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宗教の名著巡礼 第12回


不完全な神を赦し、恵みを分かち合う(1)

──H.P.クシュナー『なぜ私だけが苦しむのかー現代のヨブ記』岩波書店、1998年──

島薗進



世界的ロングセラー

 この書物は英語版初版が1981年に、第2版が89年に出されている。日本語版は1985年にダイヤモンド社から『ふたたび勇気をいだいて――悲嘆からの出発』と題して刊行されている。私が手にしているのは98年に岩波書店から同時代ライブラリーとして刊行されたものである。日本語版初刊の「訳者あとがき」には、本書はアメリカでは、出版後3年で約16万冊もが読者の手に渡っており、すでに8ヶ国語に翻訳されているとある。日本語版も多くの読者に読まれて来たようで、2008年には岩波現代文庫版として再刊されている。

 私は同時代ライブラリーの刊行後、ほどなくしてこの書物を読んで感銘を受けていた。だが、深く掘り下げて読み理解を深めるには至らなかった。宗教思想として意義深いとは思ったが、自分にとって重要な書物となるとは思わなかった。その後、私は死生学研究に取り組むようになり、さらに上智大学グリーフケア研究所の所長を務めた。その間、この書物がスピリチュアルケアやグリーフケアに関心ある人たちにもよく読まれていることを知った。そして、最初に読んでから20年以上を経て、このほどようやく丁寧に読み返す機会を得、「そうだったのか」と思った。

 これは私が宗教学と死生学の双方を通して考えてきたテーマを独自の仕方で、また独自の経験を通して考え抜いた書物なのだ。そこで、心にずしりと響く大事な内容があると感じる。ならば、丁寧に読み解いて自分にとってなじみ深い書物にしなくてはならないだろう。


息子アーロンの病と死

 原題は、When Bad Things Happen to Good People であり、直訳すれば、『善き人に悪いことが起こるとき』となる。これは著者自身に起こったことを想起させる題である。著者自身に起こったことは、「なぜ私はこの本を書いたか」という序章の冒頭に記されている。本書本文の最初の文は、「これは、神や神学についての抽象的な本ではありません。もったいぶったことばや知的な言いまわしで問題をすり替えて、私たちにふりかかる苦しみは、ほんとうは苦しみでなく 、当人がそう思い込んでいるにすぎない、などと言いくるめようとする本でもありません」というものだ。そして、「これはきわめて個人的な書物です」と続く。

 私たちの娘のエイリエルが生まれた時、息子のアーロンは3歳の誕生日を迎えたばかりでした。アーロンは聡明で元気な子でした。2歳にならないうちに、たくさんの種類の恐竜の名前を覚えていましたし、恐竜が絶滅したことを大人たちにしんぼう強く説明していたものです。(xviiページ)

 ところがそのアーロンはからだの成長が異様に遅かった。生後8ヶ月で体重の増加がとまり、1歳になったころから髪が抜けおちはじめたという。著名な医者に診てもらったが、身長はあまり伸びないが、その他の点では正常に発達するだろうと話してくれた。ちょうどその頃、著者はニューヨークからボストンの郊外に引っ越し、ユダヤ教のラビに就任した。移転先のボストンで、子供の成長障害を研究している小児科医がいることを知り、診てもらうことにした。

2ヶ月後――娘の生まれた日――に、その医師は産科に入院中の妻を訪れ、アーロンの症状は「早老症(プロゲリア)」と呼ばれるものであると私たちに告げたのです。彼はことばを続けました。アーロンは身長はせいぜい1メートルどまり、頭や体には毛もはえず、子供のうちから小さな老人のような容貌を呈し、十代のはじめに死ぬだろうと……。(xviiiページ)


なぜ私が、なぜ私たちが?

