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宗教の名著巡礼 第13回


不完全な神を赦し、恵みを分かち合う(2)

──H.P.クシュナー『なぜ私だけが苦しむのかー現代のヨブ記』岩波書店、1998年──

島薗進


なぜこんな苦しみに見舞われるのか?

 「なぜ、善良な人が不幸にみまなわれるのか?」という英語の題名は、日本語読者には必ずしもしっくりしないかもしれない。そこで、訳者は「なぜ私だけが苦しむのか」という題にしたのだが、この「私だけ」というのも少しずれているようだ。本書の1章は「なぜ、わたしに?」と題されているが、実際にはさまざまな人々の苦しみについて知ったり、話を聞くことも神の実在を疑う理由になることを示唆する叙述がなされている。

 著者は600家族、2500人の人びとをケアするラビだという。病院へのお見舞い、葬式の司式、離婚や事業の失敗、子どもとうまくいかない悩みなど、人びとのさまざまな痛み、苦しみに見舞われている人びとをケアする立場にある。「末期の病で苦しむ配偶者に付き添う人の話、大切な人が耐えがたい苦痛と挫折感にさいなまれているようすを見ていなければならない人たちの話に耳を傾けます」(5ページ)とある。

 また、そんな立場にはない一般の人びとと同様、日々、新聞などで「この世界における善とはいったいなんなのか」を考え直さざるをえないような事柄に出会ってもいる。「そうした世間の出来事や、個人的に知った悲しい出来事などを考えあわせるとき、私は自分自身にこう問わねばならなくなるのです。「このまま、世界は素晴らしいし、優しさと愛の神はこうした出来事に対して責任をもっていらっしゃると教えていけるのだろうか?」と」(6ページ)。

 特別にすぐれていて確かに善人であると言える人、聖人のような人が問題なのではない。「そうではなく、私たちがたびたび問うのは、それほど善人でもそれほど悪人でもない、ごくあたりまえで、近所づきあいのよい人が、どうしてこんな突然の災難や苦しみに直面しなければならないのか、という問いなのではないでしょうか」。「「なぜ、正しい人が苦しむのか?」あるいは「どうして、善良な人びとに災いがおそうのだろうか?」という問いは、殉教した聖人や賢人にのみ向けられる問いではありません。それは、自分自身や自分のごく近くにいるあたりまえの人々が、どうして、かくも大きな悲痛や苦痛に耐えなければならないかを理解しようとする問いなのです」(6-7ページ)

 

因果応報への疑問と現代人

 だが、このような問いかけを過去の時代の人たちはしてきただろうか。本書ではヨブ記が重要なテクストとして取り上げられ、古代から関連する問いかけがあったことが示唆されている。だが、ヨブはとくに善なる人、すなわち義人である。そして、これは例外的なことと考えられていた時代が長かったのではないか。著者はこう述べている、「いつの時代でも、私たちは苦痛の意味を理解するひとつの方法として、人はその身にふさわしいものを受ける、不幸はその人の犯した罪の報いである、と考えてきました」(8ページ)。

 イザヤ書3章10−11節が引かれている。「正しい人に言え、彼らはさいわいであると。/彼らはその行いの実を食べるからである。/悪しき者はわざわいだ、彼らは災いをうける。/その手のなした事が彼に報いられるからである。」仏教で言えば、因果応報、つまりは善因善果悪因悪果が基本的な真理であり、聖職者はそのことを長く教え、人々はそれを受け入れるという時代が長く続いてきたはずである。では、なぜ現代において、このような教えが受け入れられにくくなったのだろうか。

 本書はこの問いに対して正面から向き合おうとしていない。現代において、なぜ人びとは、ふつうの人びとが不当に苦しむと感じるようになったのか。この問いは、宗教について、とりわけ救済宗教について考えてきた私のような者にとっては、理解しやすい問いである。人類史のなかで、現代人が宗教に距離をとるようになってきたのはなぜかという問いがあるからだ。著者もこの問いをまったく無視しているわけではない。だが、その問いへの向き合い方が軽いものにとどまっているように思われるのだ。

 

因果応報が受け入れられにくくなったわけ

 著者は、「災いの問題を考えるにあたって、神はその人にふさわしいものを与え、不幸はその人のまちがった行いのゆえだというとらえ方は、それなりにすっきりしていて、そう考えたくもなる解決方法ですが、いくつかの限界があります」という(10ページ)。「いくつかの限界」とあるが、私の読みでは2つあげられている。

 一つは、「その考えは、人に自分自身を責めるように教えます。根拠のない罪意識を与えてしまうのです。人びとは神を憎み、あまつさえ自分自身を憎みはじめます。そして、この考え方のなにより困る点は、それが事実に反しているということです」(10-11ページ)。これは多くの人が理解できると思うが、新たに生じる疑問は、そのような教えがなぜ長い間、真理として教えられてきたのか。それは過去の宗教の教えの妥当性そのものを疑わせるものではないか、という点である。著者はこの問いに向き合うことはしない。

 因果応報の教えが不適切になったことについて、著者があげるもう一つの要因は、マスメディアなどで一般人が世界のありようを知る機会が増えたということだ。「もし私たちが、マス・メディアがこれほど発達する前の時代に生きていたとしたら、当時の知識人たちのように、この考え方を信じることができたかもしれません。その時代は信じることが容易でした。善人にふりかかる災いは、今よりずっと少なかったでしょうから、無視していることができたでしょう。新聞もテレビも、歴史の本もないのですから、ときたま生じる子供の死や聖人のような隣人の死は、見て見ぬふりをしていればよかったのです」(11ページ)。

 

歴史のなかの宗教という問いの回避?

