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奥歯からオペラが聞こえる 第19回

  • 中村昇
  • 3 日前
  • 読了時間: 9分

中村昇

口肛空洞体・土管・ゴリラ



 アントナン・アルトーは、ロデースの病院から、詩人ルネ・ド・ソリエにあてて、つぎのように書く。


その精神において、まさに理性によって自分に分別があると信じる<私>が、一つの分別をもち、いつもそこに入りこんで支配するのです。しかし事物はそんな分別をもったことなどないのに、それはあらゆるもののうちで最も愚かなことに、この分別の醜い通路で迷うのです。あなたに言いたいのは、事物は分別などもたないし、ただ心の本能だけが事物を支配すると私は考えるため、八年前のある日、分別がないと見なされたということです。つまりあなたが意識で考えているように、またあなたの手紙を受け取った夜、あなたの意識が大声で繰り返したように、心の中には一万以上もの存在があり、《私》とは一つの存在にすぎず、別の存在があるということです。しかし人間はこのことを決して理解しないでしょう。——私に会いに来てください。私は本当に自由を再発見しなければなりません。(『アントナン・アルトー著作集 Ⅴ ロデースからの手紙』宇野邦一+鈴木創士訳、白水社、155頁)


 自分に分別があると錯覚している<私>が、分別という、えたいの知れないものを手にして、精神のなかに入りこみ、われわれを錯乱させる。分別こそ、この世界の「事物」群のなかで、恣意的で仮のものであり、たんにそのときどきのルールとして蔓延っているだけのものなのに、誰もがそれをもっているとすぐに騙されてしまう。

 こうして、本来であれば、一万以上の存在からなる複雑で豊饒で支離滅裂な生成消滅態(仮に《私》と呼ばれているもの)が、自由に他の存在とも多種多様な経験を通して密通し、絡まり合っているはずなのに、誰もそのことに気づかず、社会のなかでわかりやすい表層的なゲームだけを営み満足してしまっているということだろう。

 このアルトー的世界に、土方巽も生まれてからずっと住んでいたのはたしかなことだ。この連載でも、何度も確認しているように、土方という現象も、ひとつのわかりやすい<ひと>などというかたちや現われなどではなく、多くの存在や動物や虫や木々や液体や気体や副詞や形容詞や擬音語・擬態語に貫かれ、刻々と生成変化している状態なのだから。どろどろに融解しつづけ、ひとりでに漏れていき、いつの間にか爛れていく渾沌という名の多様体なのだから。もちろん、それは、世界そのものの本当のあり方であり、それに、余計な手をつけずに提示しているだけなのだが。

 さて、今回もまた『病める舞姫』のなかに、ずぶずぶと沈んでいきたいと思う。


 しょっちゅう腹に虫をわかし、虫も尻の管の辺りをゆっくり蠢いていた。ときには、尻の穴から出てくることもあった。(4頁)


 口腔から肛門へつづく、長く複雑な管によって、われわれは外界を内界へと導いている。われわれ人間存在は、たんなる外の世界が内側へと侵入し、さらに外側へと帰還するための管にすぎない。だから、この悠久で遥かなる管のなかに、多くの<他者>たちが蠢いているのは当然であり、それこそ正しい世界観なのだ。

 食物が口から入り、生成変容を繰り返し、最後にシルクロードのような腸の道をたどり、肛門や尿管を経て、みずからの故郷である外界へと帰還する。そして、そのような激しい往来のさなか、同時に微生物や虫もわれわれの内なる管に住みついていく。あるいは、管だけではない。身体を構成する多くの細胞のなかでも、無数のあらゆる生物が跳梁跋扈している。これは、いままでにも何度もしてきたはずだ。だから、アルトーも言うような「心」のなかだけではなく、身体のなかにおいても、何万もの、何億もの他者が自由に動きまわっていると言えるだろう。

 <管>は神秘的な直線であり曲線だ。この閉鎖空間を装うもののなかでは、何が起っても不思議ではない。口腔肛門管もまた例外ではない。それが外界と直接つながっていても、管内存在には、油断がならない。何がそこにいるのか、わかったものではない。

