不完全な神を赦し、恵みを分かち合う(3)
──H.P.クシュナー『なぜ私だけが苦しむのかー現代のヨブ記』岩波書店、1998年──
島薗進
神の責任でもあなたに非があるのでもない
「自分自身や自分のごく近くにいるあたりまえの人々が、どうして、かくも大きな悲痛や苦痛に耐えなければならないか」、宗教的な言説はしばしばこの問いに答えがあると信じることを求めてきた。答えがあるとすれば、神/人間に非があるということになる。
「今まで検討してきた悲劇に対する考え方のすべてに、ひとつの共通点がみられます。それは、苦しみの原因が神にあると考えていることであり、神がなぜ私たちを苦しめるのかを理解しようとしていることです」。そこで、多くの場合、「神の信望を傷つけないでおくために、自分自身を責めるようなことになってしまう」。あるいは、事実を否定し、正直な感情を抑え込むことを強いることにもなる。「そのような運命をしょいこんだ自分を呪うか、いわれのない苦しみを与えた神を恨むかの、どちらかになって」しまう(37ページ)。
では、どのような捉え方をすればよいのか。著者はユダヤ教の聖典、そして旧約聖書にも含まれるヨブ記にヒントを求める。著者がヨブ記をどう解釈しているかの叙述はここでは省くが、結論は次のように述べられている。「世界を公平で真実に保ち、不公平が生じないようにすることが簡単だと考えているのなら、やってみるがいい」。つまり、世界はカオスにさらされており、神ですらそれを制御することなどできない。
「神は、正しい人びとが平和で幸せに暮らすことを望んでいますが、ときには神でさえ、そうした状態にすることができないのです。残酷と無秩序が罪のない善良な人びとをおそわないようにすることは、神にとっても手にあまることなのです。しかし、神を抜きにして、人間にそのようなことができるでしょうか?」(58ページ)。神には限界があり、人がカオスにおそわれ、飲み込まれるのを防げない。
だが、これはまったく慰めがない世界だということではない。「もし、神が、正義の神であり力の神でないとしたら、私たちのうえに不幸がおとずれたときも、神はやはり私たちの味方なのです。……不運や不幸は神のなさっていることではない、だから、私たちは神に助けを求めることができるのです」(60ページ)。
限界がある神・苦悩する神
神には限界がある。神が人の幸せのために働けない領域が大きい。だが、それは神がまったく無力だとか、神に見放されているということではない。「結局のところ、聖書がくり返しくり返し語っていることは、貧しい人びと、夫を亡くした妻、親を亡くした子供らをとくに擁護する者としての神であって、そもそもなぜ彼らが貧しくなったか、夫を亡くしたか、親を亡くしたかの理由ではないのです」(61ページ)。
これは「苦悩する神」という信仰に通じるものだ。「キリスト教は、創造し支配する神という観念のほかに、苦悩する神という考え方を取り入れました。聖書期以後のユダヤ教も、おりにふれて、苦悩する神について、捕囚の民と共に家を追われる神について、神の子である人間がお互いに敵対していることを見て涙を流す神について語っています」「私は、罪のない人たちの苦しみを知ったときに私が感じる苦悩は、神の苦悩と神の同情を反映したものだと考えたいのです。私が憐れみや怒りを感じられるのは、源に神がおられるからだと考えたいのです。虐げられている人の側に立って傷つける者に対している時に、神と私は同じ側に立っていると考えたいのです」(122ページ)。
苦しむ人の側に立つ神という神観は、またすべての人間は「悲しみのきょうだい」だという人間観とも照応し合う。「だれもが悲しみを知っているという意味において、兄弟姉妹なのです」(163ページ)と著者はいい、自分の生涯に照らし合わせて述べている。「私が若いラビだったころ、悲しみに沈んでいる人たちは、私の支援や語りかけに耳をかそうとしてくれませんでした。悲しみに心を痛めている人たちと痛みを分かちあうために、月並みなことばをたずさえて人びとのところへ向かっていた私は(若く、健康で、安定した収入を得ていたのです)、いったい何者だったのでしょうか?しかし、年を経て、私の息子の病気や予後について知るようになると、人びとの拒絶反応は少なくなってきました。今では彼らも、私が自分たちと比べてべつだん幸運なわけでもないと知っていますから、私に対して怒りをもつ理由がなく、私の慰めを受け入れてくれるようになりました。彼らから見て、私はもはや、神のお気に入りの子供ではなくなったのです。私と彼らは苦難の兄弟であり、だから彼らは、私の援助を受け入れることができるのです」(162−163ページ)。
祈りの力とは何か
このことからも分かるように、祈りが私たちにもたらしてくれるものがある。「祈りが私たちにもたらしてくれる第一のことは、私たちをほかの人と結び合わせてくれることです」(174ページ)。「祈りは正しく捧げられる時、人を孤独の極みから解放します。一人きりだと思う必要はないし、見捨てられたと思う必要もないことを、人は祈りを通して再確認できるのです。祈りは人間に、どんな人も一人では掴むことのできない、より深い、より希望と勇気に満ちた、未来に対してより開かれた、大いなる存在(リアリティ)と結び合わされていることを教えてくるのです」(178−179ページ)。
しかし、これだけではない。「人と人とを結び合わせるということ以上に、祈りは私たちと神とを繋ぐものなのです」(179ページ)。ここで、適切な祈りについて著者が述べていることを思い浮かべるべきだろう。「神が祈りに答えてくれない」というとき、省みるべきは適切な祈りであったかどうかだ。「祈るとはどういう意味なのか、そして祈りが聞き入れられるとはどういうことなのか」を自ら問い直してみるべきだ、と著者はいう(169ページ)。
