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奥歯からオペラが聞こえる 第9回


中村昇


細胞と他者と牛について


 金沢舞踏館では、いろいろなことがあったが、そろそろ稽古に絞って思いだしていこう。まずは、前にも書いたように、犀川沿いに走ってから稽古が始まる。その稽古では、いろいろな形や動きを覚えなければならない。山本萌さんに、いろいろな形や動きを教えてもらう。

 つぎにどのような形や動きを覚えなければならないのか、わからないままに延々と稽古は続く。とても新鮮で、驚きの連続だった。山本さんが、目の覚めるような模範的な動きや形を見せてくれる。それを見よう見まねでやっていく。

 未知の動きや形が、つぎつぎとでてくるからだ。「歩行」によって、純化(脱色)された身体に、いろいろな形や色を加え塗っていくようなものである。透明な身体が、いろいろなものや形に生成変化していくわけだ。

 その稽古のなかでも、もっともきつく、それをやれと言われると憂鬱になった形(動き)があった。それは、「牛」と言われるものだ。あの牛の形と動きをやるのである。今回は、この「牛」について考えてみよう。

 その前に、そもそも「私の身体」とは、どのようなものだろうか。身体とは、ようするに物体であり、つまりは物質だ。それでは、<私>とは、どのような存在だろうか。意見の分かれるところだろうが、<私>そのものと物質(身体)とが同じだと考える人は、少ないだろう。少なくとも<私>は、同じではないと思う。

 そして、「器官なき身体」という概念を説明するところでも話したが、この身体(<私>が、密接にかかわっている物体)は、<私>自身がつくりだしたものではない。いわば最初からできあがっていた既製服(「既製身体」)だ。いつのまにか器官は、すでにいつも決まった形で分節化されていて、細胞も体毛も血管も爪も歯茎も何もかも、誕生した時から私の自由になるものではない。どんな人間でも、自身の「身近な」身体と長く否応なくつきあってはいるが、しかしそれは、いつまでたっても「私のもの」ではない。

 もちろんある程度は、日常の動作であれば、意識していない自然な動きを、われわれは滞りなくできるだろう。コップでコーヒーを飲んだり、鉛筆で文章を書いたりすることは、問題なくできる。ただ、もちろん「既製身体」にしたがった動きだけしかできない。腕の関節を逆に動かしたり、背後に全速力で後退したり、空を飛んだりはできない。

 それに、ちょっと疲れたり、思わぬ怪我をしたり、身体の一部が炎症を起こしたりするだけで、われわれの意思では、どうにもならない動きや痛みが、身体のなかで始まるだろう。「自由に思い通りに」は動けなくなる。

 当たり前のことだが、身体のそれぞれの部分や器官は、もともとそれぞれの都合や志向で、形をもち動き息づいている。とくに内臓や血管や大脳は、<私>とはかかわりなく、粛々と自身の仕事を進めていく。だから、そもそも<私>の意思通りには、身体は動いてはいないのだ。器官や部分だけではない。それらの部分や器官をつくりあげているもの、つまり「われわれの」身体を構成している37兆個の 細胞だって、それぞれ「勝手に」生きている。

 細胞に着目してみよう。たとえば、細胞と長年つきあった団まりなは、つぎのように書いている。


 私が本書で伝えたいことは、細胞が私たち人間と同じように、思い、悩み、予測し、相談し、決意し、決行する生き物だということです。(『細胞の意思』NHKブックス、2008年、61頁)


 もちろん、団も、こうした「擬人的な見方」が、大きな抵抗にあうことは、充分承知している。細胞が思い悩むことなんて、ないだろうし、ましてや、決意したりはしないだろうというわけだ。しかし、そうした抵抗、すなわち「科学的考え方」に対して、ガン細胞と始原生殖細胞とを並べて、団は、つぎのように説明する。


 たとえば私たちは、ガン細胞について、身体全体の秩序を乱し、勝手にあちこちの組織に入り込み、そこで勝手に増殖してしまう困り者だと思っています。つまり、ガン細胞については、その”内在的性質″をまったく素直に受け入れています。その理由は、おそらく、ガン細胞が、私たちの身体を滅ぼすという“人間サイズ″の機能をもつことによって、私たち人間と対等に向き合っているように感じられるからではないでしょうか。

 対する始原生殖細胞は、急に胚のある場所に出現し、やがてガン細胞のような性質に豹変して組織の中を歩き抜け、目的地に着くと再び性質を変え、周囲の細胞と協調して生殖巣を作り上げ、はては次世代の個体を生み出すというとんでもない重要な役割をはたす。このような七変化の性質を持つということだが、そんな途方もないこと、そんなあやしいことが、ちっぽけな細胞ごときにできるはずがない、と感じてしまうのではないでしょうか。(同書、75頁)


 どうだろうか。ガン細胞については、あたかも「意思」(内在的性質)があるかのように、われわれは思ってしまうのに、それよりもはるかに大きな変容や複雑な動きをする始原生殖細胞については、そのようには見なさない。そんなことが「できるはずがない」と断定してしまう。こちらの都合で、細胞をはっきり差別しているというわけだ。この矛盾を、団さんは、とてもわかりやすく指摘している。

