top of page

奥歯からオペラが聞こえる 第17回


中村昇

吉岡実、三島由紀夫と、土方巽について



 土方巽とは何者なのか? 今回は、『病める舞姫』読解の前に、土方の舞踏に強く魅かれた吉岡実と三島由紀夫の話をしてみたい。まずは、吉岡から。私が最も好きな吉岡の詩のひとつである「過去」の目くるめく後半部(『吉岡実詩集』思潮社)を引用してみよう。


その男はすばやく料理衣のうでをまくり

赤えいの生身の腹へ刃物を突き入れる

手応えがない

殺戮において

反応のないことは

手がよごれないということは恐しいことなのだ

だがその男は少しずつ力を入れて膜のような空間をひき裂いてゆく

吐きだされるもののない暗い深度

ときどき現われてはうすれてゆく星

仕事が終るとその男はかべから帽子をはずし

戸口から出る

今まで帽子でかくされた部分

恐怖からまもられた釘の個所

そこから充分な時の重さと円みをもった血がおもむろにながれだす


 映画のワンシーンを見るような構成美であり、多くのイメージや物語がたたみこまれた凍りつくような画像だ。ある種の詩の完成された姿だと言えるだろう。

 あるいは、三島由紀夫の『豊饒の海』の有名なラスト。第一巻『春の雪』であれだけの恋愛をした相手をまるごと忘れている綾倉聡子のいる月修寺の庭の描写だ。三島が市ヶ谷で自裁する直前に脱稿した部分である。


 これと云って奇巧のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠を繰るような蝉の声がここを領している。

 そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。

 庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。……


このラストを書くために、『豊饒の海』全四巻は書かれたと言っても過言ではないだろう。最後の一行から逆算して書く三島なのだから。比類のない構築物であり、とてつもない才能だと言えるだろう。

 これらの精緻な詩や小説の描写や構成には、心の底から震撼させられる。もし、ここに<美しさ>がなければ、少なくとも私の世界のどこにも<美>は存在しないだろう。詩や小説の極致だと、少なくとも私には思われる。

 しかし、これら美の極北にいるとも言える二人の詩人と小説家とは、まったく異なる地点に土方は立っていると言えるのではないか。これら詩や小説の完成形とは異なる世界の住人なのではないか、土方は。この舞踏家は吉岡実の詩についてつぎのように書いている。(『吉岡実詩集』の裏に)


私はこれが「全部書かれたもの」なのだという恐怖をまず抱いてしまうのだが、技芸の心棒に廻る苦痛の容れものと、吉岡実の詩一個を買い求める関係は、強烈なリアリティに結びついてくる。比類のない凄惨な眼球によって詩刑に処せられるものは、剝製にされた光りの間に置かれる音楽や絵の器であり、身ぐるみ剥がれる万象の姿態から、その始まり、その羞恥にまで及んでいる。蒸留される幻もここでは硬く艶やかである。一挙の超越が切り結ぶ実像がここに置かれて、一切の狼藉は跡かたもない言葉の輝く卵である。


 作品を作品として評価するのでもなく、吉岡自身について語っているわけでもない。吉岡実の詩という現物を、正確さや構成や技術といった観点とはまったく異なるところから一気に語り尽くす。吉岡実と吉岡の詩がぐじゃぐじゃになって、最後に卵がひとつ輝いている。これが土方巽なのだ。あるいは、強い意味をこめれば、これが<真の舞踏>だと言ってもいいかもしれない。

 土方にとっては、訓練や技術などということは、二次的なものであり、必要であれば、後からついてくるだろうし、そもそもこちらから何かを自由に手にできるわけでもない。土方には、つねに最初に<存在そのもの>がある。あるいは、呪われた自分自身や逃れられない宿痾としか言えないようなものが、いつもすでに<ここ>にあったにちがいない。土方は、それと恒常的に向かい合っているものだから、技術や訓練に逃げるわけにはいかないのだ。