 そのような<管>に対するわれわれの畏敬や恐怖や憧憬の心情があるからこそ、藤富保男の「土」という詩も成立する。


土管のなかをのぞいて待っていた

   遂にゴリラが入ってきた


 この「土管」には、<管>がわれわれに喚起する存在論的な心情(畏敬、恐怖、憧憬)が充填されているといえるだろう。この詩を読めば、この「土管」が、ただの「土管」ではないことは、明らかだからだ。だからこそ、「遂に」ゴリラが入ってくる。もともとゴリラが、この「土管」に住んでいたというわけではない。この<管>は、ゴリラを「最終的に」(遂に)導き入れるような慎み深くも大胆な深き存在者なのである。

 さらに余計なことを言えば、入ってくるのは、虎でもなく蛇でもなく、ましてや鰐でも猫でもない。まさしく入ってくるのは、ゴリラでなければならない。ゴリラのもつ存在論的独自性、動物として他の種に決して交わらない、唯一無二の独自なあり方こそ、<管>にはとてつもなく相応しいものなのだ。野蛮でもなく、だが紳士というほど上品でもないゴリラ。

 このように考えれば、土管(象徴としての管)とゴリラ(象徴としての管内存在)との存在論的昵懇関係は、奇跡的と言ってもいいだろう。


 閑話休題。


 土方は、そのような管をつぶさに観察し、叙述しつづける。身体、精神いずれもの内界のカオス(あるいは、管としての外界包摂態そのもの)を、独自の角度から見つめつづけている。このような、われわれの世界のなかの(誰も注意を向けない)結節点に、土方の視線は、執拗に降りそそがれていく。

 腹のなかには虫がいる。尻の管の辺りを蠢いている。自分の身体のなかにある外界の通路である管で、虫は縦横に行き来している。この虫は、いわば私の<身内>なのだ。こういう<身内>が、われわれのなかには、一万以上、あるいは何億といるということになるだろう。

 そして、実は、この<身内>は、身体のなかにいるだけではなく外界にも広がっている。外界を、管を通して、みずからの<身体>にしてしまっているわれわれは、今度は、その外界すべてを管ごと自分のなかに包みこんでいることになるからだ。

 だからこそ、土方は、つぎのようにいう。


裏の畑の青物を食べすぎたせいであったろうか。また炎天下を走り過ぎてそうなったのか、しょっちゅう熱を出して、赤いものや、青いものを吐いていた。大人達は、「こりゃ、えたいの知れねえ熱だ。」と言うのであった。(4頁)


 外界と内界は、つながっている。というよりも、そもそもその境界は存在しないと言ってもいいだろう。われわれの身体を構成する物質も外界を構成する物質と同じ原子構造をもち、同じような化学反応をし、同様の崩壊過程をたどる。ただ、たまたま人間の身体という<動的平衡>が、ここで成立しているだけなのだから。何万もの他者の住処として、この人間の身体という<動的平衡>は、流れる砂の城をかたちだけ維持しつづけているということになる。

 だから、私は、そもそも裏の畑ともつながっているのだし、だから青物を食べるという行為は、裏の畑を自分のなかで通過させているだけなのだ。炎天下を走るという行為は、炎天のなかで心地よく溶けてしまうための儀式だと考えればいいだろう。分別のある人間は、炎天下はむやみに走らない。自分の<私>を<私>という境域のなかで守りつづけるために、炎天下で、他の物質の一部になる(溶解という事態)ことを極度に恐れるからだ。

 しかし、そうした一部のものわかりの悪い<私>(分別)など歯牙にもかけない幾万もの<私>たちは、平気で炎天下を走るだろう。溶解することこそ、本来の姿だと思っているからだ。そして、熱を出し、赤いものや青いものを吐く。熱を出し、平穏な共同体(平熱社会)の特異点となり、物質どもにアピールし、外界とより強く結びつこうとし、赤や青といった異様な原色を自然界に撒き散らし、その激しい吐瀉物により、自分も外界とつながっていることを証明しつづける。