 ところが、「今日、私たちは世界のようすをあまりに知りすぎてしまいました」と著者は続ける。「アウシュビッツやミライ(ベトナムの村)の悲惨を知っていながら、あるいは病院や老人ホームの実態を知っていながら」、イザヤ書にあるような因果応報の教えを説くなどということはできないという(同前)。

 ここで生じる問いは、なぜ、現代人は「世界のようすを知る」ようになったのか、なぜ、かつての人びとは「世界のようすを知らなかった」のかというものだ。メディアの発達や識字率の増大、学校教育の普及や科学的知識の普及が要因なのだろうか。自然現象や社会現象について、それらが生じる因果関係の合理的知識が増したために、神が世界の現象を支配しているという考えが受け入れられにくくなったということなのか。

 これは人類の歴史のなかで宗教を問うという姿勢からは、自然に生じてくる考えであるが、著者はそこにはあまり関心を向けていない。本書は神学的な主題を扱っているので、歴史や社会の視点を通して見えてくるリアリティには関心が向かいにくい。本書の重要な弱点と言える。

 

神への信仰を守ろうとする弁論

 だが、本書の強みは神学的な問いにあり、1章の半ばを過ぎると、そちらが丁寧に論じられていく。「なぜこんな苦しみに見舞われるのか」という問いに対して、なお信仰を促す側が提示するさまざまな応答を検討する部分である。

 (1)犯した罪にふさわしい報いであるか、(2)時間がたてば明らかになるのか、(3)はかり知れない理由があるのか、(4)なにかを教えようとしているのか、(5)信仰の強さを試しているのか、(6)より良い世界への解放なのか、と苦難や悲しみが理由のあるものだという信仰をもつ側からの説明が検討されていく。

 (4)について見てみよう。「ちょうど、親が愛する子供のためを思ってその手を罰するように、神は私たちを罰する」という応答はどうか。「ときには、大切なことをしっかり教えるために子供のお尻をたたいたり、ものを取り上げたりしなければならないこともあるのです。その子は、他の子供たちには許されていあることなのに、どうして自分には許されないのだろうと、親の横暴を感じるかもしれません。優しそうな親なのにどうしてこんな厳しい仕打ちをするのかと、不思議に思うかもしれません。でも、それはその子がまだ幼いからなのです。大きくなったら、そうしたことの必要性や大切さを理解するようになるでしょう」。(24−25ページ)

 神の奥深い思いを人は理解できずに、神を恨んだり、信仰を捨てたりするかもしれない、だが、やがて神の深い思いやりの心が理解できるようになるだろう。聖書は教えている。「私たちが神の「不公平」を嘆いても、いつか成長してそれらのことがすべて自分のためだったと理解する日がくるまで、忍耐強く待っていてくださるのだ……」。「箴言」第3章12節には、「主は、愛する者を、戒められるからである。あたかも父がその愛する子を戒めるように」(25ページ)。

 

当事者には受け入れられない弁神論

 強盗に襲われて銃で撃たれ、下半身不随になったロンという若い薬剤師の例があげられている。友人たちはロンを慰めようとして、新しい治療薬の話や奇跡の癒しの話をする者もいたが、「なぜ、ぼくがこんな目にあわなければならないのか?」という問いに答えようとした者もいた。ある友人は言った。

 「人生にふりかかるあらゆることには、なにか理由があるとぼくは信じている。なにはともあれ、すべてのことはぼくたちのためになることだとね。……今度のことで、神はきみになにか教えよう、もっと思慮深く、他人を思いやれる人間になってもらおうとしているんじゃないだろうか。きっと今度のことで、神はきみからうぬぼれや傲慢を取り除いて、立派に成長させてやろうと考えておられるのだろう。きみをもって素晴らしい、思いやりのある人間にしようとされているんだ」(27-28ページ)。

 これに対して、著者は疑問を投げかける。「その友人はロンに、この理不尽な事故に意味を見いださせ、慰めようとしたのです。しかし、もしあなたがロンの立場にいたら、どんな思いがするでしょう?ロンは、もし自分が病院のベッドに伏せっている身でさえなかったら、その友人をなぐりつけているところだったと、そのときの気持ちを語っています」(28ページ)。

 従来なら受け入れられていたような苦難についての宗教的な説明が受け入れられにくくなっている。多くの人々が自分なりに納得できる理解を得ようとする時代には、当事者を導いて不条理(スピリチュアルペイン)から目を離すように促す説明が受け入れられにくくなっている。わが子の生涯をめぐる著者自身の苦悩を知る読者は、著者とロンの反応を意外とは思わないだろう。

 ただ、(6)より良い世界への解放なのか、というところはもう少し説明がほしいと思うかもしれない。「死後の救い」や「永遠のいのち」に関するものだ。キリスト教とかイスラームではこれがたいへん重要だ。インド由来の輪廻転生も苦難に対する宗教的な説明としては、反論が届きにくいものだ。これはマックス・ウェーバーが「苦難の神義論」をめぐって論じていることで、一定の妥当性があると思う。著者にはこの観点が薄いように思うが、これはユダヤ教の特徴と関わりがあると思う。

 『なぜ私だけが苦しむのか』の考え方のいちばん重要と私が思うところは、まだ示していない。次回はそこに進みたい。


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