 土方を見ていると、他の多くの舞踏家や詩人たちが、訓練や技術や体系といった通り一遍のわかりやすい世界にしか住んでいないことが瞭然とする。この人たちのなかで土方を眺めると、この男は、一個の異物として呆然と、しかし同時に、傲然と屹立して佇んでいるように見えるのだ。

 土方巽は、詩人でもないし、ひょっとしたら舞踏家でもない。<唯一無二の異物>としか言えないようなものだ。似ている存在をあえて探せば、やはり、アントナン・アルトーやフィンセント・ファン・ゴッホということになるだろうか。

 私の最も好きな詩人である吉岡実や、最も敬愛する作家である三島由紀夫を最初に挙げたのは、<この異物>のいない地平においては、この人たちが最高峰の存在だと思っているからだ。

 さて、この異物は、『病める舞姫』でどんな世界を展開しているのだろうか。前回に続いて、さらに見ていこう。


そのくせ、うさん臭いものや呪われたようなものに視線が転んでいき、名もない鉛の玉や紐などに過剰なほどの好奇心を持ったりした。鉛の玉や紐は休んだふりをしているのだと、スパイのような目を働かすのであった。(『病める舞姫』白水Uブックス、3頁)


 私のなかの少年は、「ただ生きているだけみたいな異様な明るさを保って」(同書、3頁)存在している。この少年は、だから実にすがすがしい存在(何といっても、純粋な「少年」なのだから)であるはずなのに(「そのくせ」)、あきらかに大人や分別あるものたちにとっては、うさん臭く呪われたもの(何の役にも立たないガラクタ)に興味をもち、ハイデガー的な「世界」のなかでは、何ものでもなく誰も手にすることはないような鉛の玉や紐に異常に関心が向くのだ。

 私のなかに住む少年は、多くの人に見捨てられた鉛の玉や紐は、実は、とても働き者で密かに「世界内存在」のために役に立っているのに、わざと「休んだ振りをしている」と思っている。われわれのまわりにいる物質たちが本当は生きていて、だが、生きていることがばれてしまうと、われわれ人間どもに余計なことをされかねないので、「死んだ物」として、じっとしているだけだと「私の少年」は思っているのである。

 接続詞や擬音語が、われわれと同じ存在として跳梁跋扈する世界に生きている土方にとって、人が多重化し(少年や姉が自分のなかに住む)、外界の生物・非生物と恒常的に地続きの状態になっていることなど造作もない。そうした世界こそが「普通の」世界であり、そこからすべては始まっている。『病める舞姫』は、その混濁融合した状態を内側から記述しつづけているのである。

 

 私は魚の目玉に指を通したり、ゴムの鳩を抱いた少女に言い寄ったりして、それからそれと生きてきたが、いつも実のところ脈をとられているような気分で発育してきた。(同書、3頁)


 私は魚の目玉に指を通し、ゴムの鳩を抱いた少女に言い寄る。魚の目玉とゴムの鳩を抱いた少女は、私にとって、全く同等の対象であり存在だ。魚と目玉との関係は、少女とゴムの鳩との関係と同じようなものだと考えてもいいだろう。魚は目玉をもち、その目玉に私は指を通すことができる。私は、少女に言い寄っていると思い込んでいるが、実は、ゴムの鳩の方がお目当てなのかもしれない。なぜなら、目玉とゴムは、その表面の材質が似通っているし、鳩にも目玉はあるからだ。ほんとうのところは、私はゴムの鳩の目玉に指を通し、魚の少女に言い寄っていたのかもしれない。こうして、もろもろの対象は融合していく。