 このような外界とのエネルギー交換の儀式、あるいは溶解の宴は、幼い土方の目には、ごく当たり前の日常として映っていたにちがいない。つまり、そういう世界の流動状態が常に目の前にあったということだ。だから、少年土方の豊潤な流動世界に気づかない「大人たち」は、「こりゃ、えたいの知れねえ熱だ。」などととぼけたことをいう。「えたいの知れなさ」こそが、この世界の真相であり、「えたいの知れない」外界と内界との交流が刻一刻なされていることに気づかない大人たちにとっては、どうにも手のつけられない事態なのだ。

 だが、土方にとっては、それは、この世界の真のあり方であり、世界そのものからの日々の高貴な贈物のようなものなのだ。世界と自分は、たしかにつながっている。つながっているどころが、私は世界のなかに、その一部としてあり、世界と私は、そもそも区別などできない(分別なき)同じ一つの状態なのだ、というたしかな思いを、少年土方は、いだくのであった。

 だから、つぎのようにいう。


そう言われてみると、俺は何かに守られているのだという安堵感が、私をさらに虫の息に近づけるような、そういった塩梅の膨れ方をしていたのである。(4頁)


 分別のある大人たちが、「えたいの知れねえ熱だ」というからには、土方(あるいは、土方のなかに住む少年)にとって、それは、とてつもない僥倖を告げる知らせになるだろう。だからこそ、「何か」に、つまり「えたいの知れないもの」に守られているという安堵感が生まれてくるのだ。自分がこの世界と恒常的につながっているあり方(これが、のちに暗黒舞踏に生成変化していく)が、方法として間違っていなかったという安堵だろう。

 もちろん、土方内少年には、それは、一つの漠然とした思いでしかなかっただろうが、のちの土方を見れば、それは、たしかな出発点だったと言わざるをえない。そして、この安堵感は、「私をさらに虫の息に近づける」のだ。さらに虫の世界に(管のなかの虫たちの世界に)、そして「虫の息」の世界に、つまり、死と生がいつでも融通無礙に溶け合っているあわいに近づけるというわけだろう。

 そういうあり方で、土方内少年と世界とは、より密接に、より複合的にかかわりを結んでいったのである。つまり「膨れ方をしていた」のだ。だからこそ、つぎのような不思議な結論を述べる。


どんな災難もあっさり解決してしまうような性癖や、惰弱で無意志に近いものの芽が、からだに吹き出るようだった。(4頁)


 われわれは、分別をもち、自分の意志で能動的に生きているかのように思い込んでいる。しかし、アルトーもそう言ったように、そんなものは、まったくの錯覚であり、勝手な思い込みだ。土方の文章は、最初からそういった世界とはばっさり縁を切っている。虫や青ものや熱エネルギーと、口肛空洞体という土管である私とは、そもそもの始原からずっと、何の区別もないのだし、同じ自然の、同じ物質の、同じ動的平衡の一時的な形成物にすぎないのである。

 だから、災難を「災難」として分析し対処したり、何かを意志的に遂行したりするなどという勘違いは、どこにも見つからない。災難は災難として生起することはなく、未然に解決される(災難などという現象はそもそも存在しないというかたちで)だろうし、われわれは、かぎりなく弱く、微細な意志ですらどこにも見当たらない細胞によって、全身が、そしてすべての精神が覆われているのだ。徹底して虚弱で、ほとんど空虚や無に近い身体や精神の芽が、つねに口肛空洞体としての土管には吹き出ているというわけだ。


 こうして土方の文章を丁寧に、そしてかなり恣意的に(!)読み進めていくと、やはり想像を絶する異形の世界に、この舞踏家は住んでいたことがわかるだろう。こういう世界にたたずんでいた土方には、どんな人物も比肩することすらできないような底の知れない静かな迫力がある。矛盾そのものであるような「普遍的特異点」として土方巽は、いつも微細に振動しつづけている。

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背景画像:「精霊の巌」彩蘭弥

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