宗教の起源を問い直す
──竹沢尚一郎『ホモ・サピエンスの宗教史』中公選書、2023年──
島薗進
人類の宗教史への挑戦
現在、「世界の宗教」という科目を教えようとすると、キリスト教、仏教、イスラームのような「世界宗教」を軸として、加えてユダヤ教、ヒンドゥー教、道教、神道、他に世界各地の民俗宗教、そして新宗教などを取り上げる。このような概説書はいくつもあるが、人類の宗教史を体系的に述べようとした書物はほとんどない。半世紀近く前のエリアーデの『世界宗教史』(1976-1983)があるぐらいだ。
本書はこの欠落を補うべく、人類の宗教史を体系的に述べようとしたものだ。序章と結論の間に6章が並ぶが、「世界宗教の誕生 「枢軸の時代」は第5章に据えられ、キリスト教と仏教の成立について論じられている。続いて第6章「宗教改革の光と影」が来て、西洋の宗教改革とともにイスラームや日本の鎌倉仏教が取り上げられている。ふつう古代とよばれる時代から近現代までの叙述は短く、およそ3分の2が古代以前、つまり世界宗教の成立以前に当てられている。ヒンドゥー教や神道、道教には触れられていない。
この構成からも分かるように、本書が描く人類宗教史は、紀元前1千年紀とされる「枢軸時代」以前、国家や文字文明成立以前の時代に力点がある。とくに分厚く描かれているのは狩猟採集民、農耕民、牧畜民の宗教で、現代では新たな経験的研究が出にくい分野だ。参照されているのは主に19世紀末から20世紀前半までの宗教人類学の研究成果(狩猟民研究は比較的新しいものも含まれている)と、その後の考古学や先史時代の文化研究である。
本書の全体の概観
著者は1970年代から80年代にかけてジョルジュ・バタイユの影響を強く受けつつ独自の宗教理解を育てるとともに、西アフリカのフィールド経験を踏まえてフランスで学位を取得しているが、当時、身につけた宗教人類学と先史学の成果が豊かに生かされた書物である。なかでも読み応えがあるのは第1章「宗教の起源」で、現在の類人猿研究と先史学の成果を踏まえて宗教の起源が論じられている。人類はその生物学的特性から、生命を守るために集団を構成するとともに、弱い子どもを長時間守り育てることが必要で、共同性を育てることになり、これが宗教の基礎を作ったとする。
20世紀にはまだかなり接することができた狩猟採集民の文化の研究に重きを置き、儀礼こそが宗教の基盤だとする。農耕民・牧畜民も儀礼に基づく宗教世界という基盤を維持していった。世界宗教以後の宗教史は、その儀礼による宗教の豊かさを失わせる結果を招くことになり、そのために現代人は宗教欠如に苦しむことになっているとするが、ここはデッサン的な叙述だ。
狩猟採集民、農耕民・牧畜民の宗教の論述がたいへん充実しており、関連諸学の成果を踏まえた社会進化論的な説明と、デュルケム以来の最盛期宗教人類学の成果の儀礼論的再構成とを結びつけ、歴史的展望のもとに総合し、一貫した「人類宗教史」を構成している。その力業に感銘を受けるとともに、今後、人類宗教史の洗練・深化を進めていくための基礎作業と位置づけうる意義深い著作と思う
宗教の起源と人類の脆弱性
以上は『公明新聞』(2024年2月5日)に掲載された書評を書き直したものだが、以下では私がとくに意義が深いと考えている第1章「宗教の起源──宗教はいつはじまったか」についてより詳しく見ていくことにしたい。著者はサルから人類への進化の過程で、宗教が成立したことが重要な意義をもつと捉え、ゴリラやチンパンジーやボノボと異なるヒトへの進化において、何が重要な要素だったかについて述べ、さらに二足歩行を行う猿人から20万〜15万年前にアフリカ大陸を離れたとされるホモ・サピエンスに至る進化の過程で、何が宗教をもたらす要因になり、その宗教の原型はどのような形をとったかを示そうとしている。
チンパンジーにはなわばりをもつコミュニティーどうしの殺し合いもあり、集団のなかでも権力争いや弱いものいじめがある。これを和らげるために食物分配や毛づくろいも行われるが、アルファ雄とよばれる1頭のオスが集団を統率し、メスとの性交を独占している。ボノボの場合はメス同士の連帯が基盤にあり、緊張緩和の手段も多くより平和に共同生活を行っている。
これに対して、二足歩行を行うアウストラロピテクスなどからホモ・エレクトスへと進化する過程で共同体の規模は拡大し、道具を用いた狩猟の能力を獲得し、脳の容量は大きく拡大していく。この共同体規模の拡大と裏腹の関係にあるのは、ヒトが無防備な状態にさらされやすく、とくに妊娠から出産、そして子供の成長においてそうだということだ。ヒトは直立しているために大きな子を産むことができず、子供は未熟な弱い状態で生まれ、長い時間をかけて成熟していく。
