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宗教の名著巡礼 第22回

  • 5 時間前
  • 読了時間: 16分

ゴッホ作品はなぜ見る者の心をつかみ揺さぶるのか(3)

──正田倫顕『ゴッホと〈聖なるもの〉』新教出版社、2017年──

島薗進


宮沢賢治がゴッホから受けた影響 

 前回、画家ゴッホの父との関係、そして父と教会と農民に対するこだわりの深い作品に注目し、正田氏の解説に学びながら次のように述べた。 

 

経済的に父親に依存し、父を引き継ぐことを目指したことがあったが、それを拒む決断をした息子である。しかもそこに宗教に対する深い思いが絡んでいたという点で、宗教に関心がある日本の読者なら宮沢賢治を思い起こすかもしれない。 

 

 確かにゴッホと賢治には並行するものがある。私はそのようなおおまかな着眼に基づいて以上のようなことを述べた。それはかなり直観的なものだったが、その後、宮沢賢治とゴッホの関わりについて少し調べてみると、実際、賢治のゴッホへの関心はかなり深いものであることが見えてきた。 

 

 そして、宮沢賢治とゴッホについて取り上げた論文や書物がいくつもあることがわかった。それらに触れてみると、たいへん刺激を受ける。今回は、正田氏の著書の紹介を軸としたこの連載の本筋からやや寄り道になるが、ゴッホと賢治について述べていくことにしたい。ただ、「ゴッホと〈聖なるもの〉」という主題からはあまりそれていかないはずである。

 

 国際日本文化研究センターと総合研究大学院大学の教授で美術史を専門とする稲賀繁美氏の講演録「宮沢賢治とファン・ゴッホ――相互照射の試み」(『比較日本学教育研究センター研究年報』お茶の水女子大学、第8号、2012年)には、以下のように述べられている。

 

『白樺』の同人たちとその周辺によるフィンセント紹介に反応した詩人たちのなかに、宮澤賢治(1896 -1933)も数えられる。日本では山本顧彌太(こやた)が1920年に白樺美術館のために購入した《向日葵》が知られている、贋作の可能性も排除できない作品だが、オランダの画家と向日葵との結びつきは当時から強烈だった。宮澤賢治が生前に自費出版で刊行できた、ただ2冊の本のうちのひとつ『注文の多い料理店』(1924)も扉には、菊池武雄による向日葵が描かれている。他方、詩集『春と修羅』(1924)に知られるのが「ゴォホサイプレスの歌」。(92−93ページ)

 

 最後の部分は誤りで、「ゴォホサイプレスの歌」は『春と修羅』には収録されていない短歌作品だ。稲賀氏のこの文章では、続いて「ゴォホサイプレスの歌」が引かれているが、ここでは後ほど詳しく紹介する。まずは「サイプレス」が「糸杉」の英語を指すものであることを確認しておこう。

 

宮沢賢治とゴッホの並行現象

 また、著名な絵本作家である伊勢英子氏には『ふたりのゴッホ――ゴッホと賢治37年の心の軌跡』(新潮社、2005年)という著作がある。その「序」から引こう。

 

 けっして豊かではない土に落ちたこのふたつの種子は自らの力で豊穣に実り尽くし、その重みゆえに自らを刈り取らなければならなかった。/ともに三十七年の人生だった。

画家はその前は伝道師だったり画廊の店員だったこともあった。/詩人は童話や短歌も書いた。やはり、教師や宗教活動をしたり農民を志したりした。/どの仕事も、いつも生きることに直結していたが、どれも、自分を食べさせる程度の収入にさえ結びついたことはなかった。

 ふたりは過剰な負い目意識を抱えながら、与えられた「三十七年間」をひたすら生きた。/ひとりは毎日のパンにさえこと欠き、アルコールとコーヒーだけで胃を焼くような生活をしたし、もうひとりの方は「みそと少しの野菜」しか食べなかった。だが、食べることも眠ることさえも彼らの心の飢えに追いつかなかった。

 画家は、二千枚以上の油絵と素描と千通以上の手紙を書いて死んだ。/詩人は、トランクいっぱいの三千枚の童話の原稿と何百もの詩と歌と、病中に何千枚もの肥料設計を書き、病を悪化させて死んだ。(9−10ページ)

 

