっと音楽的に暮したいと思うだろう。どうしてそうなり、またなにがそのときにみつかるか。それを予言できれば面白いだろう。しかし蝕まれた諸国家の革命や戦争や破産によって現代の文明社会のなかに恐るべき万雷のように必ず落ちてくる災厄以外に、未来に何もないというよりは、まだしもそれを予感する方がましであろう。(1500ページ)

 

日本芸術と自然との響き合い

 続く箇所でゴッホが述べているところを読むと、「ほんとうの幸い」という言葉で新たな宗教性を表そうとした宮沢賢治を思い出してしまう。時期は数十年ずれている。だが、トルストイの「民話」や思想に共鳴し、自然と響き合う生き方に希望を見ようとしたという点での共通点を考えるとまったくのこじつけということにはならないだろう。

 

日本芸術を研究するとあきらかに賢者であり、哲学者で知者である人物に出会う。その人は何をして時を過しているのだろうか。地球と月との距離を計算しているのだろうか。ちがう。ビスマルクの政策を研究しているのだろうか。いや、ちがう。その人はただ一本の草の芽を研究しているのだ。(同前)

 

 ゴッホの日本人についてのイメージがどのようにして形作られたのかは私の手に負えない問題だが、ゴッホが惹かれたらしいトルストイの民話や「民間宗教」という言葉を一つの手がかりとしてもよいのではないか。また、農民の論道や職人の手仕事に対するゴッホの深い敬意というものを参考にしてもよいのではないか。

 

『北斎漫画』八編「三角草・黑百合など」
『北斎漫画』八編「三角草・黑百合など」

 しかしこの草の芽がやがて彼にありとある植物を、ついで四季を、山野の大景観を、最後に動物、そして人物を描画させるようになる。彼はそのようにして生涯を過すが、人生はすべてを描きつくすには余りに短い。/どうかね。まるで自身が花であるように、自然のなかに生きる、こんなに単純なこれらの日本人が、われわれに教えてくれるものこそ、まずは真の宗教ではないだろうか。/もっともっと磊落にもっともっと幸福にならねば日本の芸術を研究することはできないだろうとぼくは思う、またぼくらは、因襲的な世界で教育され働いているが、自然にたち返らねばいけないと思う。(同前)

 

宗教を超えて求めた究極的なもの

 ゴッホが「ぼくはやはりどうしても「宗教」が必要なので」と綴ったのと同じテオ宛の手紙(1889年9月、手紙番号543)では、トルストイの『わが宗教』について、次のように述べている。

 

トルストイの例の本『わが宗教』は1885年にすでにフランス語で刊行されているが、どの目録をみても見当らない。/肉体であれ精神であれ、彼は復活をさして信じていないらしい。とくに天国の存在を余り信じていないようだ――だから虚無主義者として彼は物を考えるが――虚無主義者とは反対に、彼はなすべきことを立派になすことに大きな意味を見出している。おそらく人間にはそれだけしかないからね。/また彼は復活も信じていないとしても、復活に相当するもの――生命の持続――人類の前進――人間とその仕事が、まず間違いなく未来の世代へ続いてゆくことを信じているようだ。いずれにしても彼の与えるものは須臾の慰めではない。彼自身は貴族だが、労働者にもなったし、長靴を作ることも、ストーヴを修繕することも、鋤をつかって野良を耕すこともできるのだ。/ぼくはそんなことは少しもできないが、そんなふうに自己を変革できる雄々しい魂を尊敬できる。ああ、猫も杓子も天国をすら確信しえない人の世に生れあわせ、怠け者ばかりのこの時代に生きねばならぬとしても、所詮嘆いてはいけないのだ。彼は――確か前便で書いたが――暴力によらぬ革命、懐疑と絶望的苦悩の反動として人々の間に必ず起るにちがいない愛と宗教心の欲求による革命を信じているのだ。(1504-5ページ )

 

 以上、ゴッホが最後の2年余りに描いた星月夜と糸杉をめぐる作品群を、「古い教会」とトルストイの「わが宗教」への関心に結びつけて述べてきたのは、私自身の関心によるものだ。正田倫顕氏の『ゴッホと〈聖なるもの〉』、『ゴッホの宇宙』に導かれつつ、少し横道にそれたものでもあった。

 

