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奥歯からオペラが聞こえる 第16回


中村昇

『病める舞姫』のなかへ



 アントナン・アルトーを、この土方論のなかに自然に入れようと悪戦苦闘したが、うまくいかなかった。アルトーはアルトーで、強く個性を主張するので、それはまたべつの機会に(この連載においてか、あるいは、まったくべつの機会に)、ちゃんと準備をして論じるしかないだろう。

 そこで、今回から、この連載の最終目標だといっていた『病める舞姫』というおそるべき書物にゆっくりとはいっていこうかと思う。もう正面から、土方巽に対峙しなければならない時なのだろう。

 土方の思想のエッセンスや諸相は、これまでいろいろな角度から論じてきたつもりなので、それらを背景にして、土方の舞踏論(思想)の頂点をなす傑作『病める舞姫』を、内側から読み進めてみたい。くだらない私自身の先入見などなるべく入れないようにして、土方自身が、本気でこの本を書いた(韜晦や誇張なしで)という前提で、文章に寄りそっていきたい。そして、『病める舞姫』の外側の視点になるだけ立たないようにする。この本の内部宇宙で、すべて片をつける。つまり、余計な分析やつまらない知識で説明したりしないということだ。ようするに、誰でも理解できる論理や常識などが邪魔をしないように注意していきたい。

 とにかくじっくり読んでいこう。土方の声に純粋に耳を傾けよう。

 まずは、冒頭部分から。


「そうらみろや、息がなくても虫は生きているよ。あれをみろ、そげた腰のけむり虫がこっちに歩いてくる。あれはきっと何かの生まれ変わりの途中の虫であろうな。」(引用は、白水Uブックス版、1992年、3頁)


 最初は、いきなり誰かのセリフだ。何の説明も、何の前触れもなく、誰かがこちらに話しかけている。なぜだか、虫を見ることをわれわれ(あるいは<私>)にうながす。そして、その虫の特徴は、つぎのようなものだ。

 息がなくても生きている虫。この虫は、おそらく呼吸をするというわれわれ人間(あるいは、それに類似の存在者)の世界とは異なる次元で生きているものたちだろう。息をしないで生きている虫たちは、息をして生きているわれわれとはあきらかに異なるからだ。息をする、しないという区別、さらに(おそらく)人間の身体と節足動物の身体とのちがいによって、まったき「他者」として、「息をしない虫」が、まず姿を現す。あるいは、冒頭から誰かの話のなかに、そのまったき「他者」が、突然登場している、と言った方がいいだろうか。

 そして、その虫は、さらに「そげた腰のけむり虫」だという。虫に「腰」があるかどうかはわからない。しかし、もし虫に腰があったにしても、その腰は、「そげている」のだから、(おそらく)まともに歩くこともできない虫だ。ただ、その「そげた腰」の虫は、「けむり虫」なので、固体としての身体をもっているわけではない。気体状の虫なのだ。だから、そもそも歩けるかどうかも、実はよくわからない。

 腰はそげ、その身体は、気体(けむり)であるような虫。ところが、それは、歩けるかどうかもよくわからないのに、なぜか「こっちに歩いてくる」。そげた腰の気体状の虫(それを「虫」だと同定できるかどうかも疑問だ)が、いかなる手段をもってしてか、どのような形態によってなのかは不明だが、「こっちに歩いてくる」のである。

 そして、種明かしがされる。その正体不明の「こっちに歩いてくる虫」は、「何かの生まれ変わりの途中の虫」なのだ。あくまで「途中」であるということ。しかも「生まれ変わりの途中」だということ。それが、われわれに向かって「歩いてきている」のである。これは、いったいどういう事態なのか。

 この世界は、たしかに「途中」で満ちみちている。というよりも、「途中」しかない世界だ。すべてのものが流動しつづけ、一瞬たりとも完成された形態や状態で佇んでいるものなどない。森羅万象は、動きつづけている。(視覚能力に限界のある)われわれには静止画のように見えるこの世界も、実は生々流転しつづけるプロセスにちがいない。これは、ベルクソンやホワイトヘッド、あるいは、昔からヘラクレイトスが、言っていたことだ。つまり、この世界は、すべて「途中」なのである。

 もし、ここでいう「生まれ変わり」を、輪廻転生のようなもの、つまり、この世とあの世との永劫につづく流転のようなものとしてとらえないならば、この「生まれ変わり」は、世界のダイナミックに変容する流動状態を表現していると言えるかもしれない。つまり、この世界の事物や出来事は、「生まれ変わり」続けているということだ。一瞬も自己同一性を保持せず、つぎつぎと新たな状態に変容して(生まれ変わって)いるということだろう。

 このように、すべての現象がつぎつぎと新たに創造され続けているというのが、この世界の実相なのであれば、この世界のあり方は、恒常的に「何かの生まれ変わりの途中」であると言えるだろう。おそらく土方は、この導入部で、このうえなく異質で奇妙なイメージを駆使して、われわれの世界の真のあり方を、たったの二行で言挙げしているということになるのではないか。

 しかし、なぜ「けむり虫」なのか。さらに見ていこう。

 これは、誰かの言葉(セリフ)であり、しかも、そのセリフを言う人物が見ていて、同時に<私>に見ろと、うながしているのは、われわれ人間とは明らかに異なる呼吸のない次元にいる気体状の虫である。こうした特殊な節足動物の世界を記述することに、どんな意味があるというのか。

