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奥歯からオペラが聞こえる 第24回

  • 2 日前
  • 読了時間: 10分

中村昇

「水屋」の世界


 今回から土方巽の世界を、最後にまとめてみたい。ひとつひとつの文をゆっくり解きほぐすのは、またの機会にして『病める舞姫』全体がどのような場所で展開されているのか叙述してみよう。 

 われわれは、ひとりひとりが、それぞれまったくちがう世界を生きている。それは、われわれの構造上仕方のないことであって、誰も他人の世界を直接覗きこむことなどできない。ただ、多くの作家や芸術家と言われる人たちが、自分自身の世界をそれなりの形でわれわれに示してくれる。たとえば、デヴィッド・リンチの謎が多重に塗りこめられ知覚が変容する世界、デヴィッド・バーンの震動し屈曲しつづける世界、草間彌生の細胞やミトコンドリアや模擬果物が繁茂する世界、ゴッホの歪み輝く黄色の世界などなど。これらの世界は、われわれが共有しているとそれぞれ勝手に錯覚している世界とは明らかに異なる。だからこそ、多くの人たちが興味をもってその世界へ赴くのだ。 

 そして土方の宇宙も、われわれが勘違いして共有していると思いこんでいる土壌とはかなり異なる独自の世界だ。それを少し探っていきたい。 

 われわれは(少なくとも私は)固体的な世界を生きている。地球という大地も(ものすごいスピードで自転、公転しているにもかかわらず)不動であり、固定している。他のさまざまな周りの事物も固体として存在しているように私には見える。液体もあれば気体もあることは、重々承知しているが、それらの状態(液体や気体)を基盤にして生活したり思考したりはしない。少なくとも私は、自分自身の生活や思索は、固体的な事物、固体的な概念群、固体的な言語(以前「塊性」と呼んだもの)によって織りなされている。私の世界は、基本的に静止画であり、恒常的に流れたり溶けたり変容したりはしていない。もちろん、運動や流動も存在してはいるが、それは固体的なものを基盤としている。つまり、安心できる確実な固体を礎にして、さまざまなものが動いているというわけだ、少なくとも私の世界は。 

 しかし、土方巽はどうだろう。『病める舞姫』で描かれている世界は、そんなわかりやすいものではない。どこにも固定点がなく、どの存在も自己同一をたもつことができず、流れ変化し溶けていく。どう考えても固体を基盤にした世界ではない。このことを少し書いてみたいというわけだ。もちろん、いままでだって、<それ>を書いてきたつもりではあるが……。 

 『病める舞姫』という世界の中心地は、「水屋」である。「水屋」は、その名通り、液体と密接につながる場所である。この「水屋」とは、おそらく土間にある台所のことだろう。われわれの固体的世界の象徴とも言える家(安心できるわが家=固定点)のなかで、唯一いつも液体が流れつづけている(あるいはその可能性がある)場所とでも言えるだろうか。 

 いわば土方は、液体から出発し、液体のまわりで世界を創りつづけているのではないか。なにしろ『病める舞姫』全篇で十五回も「水屋」は登場するのだから。いくつか見てみよう。 

 

絹の糸を恐がらぬようになるまで私は長い年月をかけたし、水屋に立って荒い息を吐きながら、使いものにもならない二つの乳房をたらしていた女を、美しいものだと認めるのには、これもまた、さまざまな屈折を重ねてきたのである。 

いろいろなものが、輪郭をはずされたからだに纏いつき、それを剥がすと新しい風が印刷されるように感じられたが、風の方でもまちがいを起こし、私もまたあやまちを重ねただけにすぎなかったのだろう。(『病める舞姫』9頁) 

 

 普通は誰も恐がったりはしない「絹の糸」に対する底知れない恐怖を手なずけるために長い年月をかける。さらに、土方界の中心である「水屋」で、二つの乳房をたらした女を美しいものだと見なすために、多くの屈折を重ねてきた。土方独自の世界におけるものの見方のある種の錬磨の様子だと言えるだろう。これは、もちろん秘密の行であり、何の意味もなく何の役にも立たないトレーニングなのだ。土方の世界では、あらゆる事物が、輪郭が曖昧になったからだにまとわりついてくる。私のからだは、輪郭がなくなっていくのだから、周りに浸食されるのは当然だ。しかし、その周りの輪郭をなくすものどもを剥がし新しい輪郭を手にしようとし自己同一性を堅持したかに思う(新しい風の印刷)が、しかし残念ながら、それは、お門違いもはなはだしい錯覚なのだ。そんな抗いには、何の力もない。 