 ようするに、われわれ人間の身体全体を損なう可能性のある細胞(ガン細胞)には、「意思」を認める。ところが逆に、われわれを損なうことがない、いわば、われわれの味方の細胞に対しては、「意思」を認めないというわけである。これは、どう考えてもおかしい。先入見なしに観察すれば、ガン細胞も始原生殖細胞も、いずれも、それぞれが、われわれからは独立した生物として生きていると考えた方がいいということになるだろう。

 団は、つぎのように結論を言う。


 始原生殖細胞が一匹の独立した生物であることは、培養下の彼らの行動を見れば明らかです。なぜなら、この培養実験は、どう見ても無生物を扱ったものではありませんから。「しかし、彼らは人間の助けなしでは生きられないではないか」という反論は当たりません。他の動物の身体を当てにして、それなしには生きられない多くの寄生生物に対して、「お前たちは生物ではない」と非難する人はありません。(同書、76頁)


 ようするに何が言いたいかというと、われわれの身体を構成する37兆個の細胞は、それぞれが、「一匹の独立した生物」であるということだ。いわば、われわれは、普段からそれとつきあっている「身近な」物体を、「自分自身の身体」だとつねづね思っているにもかかわらず、実は、それをつくりあげている個々の要素は、<私>の考えや意思にはしたがわない(あるいは、したがったり、したがわなかったりする?)「べつの生き物」だということである。しかも、その数は、37兆個もある。そうなると、<私>は、いつも37兆個の「べつの生き物」を抱えて生きているということになるだろう。

 つまり、これまでも確認してきたように、私の身体は、私にとって<他者>なのだ。いやいや、<他者>とは言っても、自分で自分の身体を動かしているではないか、という人がいるかもしれない。人間の身体には、随意筋と不随意筋があって、随意筋の方は、身体の持ち主の意思にしたがって動かせるだろう、という人がいるかもしれない。骨と結合して身体を支えている骨格筋(随意筋)は、自分の意思で動かせるんだから、不随意筋ならまだしも、随意筋まで<他者>というのは、言いすぎなのではないか、という人がいるかもしれない。

 ここでウィトゲンシュタインに登場してもらおう。この哲学者は、つぎのように言っていた。


しかし忘れてはならないことがひとつある。「私が自分の腕を持ち上げる」とき、私の腕が持ち上がる。そこで問題が出てくる。「私が自分の腕を持ち上げる」という事実から、「私の腕が持ち上がる」という事実を引いたら、そこに残るのは何か?(『哲学探究』621節、丘沢静也訳、岩波書店)


 もし、われわれの意思で随意筋を動かしているのなら、このウィトゲンシュタインの問に対する答は、「意思」ということになるだろう。果たしてそうだろうか。われわれは、自分の腕を「持ち上げる」ことができるのだろうか。「持ち上がる」だけではないか。つまり、何も残らないのではないか。

 つぎの節で、ウィトゲンシュタインは、こう言う。


 自分の腕を持ち上げるとき、たいてい私は、腕を持ち上げようと試みたりはしない。(同書、622節)


たしかにそうだ。腕は、「自然と」持ち上がる気がする。無理に持ち上げようと試みてはいない。「意思」は、どこにもない気がする。もし試みているのなら、その「試み」もまた、試みなければならないだろう。「腕を持ち上げようと試みることを試みる」のでなければならない。そして、その「試み」は、無限に続くだろう。

 「腕を持ち上げる」という言い方は、たしかにあるし、「意思」という単語も以前から存在していた。しかし、実際の「腕を上げる」現場を観察してみると、「腕を上げる」という行為と「腕が上がる」という行為に、さほどの違いはないように思われる。いかがだろう。こう考えると、随意筋も、とても「随意」とは言えなくなる気がする。「随意筋」と「不随意筋」の境目が、あやしくなるだろう。身体の<他者性>が、ここでもぬっと姿を現す。

 「牛」に戻ろう。そういう<他者>的な身体を使って(「使って」などという能動的な言い方は、もうできないかもしれないが、慣習にしたがった言い方をしたい)「牛」にならなければならない。それが、「牛」という稽古だ。「牛」の形と動きで、稽古場を何往復もする。汗の道が、小川のようにできる。

 ただ、腕は、前脚になるが、本物の牛のように、四肢を使って歩くわけではない。腕は、あくまでも形態をまねて、内側に丸める。身体全体を内側に凝縮させ、できるだけ丸くして、角があるつもりになる。後脚が、大地を踏みしめて歩く。大地に後脚を突き刺しながら歩く。「どす、どす」という音を意識しながら(実際に稽古場の床に足を突き刺す)前にゆっくり歩いていく。これが、「牛」の稽古だ。

 「腕を持ち上げる」のではなく、「腕が持ち上がる」ように、「牛の真似をする」のではなく、「牛になる」のでなければならない。意思的に「牛になろう」とするのではなく、事後構成的に「牛になる」のでなければならない。<他者>としての身体とつきあうというのは、そういうことだ。

 また、今回も、勝手なことばかり書いてしまった。次回も、「牛」の話がまだまだ続くと思う。たぶん。


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