 このふたりは確かに似ている。賢治はそのことがわかっていて、それ故にこそゴッホから影響を受けたのだろうか。それはわからない。だが、なぜそれほど似ているのだろうか。絵を描き、詩句や言葉を記す絵本(童話と重なり合うジャンルだろう)に親しんできた伊勢英子氏が、両者の作品(ゴッホの手紙も含め)に親しく接し感じ取ったものは、一冊の書物に具さに語られており、学ぶところが多い。

 

 しかし、ここでは私にとって重要なある方面から見ていくことにする。それは宗教との関係、父との関係という着眼点である。これは同時代の多くの創造的人物にも関わることのように思う。たとえばジークムント・フロイトであり、ウィリアム・ジェイムズである。宗教的な父との葛藤がその創造性と深く関わる思想家たちだ。他にもあげることができる例は少なくない。とはいえ、ここでは賢治とゴッホに限定して考えていきたい。

 

ゴオホサイプレスの歌

 宮沢賢治がゴッホの名前を記しているのは、短歌作品においてだ。これはこれまでも多くの人が注目してきたことである。1919年頃の短歌作品にはっきりゴッホの名前が出てくる。

 

     [ゴオホサイプレスの歌]

  サイプレス

  忿りは燃えて

  天雲のうづ巻をさへ灼かんとすなり

 

  天雲の

  わめきの中に湧きいでて

  いらだち燃ゆる

  サイプレスかも  (『宮沢賢治全集』3、ちくま文庫、222-223ページ)

 

 「サイプレス」は糸杉である。ゴッホの糸杉を描いた作品はいくつかあるが、まず思い起こすのは「星月夜」と名づけられている美しくなぜか心を揺さぶられる作品だ。だが、明治末から大正前期において、ゴッホ作品を日本で直接見ることはできず、複製はもちろんカラーの印刷物として見ることも容易ではなかったようだ。

 


 

 にもかかわらず、ゴッホの作品はよく知られ、ゴッホを芸術的思想的なヒーローとして讃える言説や詩歌が多く著されていた。この教養文化におけるゴッホ偶像化ともいうべき現象を描き出した木下長宏『思想史としてのゴッホ――複製受容と想像力』(学藝書林、1992年)という書物がある。それによると、賢治が見た「サイプレス」の絵は、千家元麿が主宰する雑誌『エゴ』の第2巻第1号(大正3年1月)の表紙に掲載された「星月夜(Starry Night)」として知られるペン画だろうという。『エゴ』のこの号は「ゴオホ号」として命名され、千家はその号に「ゴオホについて雑感」という長いエッセイを書いているという。

 

 ゴッホを日本に紹介した早い例は森鴎外で1910(明治43)年だが、その年に創刊された『白樺』系の教養青年たちは1911年には、ゴッホについて強い関心を寄せる記事を掲載し始める。武者小路実篤、柳宗悦、岸田劉生、児島喜久雄らだ。その際、とくに注目されたゴッホ作品が「星月夜」だった。

 

内面的自由表出の芸術家・思想家

 1911年の『白樺』第2巻第7号巻末の「六号雑感」という記事で、武者小路実篤はゴッホを主題とした詩とその注釈を記しているが、木下氏は次のように紹介している。

 

――バン・ゴッホよ/燃えるが如き意力もつ汝よ/汝を想ふ毎に/我に力わく/高きにのぼらんとする力わく、/ゆきつくす處までゆく力わく、と叫ぶのは、日本のいま自分が居る状況があまりに貧しく思えるからだ。(中略)いまの若者が日本人に愛想をつかすのは現状が貧しいからだが、貧しいのは「日本が既製品でない」証拠であり、だから、逆に「内面的に思想の自由」があるのだ。「當時の彫刻界に愛想をつかせばつかす程、彫刻家として立つ決心をかたくしたロダン」のように[この「ロダン」は「ゴッホ」といつでも置き換えられる]強い意志を持って、現代の日本を生きよう。「すべて人々が絶望的になつた時、新しい路のひらけるものである」。だから、絶望のきわみにあっても燃えるが如き意力を持ちつづけたバン、ゴッホよ、汝を想つて、自分のなかに力の湧くを覚えるのだ。(48−49ページ)

 

 「燃えるが如き意力」というのは、「星月夜」などに描かれた糸杉を思わせる言葉だ。だが、武者小路らが実際に見たのは、現代のゴッホファンが思い浮かべるような油彩画ではなかった。すでに述べたように、1914年の『エゴ』の「ゴオホ号」の表紙に掲載されたのは、「星月夜」の油彩画ではなくペン画だった(96ページ)。