タルムードの教えを参照しながら、著者は自分に都合のよいことを求める祈りや他者を傷つけるようなことを祈るのは不適切だという。「大学の入学試験の結果を待つ高校3年生が「神さま、どうか合格でありますように」と祈るのも、病院で診断結果を待っている人が「神さま、異常ありませんように」と祈るのもともにまちがっている。
「しかし、勇気を求め、耐えがたい困難を耐えるための力を求め、失ったものではなく残されたものに心を留める寛大さを求める人たちの祈りは、かなえられることが多いのです。そのような祈りをする人は、自分が考えていた以上の力や勇気を自分のなかに見いだします。それはどこから来たのでしょうか? 彼らの祈りがそのような力を見いだす助けになっていると、私は考えたいのです」。
祈りを通して得られるものは何か
著者は、これについていくつかの例をあげている。知恵遅れの子供の弱さを目前にした親の怒りに囚われ、続いて忍耐心が欠けている自分を責める親。「そのような親たちは、日々を生き抜いていく力をどこから得るのでしょうか?手術さえ不可能なガンで苦しんでいる男の人、あるいはパーキンソン病で苦しむ女の人は、幸福な未来を期待できない状況のなかで、どうやって力を得、新しく巡り来る日々に意味を感じ、立ち上がれるようになるのでしょうか?」。
ここにこそ神が現れる、ここでこそ神への信仰が求められるのだと著者はいう。「私は、そんな人にとっても、神が答えだ――その現れ方やはたらき方は違っても――と信じています。私は子供の知能障害の原因が神にあるとは思いませんし、だれが筋ジストロフィーで苦しむかを選択したのが神だとも思いません。私の信じている神は、苦しみを与える神ではありません。苦しみを乗り越えるための力と勇気を与えてくれるのが神なのです」(187ページ)。
苦しむ人、傷ついている人、痛みにある人を支え、生きる力をよびさます働きをするのが神だという答えになる。痛みと弱さのあるところにこそ神が現れると著者はいう。「私たちは弱いのです。すぐに疲れ、怒り、気持ちが萎えてしまいます。どうすれば、これからの長い年月を耐え抜けるのだろうかと途方にくれてしまいます。しかし、自分の力や勇気の限界に達した時、思いがけないことが私たちのうえに起こるのです。その時、外からの力によって強められる自分を見いだします。そして、自分はひとりぼっちではなく、神が共にいてくれるのだということを知ることによって、苦しみを生き抜いていくことができるのです」(190ページ)。
ユダヤ教の唯一の神という前提に立って、現代の神信仰のありかを示そうとする著者のこの答えは、そのような前提をもたない私にとっても理解できるように感じる。孤独な人間の弱さと痛みの経験のなかにこそ、何かを排除することなく人々が分かちあう超越的なものとの出会いの場があるのではないか。宗教の枠を超えてもそれは経験される。私はそれを「限界意識のスピリチュアリティ」とよんだり、「痛みとケアのスピリチュアリティ」とよんだりしている。それを多くの人が儀礼や共同の祈りとして共有するとすれば、それは排除をしない宗教となる。著者が説こうとしているのは、そのような宗教の一神教的な形といえるだろう。
世界の不完全さを赦し、愛する
本書の最後の部分で、著者は「どうして正しい人に不幸がおそいかかるのか、という問いはそれ自体、まったく異なる問いにかたちを変えてしまいました。どうして起こったのか、ではなくなり、どのように応答すればよいのか、こうなってしまった今、なにをするのか、を問うことになったのです」という。そして、そこに「赦す」というテーマがあるのだという。「失望させられる不完全な世界、こんなにも不公平や残虐、病気や犯罪、天災や事故の多い世界を、あなたは愛をもって赦し、そして受け入れることができるでしょうか?そんな世界の不完全さを赦し、それでも大いなる美と善があるのだからと、これが自分にとっての唯一の世界なのだからと、愛することができるでしょうか?」
そして、最後の一節とそれに続く5行の詩句が付される。「もし、あなたにそれができるならば、赦すことと愛することは、完全には多少欠けることのある世界で、私たちが十二分に、勇気をもって、そして意味深い人生を生きるために、神が与えてくださった武器であるということがわかるのではないでしょうか」(220ページ)。
私は、アーロンとアーロンの人生が教えてくれた
すべてのことを思い起こす。
なんと多くを失い、なんと多くを得たことか。
昨日の痛みはやがて去りゆくだろう。
そして、私は明日を恐れない。
「唯一の神」とともに「赦し」にもしっくりしないものを感じる読者も多いのではないか。そして、「世界の不完全さ」であれば、よくわかると思うかもしれない。人と人との間や縁、あるいは他者との関係という概念で説いてもらえればもっと身近になると思う人もいるだろう。私自身には、ともに生きること、暴力と社会という観点から見た宗教という観点こそが重要ではないかとの思いがある。だが、そのようにいうのでは著者との距離が大きくなってしまう。
ここで、「神」と「赦し」という言葉と語り口で指し示されているものを、異なる宗教や世界観・死生観・倫理観のもとではどのような言葉や語り口で表現しているだろうか。私自身は天理教や金光教の教祖の歩みについて学んだとき、似たような問いに出会ったような気がしている。その後も、そのような問いの近くで日本の宗教やスピリチュアリティについて学び、考えてきた。日本の宗教文化や世界観・死生観・倫理観に大きな影響を受けてきた者として、今もなお、その問いに向き合いたいと感じている。そのような者として、クシュナーが示したような応答に異なる表現を与えたい、深い感銘とともにそのような思いをよびさます書物である。
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