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宗教の名著巡礼 第15回


スピリチュアルペインから「不条理」を捉え返す

──三野博司『アルベール・カミュ──生きることへの愛』岩波書店、2024年──

島薗進


カミュと『ペスト』と不条理

 2020年以来のコロナ感染症の流行によって、アルベール・カミュの『ペスト』があらためて多くの人々に読まれるようになった。だが、この作品が現代人にも魅力をもつのはそれなりの理由があると思う。宗教やスピリチュアリティという観点から考えていくとそれが見えてくると思う。

 『ペスト』は1947年に刊行され、1957年にノーベル文学賞を受賞する際のこの作家への高い評価のもとになった作品である。アルジェリアの海岸に位置するオランという人口20万人の都市がペストの流行に襲われ、都市が閉鎖されるなかで次々に人が死んでいく。

 人を愛する神がいるとすれば、なぜこのような事態が起こるのか。このような理不尽な状況のなかでの人々の生き方が問われていく。これはスペインの内戦やナチスによるフランス占領下に生きる経験、また全体主義や収容所が猛威をふるった時代の非人間的な世界のあり方を、感染症によって閉ざされた都市という設定で表現したと見ることができるものだ。

 カミュはキリスト教の信仰を否定したが、キリスト教に強い関心をもっていたのは確かだ。カミュの作品が漂わせる宗教性はどこから来るのか。私はこれをより深く理解したいと思っていた。本年、刊行された三野(みの)博司の『アルベール・カミュ──生きることへの愛』は、この私の関心に応じてくれる書物である。カミュの研究者である著者は、カミュの全著作に精通し、その諸作品を貫くものをわかりやすく提示してくれている。

 カミュはすでに1942年に『異邦人』という作品を発表し、著名になっていた。そこでは、明確な動機もなしに殺人を犯し、死刑判決を受けそれを受け入れる主人公、ムルソーを描いていた。言葉も習慣も慣れいてる世界に住みながら「異邦人」のような存在、追放されたような存在ということである。この作品の冒頭部で自分の母が死ぬのだが、深く悲しむ様子も見せない主人公が描かれており、このことが死刑判決の重要な理由にもされている。

 このように、本人には理由が明確にならない不幸に苦しみ、未来に希望を抱いて生きることができないような人間が描かれるのがカミュの作品の特徴で、カミュ自身はこれを「不条理」とよんでいた。フランツ・カフカの「変身」(1915年)やサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』(1954年)などとともに「不条理」を描いた作家とされるが、これはまた、神なき時代の人間の生き方を問う実存主義の哲学と対応するものとも捉えられてきた。

 

死の近さと意味の喪失

 カミュ自身は、アルジェリアの貧しい家族に生まれ、父はアルベールの誕生後、1年足らずで戦死している。その父は犯罪者の処刑を目撃したことがあり、それに耐えられなかったという。母はもともと難聴で寡黙だったが、ますます寡黙になったという。だが、相互に無関心であるかのように時をともにするようだった母に対するカミュの思慕の情は深かった。上級の学校に行けたのは教師に助けられるなどの幸運があったからだが、17歳で結核に罹患し、死を強く意識するようになる。結核はその後、再発を繰り返した。

 『異邦人』の主題を思想的な言葉で表現したのが、同年に刊行された『シーシュポスの神話』である。そのなかの「シーシュポスの神話」の解説の箇所を引く。

神々がシーシュポスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運びあげるというものであったが、ひとたび山頂にまで達すると、岩はそれ自体の重さでいつもころがり落ちてしまうのであった。無益で希望のない労働ほど恐ろしい懲罰はないと神々が考えたのは、たしかにもっともなことであった。

 (中略)かれが地獄で無益な労働に従事しなければならぬにいたった、その原因については、いろいろな意見がある。まず第一に、かれは神々に対して軽率な振舞をしたという非難がある。(中略)ホメーロスはまた、シーシュポスは死の神を鎖でつないだという話をぼくらにつないだという話をほくらに伝えている。冥府の神プルートンは、自分の支配する国にだれひとり来なくなり、すっかり静まりかえったありさまに我慢がならなかった。かれは戦争の神をいそぎ派遣して、死の神を、その征服者シーシュポスの手から解放させたというのだ。(『新潮世界文学49 カミュⅡ』新潮社、1969年、所収、『シーシュポスの神話』、386ページ)

 シーシュポスとは、まずは意味のない仕事に明け暮れる日々を生きる存在である。生きる意味の喪失、空虚な時間のなかに取り残された存在、これが人間ということだ。そして、それは死を否定したことの罰によって課せられたものだという。

 

死刑囚の心理

 だが、三野は『シーシュポスの神話』の冒頭部に注目して、この本は自殺と死刑囚という主題をめぐって展開されていると捉える。これはこの書物が『異邦人』と並行して書かれていったことを考えると理解しやすい捉え方である。

『神話』の冒頭で、カミュは「真に重大な哲学的問題はひとつしかない。それは自殺である」と述べ、「自殺は不条理に対する解決」となるのかどうかと問いかける。彼は不条理についての考察を展開してきた哲学者たち、ヤスパース、シェストフ、キルケゴール、フッサールを取り上げて、彼らの超越的救済を求める態度を「哲学上の自殺」と呼んで斥ける。/続いて、論述において大きな転換がなされ、カミュにとって自殺者以上に重大な主題である死刑囚が導入される。不条理な経験はむしろ自殺から遠いものであり、死の宣告こそが不条理の条件となるのだ、「自殺者の正反対のもの、まさしくそれが死刑囚である」。「いっさいが、いつ死ぬかもわからないという不条理によって、目もくらむばかりに否認されてしまうのだ」。カミュは、刑場へと向かう囚人にみずからを重ね合わせ、その内面までに入り込み、こう述べる。「あす夜明けに、牢獄の門が開かれるとき死刑囚が手にするであろう神のような自由な行動可能性、生の純粋な焔以外のいっさいのものに対するあの信じがたい無関心」。(『アルベール・カミュ』66ページ)