 

 ゴッホ研究家によるとゴッホの「星月夜」のイメージの底には、彼が愛読していたホイットマンの詩が匿されているという(高階秀爾『ゴッホの眼』1984年、192ページ)。木下は「このアメリカの民衆詩人は、「白樺」の詩人たちにとってもまた憧憬の対象のひとりだった。「白樺」の青年たちはヴァン・ゴッホとホイットマンのつながりの知識はなくても、彼らの内面で二人がつながっているのである」(96ページ)と述べている。高階『ゴッホの眼』が「ホイットマンにおいては、夜空の星のイメージが、しばしば死と、死を越えた別の世界を結びつけられて登場して来る」と記していることも記憶に留めておきたい。

 

 続けて、木下はこれが賢治の「サイプレス」にも関わりがあるものであることを示唆している。

 

 こうしてこの期(に日本で受容された――島薗注)のゴッホは、その「糸杉(サイプレス)」が代名詞 のように浮かび上がってくる。ゴッホといえば「糸杉(サイプレス)」がいわれ、その「糸杉(サイプレス)」というのは、じつは、このペン画であったろう(現ニューヨーク近代美術館蔵の油彩画ではなく)。この期の人びとは「糸杉」というとき、いつもこのペン画をまず念頭に置いたということである。大正8年(1919年)宮澤賢治が詠った「ゴオホサイプレスの歌」二首も、このペン画を見つめて詠じたのではないだろうか。タブローではなく小さなペン画の複製が、近代日本人の詩心へ強く灼きつけられ、そのゴッホ像形成の芯となっていったのである。のちに、ゴッホのことを「炎の画家」とか「炎の人」と呼ぶようになるのも、この絵がつくらせた映像から逆照射されて出来上がってくる人間(ゴッホ)像である。(97ページ)

 

「春と修羅」のZYPRESSEN

 宮沢賢治がゴッホから受け取ったものも、木下が描き出しているような時代の潮流を反映しているのは確かだろう。だが、賢治は自分なりのゴッホ理解、「糸杉」理解を示している。まず、『春と修羅』のなかの「糸杉」を見てみよう。「春と修羅(mental sketch modified)」という詩篇(『宮沢賢治全集』1、ちくま文庫、29-32ページ)では、「ZYPRESSEN」という語が3回用いられている。これは「糸杉」のドイツ語で「ツィプレッセン」と発音するのがよいのだろうか。

 

  砕ける雲の眼路(めぢ)をかぎり

   れいろうの天の海には

    聖玻璃(はり)の風が行き交ひ

     ZYPRESSENN春のいちれつ

      くろぐろと光素(エーテル)を吸ひ

       その暗い脚並からは

        天山の雪の稜さへひかるのに

        (かげろふの波と白い偏光 )

        まことのことばはうしなはれ

        雲はちぎれてそらをとぶ

       ああかがやきの四月の底を

      はぎしり燃えてゆききする

     おれはひとりの修羅なのだ

 

 「ZYPRESSENN」は「暗い脚並」なのだが「春のいちれつ」であり、「れいろうの天の海」や「天山の雪の稜」と照らし合っているようだ。少し先へ進むと2つ目の「ZYPRESSEN」が出てくる。

 

  けらをまとひおれを見るその農夫   

  ほんたうにおれが見えるのか

  まばゆい気圏の海のそこに

  (かなしみは青々ふかく)

  ZYPRESSENしづかにゆすれ

  鳥はまだ青ぞらを截る

  (まことのことばはここになく

  修羅のなみだはつちにふる)

 

 これに続いて、「(このからだそらのみじんにちらばれ)とあって、最後は「ZYPRESSENNいよいよ黒く/雲の火ばなは降りそそぐ」と結ばれる。

 

賢治の「ひのきの歌」

 この「ZYPRESSENN」は明らかに自然の景観に触発されたものだ。では、何を指しているのか。これは「ひのき」ではないだろうか。「ひのき」の英語は「Japanese Cypress」であるが、この英語をそのまま日本語訳すれば「日本のサイプレス」「日本糸杉」である。賢治はゴッホの糸杉を岩手県の身近にあるひのきに重ね合わせていたのではないだろうか。

 