 もしかしたら、少女とゴムの鳩との関係は、私と少年との関係に似たものである可能性も捨てきれないだろう。ゴムはもちろん生物ではないが、この世界では、すでに生物―非生物の垣根は取り払われているのだから、「ゴムの鳩」は、私のなかの少年と同じように、ぷよぷよした生きた鳩なのかもしれない。私が魚の目玉に指を通すことと、少女に言い寄ることは、こうして生物と非生物、私と他者、ゴムと鳩、目玉と少女の境界線を無効にしていく。何もかもが、鮮明さを失い、分節という働きそのものが、最初からなかったかのような渾沌とした渦巻へと溶けていくのである。これが、土方の世界だ。

 こうした世界のなかで、さまざまな行為をわれわれはおこなう。指を通し、言い寄ったりもする。しかし、こうした一見能動的におこなったかのような行為は、「実のところ脈をとられているような気分」なのだ。つまり、われわれは幼いころから、根源的受動性のなかで生きてきた。脈をとられて「発育してきた」のである。土方の生きている世界は、自分自身の能動的な力で、さまざまなものが動いていくわけではない。われわれには、誰もが重い肉体がある。その肉体には、肉体なりの事情がある。われわれが肉体を「持っている」わけではない。日々われわれは、肉体に「脈をとられている」。

 だからこそ「からだの無用さを知った老人の縮まりや気配り」(同書、3頁)が彷徨しているのだ。人はいつでも、気を抜くと、肉体の重みに打ちひしがれてしまう。無用の身体の餌食になるのだ。われわれのまわりには、身体だけではなく、いかんともしがたい頑固なものたちが存在している。鉛の玉や紐や魚の目玉やゴムの鳩は、われわれの目を盗んで、何をしているのか、わかったもんじゃない。「私の少年」でなくとも、「スパイのような目を働かす」のは、当然だろう。

 こういう世界で、土方は、息をひそめて生きてきたのだ。だからこそ、自分から何かを始めるなどということは、思いもよらない。いつも周りのものやごった煮の環境に「脈をとられて」生きているのだから。


私は雪にしょっちゅう食べられかかっていたし、秋になれば、ばったにも嚙まれた。梅雨時は鯰に切られ、春先にはざくらっと川に吞まれたりして、自然に視線が、そういうものに傾いていったのであろう。(同書、3-4頁)


 雪だるまを作ったり、雪の上を滑ったりなどとんでもない。雪はあくまでもこちらを食べるものであり、そこら辺にいる人間よりも遥かに恐ろしい存在なのだ。ばっただって捕獲したり、食べたりするものではなく、こちらを噛む存在であり、その動きをこれぽっちも予測できない昆虫なのである。鯰もいれば、川も流れている。脅威や恐怖が刻一刻とわれわれをむしばみつづける。そして、土方は、なぜかそのような脅威や恐怖に目がいってしまう。だからこそ、


塩鮭を板で叩いたり、炎天下のリヤカーを眺めたり、ガラスに凸凹のある薬瓶を懐かしがったり、いちぢく浣腸を使っているらしい人を訝しがったりした。(同書、4頁)


 このように自分から周りのものに積極的に働きかけ(塩鮭を板で叩く)、周りに影響を受けず堂々としていたり(リヤカーを炎天下で眺める)、自分の世界にひたったり(薬瓶を懐かしむ)、体調を整えたり(いちぢく浣腸を使う)する人たちを、心底訝しがるのだ。あんな風にこちら側から、周りのものや世界にかかわることができるのは、何と面妖なことだと不思議がる。土方のいる世界が、いろんな意味で、われわれ(少なくとも私)の世界とは、ずいぶん異なっていることがわかるだろう。

 こういう、どうしても越えることのかなわない深淵の向こう側に、土方巽は住んでいる。だから、吉岡実や三島由紀夫がいくら天才だとしても、それはたかだかわれわれの世界の“それ”(天才)に過ぎないと言えるだろう。たしかに彼らのおそるべき構築美やしたたり溢れる底知れなさに震撼させられるにしても。

Comments


Commenting has been turned off.

背景画像:「精霊の巌」彩蘭弥

© 2022 なぎさ created with Wix.com

bottom of page