「その内面に入り込み」というところは、カミュという作家の独自性をよく捉えていると思う。「シーシュポスの神話」についての解説の部分で、同じような内面性への踏み込みを見てみよう。

 

シーシュポスの心理

 シーシュポスが不条理な英雄であることが、すでにお解りいただけたであろう。その情熱によって、また同じくその苦しみによって、彼は不条理な英雄なのである。(中略)神話とは想像力が生命を吹きこむのにふさわしいものだ。このシーシュポスを主人公とする神話についていえば、緊張した身体があらんかぎりの努力を傾けて、巨大な岩を持ち上げ、ころがし、何百回目もの同じ斜面にそれを押し上げようとしている姿が描かれているだけだ。(中略)天のない空間と深さのない時間とによって測られるこの長い努力のはてに、ついに目的は達せられる。するとシーシュポスは、岩がたちまちのうちに、はるか下のほうの世界へところがり落ちてゆくのをじっと見つめる。その下のほうの世界から、ふたたび岩を頂上まで押し上げてこなければならぬのだ。かれはふたたび平原へと降りてゆく。/こうやって麓へと戻ってゆくあいだ、この休止のあいだのシーシュポスこそ、ぼくの関心をそそる。(『新潮世界文学49 カミュⅡ』、387−388ページ)

内面性への踏み込みは以下の箇所に見られ、作家らしい描き方がなされている。

この神話が悲劇的であるのは、主人公が意識に目覚めているからだ。きっとやりとげられるという希望が岩を押し上げるその一歩ごとにかれを支えているとすれば、かれの苦痛などどこにもないということになるだろう。こんにちの労働者は、生活の毎日毎日を、同じ仕事に従事している。その運命はシーシュポスに劣らず無意味だ。しかし、かれが悲劇的であるのは、かれが意識的になる稀な瞬間だけだ。ところが、神々のプロレタリアートであるシーシュポスは、無力でしかも反抗するシーシュポスは、自分の悲惨な在り方をすみずみまで知っている。まさにこの悲惨な在り方を、かれは下山のあいだ中考えているのだ。(同前、388ページ)

 ここで、再び三野のカミュ論に戻る。三野は『アルベール・カミュ』の「はじめに」で、まずカミュがノーベル賞受賞演説で、「それぞれの世代は、おそらく、世界を作り直すことが自分たちの義務であると信じています、しかし、私の世代は、世界を作り直すことはあるまいと知っています。ただ、その任務はもっと大きなものでしょう。それは世界が崩壊するのを防ぐことなのです」(『アルベール・カミュ』、iページ)。1950年代の発言だが、21世紀の20年代に生きる私たちの感覚と通じるところがないだろうか。

 

スピリチュアルペインと不条理

 三野は「カミュが生きたのは、二つの世界大戦、大量殺戮、強制収容所、核の脅威、イデオロギーによる抑圧、憎悪とニヒリズムの時代であった」と述べる。「強制収容所」と「イデオロギーによる抑圧」は現代にリアルには感じ取りにくいかもしれないが、「憎悪とニヒリズム」はかつて以上にリアルに感じられるのではないだろうか。その大衆化、世界化が進んだことが、現代の精神状況の主要な特徴と言えるかもしれない。

 続いて、三野はカミュの作品を三つの系列に分け、カミュの思想の展開と関連づけて述べている。まずこう述べている。

カミュが闘ったのは、病気、死、災禍、戦争、テロ、殺人、全体主義であった。それに対して、彼は一貫してキリスト教や左翼革命思想のような上位審級を拒否し、超越的価値に依存することなく、人間の地平にとどまって生の意味を探し求めた。(iiiページ)

 これだけ読むと、現代のさまざまな思想、とくに宗教と形而上学を意識し、宗教以後、形而上学以後の思想をどう構築するかの思想的探求と通い合うものと受け取れる。宗教以後のスピリチュアリティや死生学の試みとも相通じるものと考えてよいだろう。

 「不条理」は現代の医療や死生学で「スピリチュアルペイン」とよばれるものと重なり合いが大きい。カミュが闘ったとされる「病気、死、災禍、戦争」などは、カール・ヤスパースのいう「限界状況」を思い起こさせる(島薗進『なぜ「救い」を求めるのか』NHK出版、2023年)。死に直面したり、死別の経験を通して、また人生のさまざまな行き詰まりを通してスピリチュアルペインを経験する人が多い。

 身体的、心理的、社会的次元には還元できないようなスピリチュアルな次元の苦痛・苦悩である。今や医療や心理療法や教育の場面で、あるいは広く自己理解と他者のケアに関わる領域でスピリチュアルな苦痛・苦悩が意識され、それにどう向き合うかが問われている。宗教や宗教的資源とともに、心理学・精神医学などの科学やさまざまなアートなど、文化的資源を通して応答が求められるのが21世紀の現代社会である。カミュの著作はそうした問題意識をもつ人の心に響くものをもっているのだ。

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