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宗教の名著巡礼 第10回


超越者とこの世の経験の調和的理解

──山本芳久『トマス・アクィナス 理性と神秘』岩波新書、2017年──

島薗進



哲学者でもあり神学者でもあるトマス

 本書の「序」には、「トマスは哲学者でもあり神学者でもある」とある。宗教について学んできた私がこの書物に惹かれ、トマス・アクィナスに惹かれる一つの理由はここにある。この世の人間の経験に根ざした洞察は「理性」によってなされる。これが学術の領域で、専門分化して諸学問領域に分かれる以前はその全体が哲学とされてきた。

 現代の優勢な理解では、それはとりあえず「神秘」にはふれないもので、「理性」の範囲で完結するものと考えられている。だが、ほんとうにそうなのだろうか。「理性」で捉えうるものの向こうに「神秘」の領域があり、そことの関わりにおいてこそ、「理性」の働きは十全なものとなるのではないか。トマスの用語法でいえば、神的な源泉をもつ「知性」こそがその力をもつ。

 これは宗教学を学んできた私がつねに念頭に置いてきた考え方と通じるものがあり、拙著『宗教学の名著30』(ちくま新書、2008年)ではそのような展望をもった近代の学者の紹介に力点が置かれている。『宗教学の名著30』で取り上げた近代の宗教論者の多くは、宗教や聖なるものや神秘の理解を通してこそ、人間や社会についての奥深い理解ができると考えてきた人たちだった。

 では、近代以前はどうか。神学こそが学の主体だったところに、イスラーム文明を経由してギリシア哲学の大成者アリストテレスの哲学が導入されるようになり、哲学を土台とした神学というものが築きあげられる。それがトマス・アクィナスの行ったことであり、だからこそ「トマスは哲学者でもあり神学者でもある」ことになる。では、そこでどのように「理性」と「神秘」が接続されているのか。そこには近代の学術と宗教の関わりに先駆する何かが見てとれるだろう。

 本書はこの問題を、トマスの「徳」論を軸として解きほぐしてくれている。膨大な量の著作があるトマスだが、『神学大全』でいえば、第一部「神論」、第二部「人間論」、第三部「キリスト論」の第二部「人間論」、倫理学にあたる部分だ。アリストテレスの『ニコマコス倫理学』を踏まえて「徳を通じての幸福の実現」を目指す徳論と、それを超えるキリスト教的な徳論だが、後者はキリスト教の核心に関わるものになるはずのものだ。


幸福へと向かう徳の捉え方と現実肯定

 トマスはアリストテレスを援用しつつ、「賢徳」「正義」「勇気」「節制」の4つの徳をあげ、これらを「枢要徳」とする。おおよそアリストテレスに従いつつもトマスの独自性が表れている例として、たとえば禁欲についての「ダニエル書」解釈が取り上げられている。アリストテレスは「無感覚」を悪徳とみなすが、喪に服したダニエルは3週間、肉や酒や香油を避けた。これは快楽それ自体を悪しきものとして恐れてではなく、「観想」というより高い目的のためになされたものだとする。

 こうした「節制」の捉え方からさらに「純潔」という神学的あるいはキリスト教的な徳も引き出される。「純潔を求める人は、性的快楽を忌み嫌っているのでもなければ、快楽に無関心であるのでもない」。これは極端なことなのではなく中庸にのっとったものだ。「敬虔な純潔があらゆる性的快楽から離れるのは、より自由な仕方で神の観想に専心するためなのである」(96ページ)。

 ここでは物質的身体的な欲望が悪きものとみなされているわけではないと著者は述べる。「この世界の万物が神によって創造されている、神によって創造された万物は物質的・身体的なものも精神的・霊的なものもすべてが善いもの」だというのが正統的キリスト教の理解でトマスもそう捉えている。純潔とは「善いものであり、価値あるものであるからこそ、それを犠牲にしてまで神にすべてを捧げて生きるところに意味が見出されている」のだという(97−98ページ)。

 宗教史的な事実を踏まえるとややわかりにくい捉え方だが、トマスの考え方の説明としてはわかるような気がする。トマスは現にある自然や人間のあり方について、基本的に肯定的に捉える。現にあるこの世のものは神によって創造されたものであり、そこに善に向かう要素がある。それを認識するのは「理性」だけではない。「親和性による認識」というものがある。適切な育て方をされていると、自ずから徳への親和性が宿っていて、知的・概念的に学ぶことをしなくても身につけていくことができる。「純潔」とは異なる「貞潔」はそのようにして身につけられていくものだという(103ページ)。