この脆弱性が共同体による助け合いを発達させる。まずは食物分配が重要だが、社会的緊張の緩和のための笑いなどの能力も必要で、そこに平等性や利他性といったヒトらしい特徴も含まれてくる。このような社会関係と社会的相互作用の複雑化には、知的能力の発達が不可欠であり、脳が拡大してホモ・エレクトスからホモ・サピエンスへの進化が生じる。言語や宗教の生成もその過程で起こってくる。
初期人類の宗教的実践と世界観
宗教の発生を示唆する重要な指標は、埋葬遺跡や洞窟壁画である。すでにネアンデルタール人において、埋葬が行われていたのではないかとされる。「また、身体の右半分が麻痺したままで何年か生き延びた個体の遺骨も確認されているので、ネアンデルタール人が死者を悼むと同時に、たがいをケアしながら生きていたことの証拠として、彼らの文化的水準の高さを物語っている」(50−51ページ)。
洞窟絵画はホモ・サピエンスにおいて明確に広がっていき、狩猟採集の生活と宗教の原初的形態との関連を推測させる重要な資料である。すでに存在したことが推定されるのは「祝祭」であり、これはエミール・デュルケムやジョルジュ・バタイユが宗教の原初形態とみなしたもので、共同体の結束を社会的相互作用を促進させる基盤となったものとする。ホモ・サピエンスの狩猟採集生活において、それはアニミズムへと展開していったと著者は議論を進める。
エドワード・タイラーが1870年代に唱えたアニミズム論は、その後、批判的な見方が強かったが、近年は新たな理解が進んでいる。「世界理解のひとつのあり方としてアニミズムを捉える見方であり、そこにおいては、世界は意思と行為能力をもつさまざまな存在が関係しあうことで構成されており、人間はそのなかの一要素に過ぎないものとして理解されているというのだ」(62ページ)。
このようなアニミズム的世界観が宗教の原初に存在したと著者は考えているようだ。「誕生したばかりの宗教の中核にあったのは、おそらく祝祭的実践であり葬送儀礼であり、アニミズム的世界観であったのだが、考古資料にもとづくだけではその理解は断片的なものにとどまっている」(63ページ)。
宗教の起源を論じる新たな可能性
以上、第1章の論述を私なりに要約してきた。19世紀末から20世紀の初めにかけて宗教の起源が盛んに論じられたが、その後、それには無理があるとして宗教の起源を論じない時期が続いた。ところが、進化生物学や霊長類研究や先史時代のヒトの研究が進むことによって、新たに宗教の起源を論じる可能性が開けてきている。本書はその流れのなかで、二足歩行による脆弱性と共同体の形成、そしてそれに伴う人類的な文化の形成に注目し、宗教の起源論に近づこうとしている。
その議論には大いに啓発される。宗教において社会性が重要であるというデュルケム以来の議論は、エドワード・ウィルソンらの社会生物学によって再活性化されたところもあるが、あらためて取り上げ直されている。そこでは暴力へと向かう要素をどう抑制するかという観点と宗教が結び付けられている。これは『暴力と聖なるもの』のルネ・ジラールの議論とも照らし合うものだろう。それを祝祭や儀礼、また共同体の意義として理解するのは著者独自のものだが、説得力十分とは言えない。だが、その妥当性が検討されるに値するものであることは言うまでもない。
これに続いて、第2章から第3章にかけて、狩猟採集民、農耕民、牧畜民の宗教が論じられていくが、これも大いに読み応えのあるものだ。狩猟採集民の比較的平和な文化と原初的な宗教とを結びつけて考えているのも本書の、また近年のアニミズム論の特徴だが、さらに検討が必要だろう。一神教の神の先駆形とも言えるような掟の神が広く見られたというラングの「最高存在」論や、それを継承しているペッタツォーニやエリアーデの議論も無視できないものだ。
宗教の原型を論じることの新たに可能性が開けてきていることは、宗教概念の検討にも大いに関わるものだ。宗教概念の有効性を疑問視する議論が長く続いているが、本書はそのような観点はまったく考慮していない。暗黙のうちに宗教概念の有効性を主張する議論にもなっている。宗教についての解明が容易でない問題群に対して、本書はたいへん野心的な視点から考察しているが、こうした論点について新たな議論の場が開けてくることを願っている。
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