 そのような想定がまんざらはずれていないかもしれないことは、1917(大正6)年1月に「ひのきの歌」と題された短歌(『宮沢賢治全集』3、ちくま文庫、132-137ページ)が連作されていることからも察せられる。これらは「第一日目」から「第x日」までの8日間の連作の形をとった短歌作品だが、途中に( )付き詩句が3回ほどはさみ込まれており、全体として一篇の詩作品として読むこともできるものだ。

 

     第一日昼

  なにげなく/窓を見やれば/一もとのひのきみだれゐて/いとゞ恐ろし

  あらし来ん/そらの青じろ/さりげなく乱れたわめる/一もとのひのき

  風しげく/ひのきたわみてみだるれば/異り見ゆる四角窓かな

  (ひかり雲ふらふらはする青の虚空/延びたちふるふ みふゆのこえだ)

     第二日夜

  雪降れば/今さはみだれしくろひのき/菩薩のさまに枝垂れて立つ

  わるひのき/まひるみだれしわるひのき/雪をかぶれば/菩薩すがたに

     第三日夕

  たそがれに/すつくと立てるそのひのき/ひのきのせなの銀鼠雲

  窓がらす/落つればつくる四角のうつろ/うつろのなかの/たそがれひのき

     第四日夜

  くろひのき/月光澱む雲きれに/うかがひよりて何か企つ

  しらくもよ夜のしらくもよ/月光は重し/気をつけよかのわるひのき

 

 第五日夜の短歌3篇の紹介は略すが、その2番目と3番目の短歌の間にある( )付き詩句を紹介しよう。

 

  (はてしらぬ世界にけしのたねほども/菩薩身をすてたまはざるなし)

 

第二日夜とこの( )付き詩句に「菩薩」の語が含まれているが、次に引く第七日夜の後の( )付き詩句もまた仏教的な響きを感じるものだ。

  

(ひのき、ひのき、まことになれはいきものか われとはふかきえにしあるらし

むかしよりいくたびめぐりあひにけん、ひのきよなれはわれをみしらず)

 

修羅と菩薩とひのき

 「ひのきの歌」を創作した頃の賢治は20歳で盛岡高等農学校の2年生だが、すでに法華経信仰を深めていた。山内修編著『年表作家読本 宮沢賢治』(河出書房新社、1989年)によると、「盛岡高農での生活の大きな特徴は、仏教信仰の激化である」という(48ページ)

 

既に一年生の時から「日蓮宗の非常な信仰者で、何かの拍子で授業の合間にお経を唱えることが屡々だったが、すらすらと聊かの淀みもなきその流暢さに私達は驚くよりも寧ろ呆気にとられたものであった。当時の学生で宗教に心を打ちこむなど誠に異例に属していた(来栖義一「宮沢賢治君の横顔」)という。また、二年生の時には「朝とか晩とかに物理の特別教室のかげに行ってお経をやつて居られたようでした。このお経のことを聞かれた宮沢さんの先生である関豊太郎教授は、私達の教室での講義中に、若い学生で般若波羅蜜多を常に唱えている者があるというが、随分早く解脱の境に達し悟りを開いたものですね、と言つて暗に宮沢さんをやゆられたことがありました」(工藤藤一「宮沢賢治さんの思い出」)という。(同前)

 

 編著者の山内修は「この頃の賢治が「日蓮宗の非常な信仰者」とは考えにくく、題目(南無妙法蓮華経)を唱えるというよりは、法華経の一節や般若心経を唱えることが多かったようだ。「いまはいざ/僧堂に入らん/あかつきの 般若心経/夜の普門品」という歌もある。また報恩寺で座禅を組むことも日常であったという」と記している(同前)。

 

 「ひのきの歌」と数年後の「春と修羅」の「ZYPRESSENN」をあわせ考えると、賢治は岩手県の野原や高原に接するひのき=日本糸杉に自分を重ね合わせ、心の内に渦巻く暗いものを「修羅」とか「わるひのき」という言葉で表出していた。だが、それはゴッホの「星月夜」の糸杉と同じように、天に向かい星になることを志向するような何かでもあったようだ。

 

燃えるように天に昇り星となる

 燃えながら天に飛翔して星になるという幻影は「よだかの星」、「なめとこ山の熊」、「銀河鉄道の夜」などの賢治作品に度々出てくるものだ。『銀河鉄道の夜』ではジョバンニが次のような言葉を発している。

 

僕はもうあのさそりのやうにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか 百ぺん灼いてもかまはない。(『宮沢賢治全集』7、ちくま文庫、192ページ)

 