神学的徳としての「信仰」「希望」「愛徳」

 トマスは「枢要徳」とは別に「神学的徳」があるとする。それは「信仰」「希望」「愛徳」だ。このうちのトマスの「信仰」理解についての説明は現代人にとってたいへん啓発的なものだ。理性と信仰、知と信、科学と宗教を別の領域のことだと考えるのが、現代人の思考パターンだ。だが、そもそも「信じる」とはどういうことか。「あの人だから信じる」「あの人を人として信じる」といえば、そういう経験があることに思い至るだろう。信は知に基づいていおり、それを一歩先に進めるものだ。そのような信がまったく欠けた生は成り立たないだろう。

 信仰は知性の承認を必要としそこに意志が働くが、広い意味での認識に属すことだ。神も認識の対象である。ただ、「現世における人間の神認識は、神によって創造された被造界に反映している限りにおける神の知恵や善性や卓越性を、間接的に認識するものに留まらざるをえない。その意味において、被造物という「鏡を通じて」神を見ている。しかしそこにおいて見える神は、明晰で露わなものではなく、「ぼやけて隠されたもの」」である」(125ページ)。このような認識のあり方に関わるものとして、著者はトマスの「徴(しるし)」や「ふさわしさ」という言葉の使い方についても詳しく説明している。「信仰」とともに「希望」も確実さに向かう旅の途上にあるものだ。

 そして神学的徳の最後のものとして「愛徳(カリタス)」の説明がくる。トマスはアリストテレスの友愛論に深い影響を受けているという。だが、トマスは友愛を神と人との間のことへと移しかえて論じている。ここでは神が人を求めるという観点が含まれており、「愛徳」も「友愛」と同じく双方向的なものとされる。トマスは「我々が神を愛するということは、神が我々を愛していることの徴なのである」という。トマスは「ヨハネの第一の手紙」の「神は愛である」を踏まえて、「神の本質そのものがカリタスである」と述べており、神自身の本来的なものである愛の至福を人間に分ち与えて下さるものと捉えている。


キリスト教・西洋哲学の枠を超えて

 このあたりまでは、キリスト教の信仰体系の受容を前提としなくてもついていける内容が多いと思う。つまり、ある種の哲学的普遍性をもった議論によって、広く宗教的世界観に通用するようなものの見方が示されているように思うのだ。この後、キリスト論に入り、トマスの「理性」と「神秘」の関係の理解が説き明かされていく。神の受肉としてのキリストそのものを「神秘」として捉える議論が解きほぐされている。だが、そこについては私の理解力がついていけていない。そこで、紹介を省いてとまどいだけを記す。

 神が受肉してイエス・キリストとなった。そのキリストを通してこそ、神秘は人々に直接姿を現すものとなった。では、そのキリストによって露わになった神秘とは何か。神の子として生まれ、ローマ帝国支配下の人々の困難があり、既存の宗教勢力への批判があり、人々を癒し重荷を降ろさせるような愉しがあり、十字架上の死に至る受難があり、墓から蘇り天にあげられるという復活があった──以上が神の受肉であるキリストの神秘についての私の概説的な理解だ。神の「受肉」とは受難(犠牲・代受苦)と復活にその核心があるのではないか。トマスはそこをどう捉えているのか。だが、本書においてはその説明はない。「「理性」と「神秘」」と題された最終章、第5章が理解しにくかった所以である。

 本書の全体の論旨は、有神論という大前提、「観想」による神との近接といった前提、また、キリストが神性と人性の双方をもつといった神学枠組みに親しみがない者にとっては、そもそも関心をもちにくいものかもしれない。だが、アリストテレス以来の歴史をもち、現代においてもその意義が再確認されている「徳」と「幸福」の倫理論から議論が始まっていることもあり、身近に感じられる叙述は多い。また、トマスの思考の筋道をたどることができるところまで読み込んでいることが察せられ、自ずから引き入られるようにも感じる。読み終わると、トマスがはるかに身近な存在になったと感じている。

 以上、著者のせっかくの緻密な読みに基づくトマス理解を、粗雑に要約したにとどまることをお詫びしたい。ただ、哲学とキリスト教神学を専門としない者にとっても、宗教に関心をもつものであれば、本書から大いに刺激を受けるところがあるに違いない。そのような仕方で、トマス・アクィナスの世界への入門を助けてくれたことに感謝の念を述べて、この拙い紹介文を閉じる。

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