 こうして土方界の中心「水屋」では、密かな錬磨やからだの輪郭のたがはずしが起こっている。輪郭が曖昧になり、あらゆるものが浸透し合っていく。この世界では、いつも、無意味で底の抜けた出来事が渦巻いているということだ。 

 「水屋」の影響で、この世界には、あらゆる場所に、あらゆる局面に水が存在している。 

 

家の中はまるで風邪声で歌っているようになっていた。板の木目がはっきりと目立ってきていた。私は水屋の甕の中の水に鎌で切りつけてその断面に血縁を感じとっているのだった。(57頁) 

 

 甕の中の水を鎌で切りつけ、その断面に血縁を感じる。つまり、水の断面に自らの血族の流れを見てとっているのだ。やはり、水と私は深い縁(えにし)でつながり、それはもちろん、家、そして世界全体のあり方に甚大で深遠な影響を及ぼしている。「水縁」という流れつづける縁起によって、世界は関係し合っているということなのだろう。 

 もちろん、家のなかの水屋と外を流れる川は、つながっている。液体によって、家の中と外は、いわば流続(りゅうぞく)している。 

 

私は立ちあがり、土間を流れる浅い川を渡って行き、大きな鼾が聞こえてくる時間を跨いで水屋のなかを覗き込むと、誰かの形見のように箸が流しに浮いていた。水の中で密談をしながら暮らしたがっている私には、夏座敷のなかを寒がって歩いている人がよく見かけられた。(83頁) 

 

 「私」の理想の生活は、やはりと言うべきか、水の中での密談をしながらの暮らしだったのだ。だからこそ、密談の相手は、夏も水の中で始終暮らしているために、「寒がって歩いている」のである。すでに座敷は、どっぷり水の中にあるといっても過言ではない。 

 この水の中の暮らしにおいては、空間が液状化し、夏に寒流が流れているように、時間もまた、当然のことながら液状化している。 

 

急に目が見えなくなり足腰をなくしてひやっとした土間で先祖のようなものを追っかけている私が浮かんでくる。その土間には、腐木のそばを流れる川の音や薄暗い滝のようなものが、天井から落ちていた。土間のなかで追っかけられている先祖の姿は、変哲もない鶏の姿だった。私の指は、こうしたまわりの空気にほどけて物を摑まないで暮らしている処へ押し出されていった。私は人の身体に重ね合わせようとした物体とも別れ別れに暮してきてしまった最初の景色のようなものを手がけていたのかも知れない。(88-89頁) 

 

 時空の液状化にともない、目が見えなくなり足腰もなくす。天井から滝が落ち、先祖は鶏の姿になる。進化史を逆流したのか、鶏に先祖が憑依したのかは見当もつかない。そして、私の指は、舞踏の第一歩である「ものぼけ」(物を自然につかむことができなくなり)し、物質としての身体との重ね合わせもままならない生命の原始の風景へと引き戻される。時空の液状化は、こうして固体的世界を縦横に錯乱させ破砕していくのだ。 

 理想の生活(水の中での密談生活)ではあるものの、その生活に対する複雑な気持ちも吐露している。液状化世界での運命論的自覚とでもいうべきなのか。 

 

私は水のなかを潜っていくしか手がなかったのだろうか。(84頁) 

 

 それどころか、水に脅かされて逃げまどうこともあるのだ。 

 

私は水の声におどかされて、青く水っぽいところへ逃げていき、腹に目玉をつけて笑いころげながら、水の光っている方へ泳ぎ出した。(85頁) 

 

 水は声を発し、私をおどす。水が生命体であり声をだすことは、この世界ではむろん暗黙の前提だ。しかし、液体だけの世界では、やはり、逃げるにしても水の方へ(青く水っぽいところへ)逃げるしかない。そして最終的に、光る水を求めて、泳ぎ出すしか方法は残されていない。私は、結局のところ、水の世界で、水の声にせき立てられて、光る水に向かって逃げまどうしかないのだろう。悪夢のような水中世界である。 