ひまわりと糸杉の双方がもつ聖性

 星月夜と糸杉が描かれるのに先立つ時期と重なり合う時期(1888〜89年)にひまわりの絵をいくつも描いていた。暗い夜のなかの星を描いた作品と、光あふれるひまわりを描いた作品はだいぶ違うように見える。ゴーギャンを招いて新しい芸術家の共同体を作るという希望にあふれていた時期から、ゴーギャンが去り、自らの耳たぶを切り落とし、精神病院に入院する時期への移りゆきのなかで、心の対照的な側面が描かれているようにも見える。だが、正田氏は両者がつながりあっていると捉えている。

 

《ひまわり》1888 年8月
《ひまわり》1888 年8月

 

ゴッホは手紙(596/783、[島薗注]1889年6月25日のテオ宛手紙。『ファン・ゴッホ書簡全集 5』、1641ページ)で、糸杉とひまわりを同列に並べている。「ぼくはまだ糸杉に夢中になっているが、ひまわりのキャンバスのような物を糸杉で作りたいと思っている」。単純に読めば、アルルで取り組んだ《ひまわり》のような代表作を糸杉を使って描きたいという希望の表明に見える。しかしひまわりと糸杉はモチーフとして見れば、やはり随分異質なものである。一見すると太陽との結びつきが強いひまわりが生を表わし、墓場の木である糸杉は死を指し示すように思えるからだ。確かに単純な概念化のもとでは、両者は対極にあるモチーフと捉えられるだろう。だがゴッホにとっては、表現の仕方に違いがあったものの、どちらもエネルギーに貫かれた同質のテーマだったのではないか。だから糸杉の絵も「ひまわりのキャンバスのようなもの」であったと思われる。表層的な次元では二項対立の関係にあっても、深層の次元ではつながっている主題であろう。(『ゴッホの宇宙』156ページ)

 

《ひまわり》1888 年8月
《ひまわり》1888 年8月

宇宙全体の自己顕現

 正田氏がゴッホのひまわり作品群について述べている以下の捉え方は、トルストイの『わが宗教』に大きな期待を寄せたゴッホの宗教観をよく伝えているもののように思える。

 

花々は背後から照らされながら、こちらを照らし出してもいる。光に貫かれるだけでなく、自ら発光体となっている。ここでは能動と受動、隆盛と衰退、生と死が一体である。実のところ、これらのひまわりはもはやわれわれが通常の感覚で認識する月並みな植物ではない。むしろ光の結晶化した存在になっている。ゴッホはひまわりを描きながら、ひまわりをこえたものまでを表してしまったのではないか。それは尋常ならざる光であり、過剰なまでの明るさであり、端的にいのちそのものである。根源的なエネルギーが前面に出てきて、ひまわりをひまわりたらしめているのだ。/このありさまはイエスの次の言葉にも通じている。「草花がどのように育つか、つぶさに見よ。労することをせず、紡ぐこともしない。しかし私はあなたたちに言う、栄華の極みのソロモンですら、これらの[草花の]一つほどにも装ってはいなかった。もし、今日野にあっても明日は炉に投げ込まれる草を[すら]、神はこのように装って下さるのであれば、ましてあなたたちを[装って下さるのは]なおさらのことであろう、信仰の薄い者たちよ」。実際、ひまわりは画面に満ちる光と一体となって、美しく装われている。作為的な努力をせず、目的意識にも縛られず、ただあるがままにある。大きな働きに促されて、花を咲かせ、種をつけている。いわば当たり前の姿で当たり前にあるにすぎないが、その姿が名状しがたいほどに神々しく、光輝にあふれているのである。(100ページ)

 

 「宇宙全体の自己顕現」という小見出しが付された『ゴッホの宇宙』の最終章『《星月夜》の宇宙』で、正田氏はひまわりから糸杉と星月夜へと至る作品群のなかに、ある種の深い「慰め」が感じ取れるという。「万物は連続性と同質性を帯びた存在として、新たに捉え直された」とする(172ページ)。また、「精神病院の独房で最も救いのない状況にあったとき、不思議なことに救いの光が射しこんできたのではないか」(同前)とも述べている。このように作品が祈りや救いの表現になっているというように感じられるという受け止めには、一定の妥当性があると思う。そのことについて、正田氏の考察を手掛かりにもう1回考えていきたいと思う。

 

《ひまわり》1888 年8月
《ひまわり》1888 年8月

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