 「どうして私にこんなことが起こるのか」という問いが著者の心に浮かんでくる。「この不公平な出来事に対する深い痛みに私はとらわれていました」。自分は悪い人間ではない。ラビになろうというのだから、神の前に正しいとされる生き方をしようと思っていたはずだ。それなのに、なぜ私の家族にこんな不幸がおそいかかってきたのか。私自身は気づいていないだけで、怠惰や高慢の罪があるのかもしれない。

 だが、その罰があるとして、なぜそれをアーロンが受けなければばらないのか。無邪気で幸福で活発な3歳の子だった。その息子が、やがて肉体的にも精神的にも苦しみ続けなくてはならなくなる。人々からはじろじろ見られたり、指さされたりしなくてはならないだろう。家族をもつこともなく、大人としての未来がなく、早く世を去るであろうことを知る、それもそう先にことではない。アーロンの誕生日ごとに彼との別れが近づいて来る。家族はそのことを痛切に意識することになる。事実、14歳の誕生日の2日後にアーロンは死んでいった。

ほとんどの人と同じで、妻も私も、神は実の親と同等か、あるいはそれ以上に親身に人のめんどうをみてくれる全知全能の存在であると信じて育ってきました。もし、人が素直で従順であれば、神はきっとそれに報いてくれるだろうと信じていたのです。人が道を踏みはずすようなことがあれば、しぶしぶながら厳しく戒めてくれるのが神だと考えていたのです。神は、人が傷つくことのないように守り、自分で自分を傷つけたりすることがないように守り、人がその態度や行いにふさわしい人生を送るように見守ってくれる、と思っていたのです。(xix-xxページ)


苦しみ悲しんだ当事者の証言として

 著者が死にゆくアーロンの生を見守り、やがて死別に見舞われる時、著者や家族の助けになった本や人は多くはなかったという。

私の読んだ多くの本は、神の栄光を守ろうとすることに重きを置き、理論的な証明でもって、悪はほんとうのところは善であり、悪はこの世界を善いものにするために必要なのだと述べるのみで、死につつある子供をかかえる親たちの苦悩や困惑を癒そうとするものではありませんでした。(xxiiページ)

 そうした本に書かれていないこと――それは人の悲しみを体験し、かつ根本的に神を信じる者こそが伝えることができるものだ。「死や、病気やけが、そして拒絶や失望によって人生に傷ついた人のために」なること、そして、「この世に正義があるなら、こんなことが自分に起こるのはまちがっていると考えている人」の心に響くもの――それこそ著者が伝えたいことだ。もし、それができるとすれば、「私は、アーロンの痛みと涙からいくばくかの祝福を取り出せたことに」なると著者は記している。

 この本はアーロンの本だ、と著者はいう。苦しみ悲しんだ当事者の証言――それこそが「なぜ人は苦しむのか」、「にもかかわらず、何らかの信仰とともに前を向いて歩くことはできるのか」という問いへの応答の核心にあるものだ。ここまで読んで、「これはきわめて個人的な書物です」という言葉の意味がわかる気がする。だが、それはまた、現代の新たな宗教思想の提示であり、グリーフケアやスピリチュアルケアとは何かという問いへの答えにもなるものだ。


ユダヤ教のラビの著書ということ

 というわけで、この書物は多くの現代人の心に響くものであり、また現代において宗教信仰はどのような形をとるか、グリーフケアのスピリチュアリティはどのようなものかを考える人たちに大事な問題を解き明かす手がかりを提供するものだと思う。ただ、最初に注意しておきたいことは、著者はユダヤ教のラビであり、その立場から離れることなくこの書物を著しているということだ。この書物で考察されていることは、「アブラハムの一神教」(ユダヤ教、キリスト教、イスラーム)が前提となっている。

 また、同じ一神教でもユダヤ教とキリスト教には大きな違いがある、キリスト教では受肉した神、イエス・キリストが創造の神とともに信仰の核心にあり 、したがって「苦しむ神」という観念は伝統的な神観からさほど遠くはない。ところが、ユダヤ教ではそうではなさそうだ。さらに「救い」ということについて、キリスト教では最後の審判と復活という理念があり、そこにこそ最終的な信仰の基盤があるとされている。ユダヤ教では、それは特殊な信仰の一つということになるだろう。この書物で述べられていることをキリスト教の枠組みから述べようとするとだいぶ異なる形になるのではないだろうか。

 にもかかわらず、本書のメッセージは多くのキリスト教徒にも届いたと思う。有神論(一神教)という共通の基盤があるからだ。では、その基盤をもたない多くの日本の読者にとってはどうか。この書物が日本でもよく読まれてきたことから、有神論的文化基盤を共有しない読者にも納得できるところが多い書物だとはいえるだろう。とはいえ、そこにいくらかの距離があることも確かだ。そのあたりを意識しながらさらに読み込んでいくことにしたい。

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