 セリフのあとには、つぎのような文が続く。


言いきかされたような観察にお裾分けされてゆくようなからだのくもらし方で、わたしは育てられてきた。(頁)


なるほど。最初のセリフは、<私>を育ててくれた何ものかの言葉なのであった。この尋常でない虫について説明する何ものかは、<私>に言いきかしているというわけだ。「言いきかされたような観察」というからには、説得されることによって、この特殊な世界へと次第に入っていく(イニシエーション)ための観察内容を表しているということになるだろう。

そして、この観察に、「お裾分けされていく」のは、(おそらく)<私>の「からだ」であり、この不思議な観察によって、その「からだ」はくもらされていくのである。つまり、呼吸とかかわりのない次元にいる腰のそげた気体状の虫(しかし、この虫は、われわれの世界の恒常的流動状態をも、ある意味では表している)のあり方によって、こちらの身体は、曖昧にくもらされていく。言ってみれば、固体が気体状のものへと変成しはじめるような(氷が一気に水蒸気に昇華するような)感覚を抱かざるをえなくなる、といった仕方で、<私>は、「育てられてきた」と土方は言っているのだ。

言ってみれば、共同体の常識的世界観、物理や数学や法律や国家や、はたまた隣近所の関係性や親のもつ先入観によって形成されるような図式に絡めとられるまえに、土方は、このようなセリフを吐く何ものかに「育てられてきた」わけだ。別次元の、しかし、この世界の真の流動状態を体現しているような「けむり虫」の生態を観察しつづけるように教育されてきたということになるだろう。

このような「育てられ方」が、この連載で、いままで語ってきた暗黒舞踏の本質の体得と密接に関係していることは、容易に理解できるだろう。われわれの世界を構成している既成の堅固な意味の網の目を破り、有用性や社会の秩序の基盤となるような常識や先入見を微細に壊していくというのが、舞踏の基本姿勢なのであるから、その姿勢や志向が、ここで全面的に展開されていると言えるだろう。

最初のセリフを吐いているのが、誰であるのかは不明だが、おそらく土方を舞踏へといざなった何ものか(もちろん、特定の人物などというありふれたことを言っているわけではない)のセリフであることはたしかだ。だから、土方がここで言っているのは、自分にとっては最初から、こうした暗黒舞踏への導きが、日々の生活のなかに潜在していたということだろう。

さらにつぎのように続く。


からだの無用さを知った老人の縮まりや気配りが、私のまわりを彷徨していたからであろう。私の少年も、何の気もなくて急に馬鹿みたいになり、ただ生きているだけみたいな異様な明るさを保っていた。(3頁)


 さて今度は、その視線は、昆虫の生態から人間界へと向けられる。たしかに若い頃は、身体は、社会秩序や生活の有用性に見合った動きを難なくすることができる。電車にさっと乗り、人混みをかき分け、パソコンを縦横に操作する。しかし、歳をとるにつれ、そのような有用で秩序だった動きが思うようにできなくなる。からだが無用さに近づいていくのだ。有用性の連関に支配され有益さだけを追究する社会から脱臼していくのである。そして、ただ重いだけの無用な身体に往生している老人になる。いよいよこうして、重力に支配されているだけの「もの」になることによって、縮まり、気配りだけの(「気配」だけの?)存在になってしまう。そういった老人たちの気配が、私のまわりを彷徨していたのであり、それが理由で、われわれとは世界を異にする節足のものたちの観察にお裾分けされもしたのだし(もしかしたら、最初のセリフは、この老人たちの一人のセリフでもあったのかもしれない)、<私>自身、つぎのようなあり方もしていたのだろう。この「彷徨していたから」の「から」は、前後の文の両方に、横断してかかっているかのようだ。前後の文の二つの理由が、一文で一気に述べられている。

 「私の少年」とは何か。土方のなかには、「死んだ姉」も住んでいたが、実は、「少年」もいる。『病める舞姫』のなかでは、この「少年」は、さまざまに変容し、ときどきぬっと現れる。土方は、常識的人間たちのように、ひとりで存在しているわけではない。いや、常識的人間たちだって、本当のところは、一人ではないのだが。

土方は、姉と一体化しつつ、同時に分裂もしている。この少年も、土方のなかに住み、土方と特別な関係をもっている。『病める舞姫』において、人間は(もし「人間」などという大雑把なカテゴリーが通用するとすれば)、多重なあり方をしている。いわば、「多重人格的自己同一」とでもいえるあり方をしている。だから、「私の少年」は、「私」でもないし、「私の少年の頃」というのでももちろんなく、「少年」自身というのでもない。あくまでも土方が書いているように、「私の少年」なのである。

 そして、この「私の少年」は、「からだの無用さを知った老人の縮まりや気配りが、私のまわりを彷徨していたから」、つまり、世界は、有用性や社会秩序によって成りたっているわけではないことを日々思い知らされているから、何かのために生きるとか、社会のなかで誰かと安定した関係を続けるとか、とはまったく隔絶した場所で生きていく。つまり、「馬鹿みたいになり、ただ生きているだけみたいな異様な明るさ」をもった、とことん無意味な存在であり続けるのである。急に意味もなく変化し、ただただ生きているだけの存在なのだ。

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