 見田宗介はこれを「焼身幻想」とよんで詳しく考察している(『宮沢賢治――存在の祭りの中へ』岩波現代文庫、2001年、初刊、1984年)。

 

よだかははじめ、(僕は今まで、なんにも悪いことをしたことがないのに)と考えて嘆く。よだかが空をとぶとき、小さな羽虫が幾匹もその咽喉にはいる。よだかはそのようにして存在する。(ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が毎晩僕に殺される。)/

よだかがその身を灼きつくす決意をするのは、このときである。すなわちあれこれの行為の罪でなく、そのまえにある存在の罪の認識からである。/〈焼身〉というかたちが必然であるのは、それがこのような存在の罪と対応するからである。(136ページ)

 

 大乗仏教には「捨身供養」という表象がある。『岩波仏教辞典(第二版)』(岩波書店、2002年)の「捨身」の項から引こう。

 

仏に供養し、また他者を救うために我が身を捨てて布施すること。薬王菩薩の焼身供養(法華経薬王品)、薩埵太子の捨身飼虎(金光明経捨身品)、雪山童子の捨身羅刹(涅槃経聖品)などが経典中に説かれた捨身の例として著名であるが、特に大乗仏教において捨身という自己犠牲的な激越な行為が強調されたようであり、『大智度論』巻12では布施を上中下に分け、捨身的行為を上布施としている。またジャータカの中にも、身を焼いたウサギや、ハトの身代わりとなった尸毗(しび)王の物語などが説かれ、開祖ゴータマ(釈迦)の神秘化・超人化への動きが見られる。

 

 菩薩は「みんなのほんとうの幸い」を求めて精進を続け、他者を助ける存在だ。だが、他方、見田が「存在の罪」とよんでいるような暗い衝動を抱え込んでもいる。今回、見てきたゴッホの糸杉と結びつけて捉えると、糸杉は暗いものを抱え込みながら燃えるように天に向かっていく存在であり、賢治はある時期、菩薩をそのように捉えていたらしいということである。

 

ゴッホの糸杉から賢治が受け取ったもの

 自らが描いた糸杉が、仏教の影響が濃い東方の国でこのような表象を生み出す誘い水になったのを知ったとしたら、ゴッホはどう思っただろうか。糸杉を描いた「星月夜」をはじめとする作品の多くは、遠景に尖塔をもった小さなキリスト教会が描かれている。遠景に去った伝統的宗教と、そこでは軽んじられてしまった本来的な宗教性との対比がなされているように感じられる。

 

 このゴッホの描いた糸杉は1910年代に『白樺』に希望を見出したような日本の若者たちを鼓舞した。それは宗教にかわって、芸術によって自らの足で立ち天にまで届くような精神的渇望を満たすものと感じられたからだろう。しかし、宮沢賢治の場合、それは大地に根を張るもので、法華経の「地涌の菩薩」を連想させるものだったかもしれない。また、修羅とも「わるひのき」とよばれるような悪や死とも結びつく要素が顕著だ。

 

 ゴッホの糸杉が死と結びつくものであることは正田倫顕氏の『ゴッホの宇宙』(教文館、2025年)でも論じられている。この書物には、ゴッホ作品が表す聖性を「大地性」という言葉で捉えようとしている第一章「《馬鈴薯を食べる人たち》――存在の大地」もあるが、以下の引用は第三章「《星月夜》の宇宙」からである。

 

ヨーロッパ美術において一般に、糸杉は死を象徴するモチーフである。たとえばベックリン(A.B öcklin 1827-1901)の《死の島》においても、糸杉は暗く沈んだ雰囲気を纏っている。この木は墓に植えられることが多いので、死のイメージとの結びつきが強いのだ。だがそもそも何故墓の木になったのかというと、常緑で長生きすることが永遠のいのちや不死を連想させたからであった。つまり糸杉には死だけでなく、実は生のコノテーションもある。生と死の両犠牲を帯ているのだ。《星月夜》において、この木は地上と天上を結びつけている。ゴッホは人間は死後に星に行くと考えていたが、あのファンタジーとのつながりも確かめられるだろう。(155−156ページ)

 

 「死後に星に行く」というモチーフは、「よだかの星」や「なめとこ山の熊」や「銀河鉄道の夜」に見られ、宮沢賢治のイマジネーションのもっとも神秘的で本質的な要素の一つといってもよいだろう。そのモチーフがゴッホを通して身についたものなのかもしれないのだ。

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