 他人の家も、水に浸された世界なのだが、しかし、他の人は、この水をコントロールしているらしいという事情だけは分かる。他家のうかがいしれない事情だ。 

 

だが、ちゃふちゃふと隙間だらけの水やその水を取り抑えているような、見知らぬ他人の家のなかの事情には私は関心をそそられた。(92頁) 

 

 どうも他人の家の水は、密談できるようなたっぷりの水ではなく、隙間だらけの中途半端なものであるらしい。間歇的な水の流れしかないのだろうか。私は、そのことに関心をもちはするが、他人の家なので、その家の水と他人との関係に土足で入っていくわけにはいかない。わかるのは、じぶんのうちの水屋のことだけ。 

 私のうちの水屋には、得体のしれない女の姿が見え隠れする。 

 

乾いていく土から逃げ出してきたように水屋のそばに立っている恐い女の姿が、よく見かけられたものだった。じっと見据えているその目玉は乾いていて、鈍い白金(プラチナ)色をしていた。裂けて白く傷んだ魚のような口をしたその女が、厚い背中を見せて御櫃のなかの水に漬けた晒し飯を手で掬いながら水をこぼして食べていた。(99頁) 

 

 この女は、何者なのか。目玉は乾いていて、水屋のそばで立っている。裂けた魚のような口をしていて、飯を手で掬って食べている。乾いていく土(この世界とはちがう異界)から逃げてきたのだから、おそらく水の世界の魔もののようなものなのだろうか。次の引用も同じ「女」なのだろうか。 

 

橋や硝子戸が、見開いた私の目玉のなかで眠っている。靄がかかったその目玉に、菜のようなものを切り刻んでいる女の、どんなに切り刻んでも何ともなるものではないと言いたげな姿が、うっとうしい性が暗い土用浪さながら水屋の際に打ち寄せているように見える。あの人は誰か。あの世へ行った人の姿が手を振っている。霧のようになった女が、白い菖蒲の根っこを遠くで振っている。(101頁) 

 

 水屋が世界の中心であり、水屋のある家に住んでいる私自身も、当たり前だが、水に浸食され、潜在的に水浸しの日々を送っている。それが心地よいかどうかはべつとして。 

 

草から水へ、水から草へ、そうして草も水のようになり、そんな水の匂いをからだにつけた私は、土橋の下に埋め込んである錆びた大きな鉄管のなかを歩いて行き、盛んに声を枯れさせようとしていた。川もまた、私のからだに感染していたのだ。水のなかに立っている私の足には、川上から草が次から次へ流れて寄って絡まっている。(121-122頁) 

 

 川が私のからだに感染し、そして、その川は自分の家の土間の水屋につながっていく。私は、土間を流れる浅い川に流れつき、だからこそ、水中での密談も可能になるのであった。 

 そしてもちろん、先述したように、生命体である水は、ただの物質ではない。口もきき、生きている。川や水屋が、この世界の中心であるからには、水たちも人間同様、さまざまなことをして生きていくのだ。 

 

田舎の小川では水も絵を描く。(132頁) 

 

 この一文は、前後の脈絡とはまったく関係なくぽつんと現れる。「露玉」や「空の光」、「仏壇」や「墓石」が語られるなかに、「絵を描く水」が突然現れる。不思議な光景である。世界の中心「水屋」から、さまざまな川や水が流れていき、その川の流れをなす水は、絵を描いている。もしかしたら、この水の描く風景画こそが、われわれの世界を創りあげているかのように。 

 水屋の水は、小川を流れ世界を描き、そして、家のなかでも、その存在を誇示する。 

 

一年中吊っていた我が家の蚊帳のなかには、いつも蒲団が敷かれて、その蒲団のなかになぜか水が溜まっていることもあったように思う。(147頁) 

 

 われわれが昼間の世界から離れ、死と隣り合わせの睡眠の世界に没する場所、蒲団のなかにも、水が溜まっていることもある。土方は、「なぜか」などともったいぶっているが、これはもちろん、自然なことであると強調したいだけだろう。液体的世界では、水が世界を描き、世界の裏面(死)と接する蒲団にもまた、水は溜まっている。われわれは、水のなかに浮かびながら、遠い夢を見るというわけだ。 

 これが、『病める舞姫』の基層をなす液状世界である。 

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背景画像:「精霊の巌」彩蘭弥

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