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奥歯からオペラが聞こえる 第22回

  • 中村昇
  • 4 時間前
  • 読了時間: 7分

中村昇

感覚の錯乱の渦へ


 さて、今回は、ふたたび『病める舞姫』の本文に戻っていこう。またぞろ土方の狂った世界に寄りそってみたい。「私の頭から脳がいつも四センチばかり離れて浮いていた」箇所から三行あとの文だ。引用してみよう。


 貧乏な家の子は酸っぱい李や、梅のようなものを齧って、混じりっ気のない貧相な顔をしていたし(『病める舞姫』白水Uブック、5頁)


 「酸っぱい」とは、なにごとだろうか。甘いでも辛いでもなく、この世界全体がぎゅっと凝縮され、一瞬だけ異世界をかいまみる不思議な感覚。恒常性のない瞬間的な世界の生成(瞬間創造)である「酸っぱい」の衝撃。「酸っぱい」は、この世のものではない裂開を現出させる。そのような裂開経験を、日ごろから、李や梅を齧ることによってできる種族は、選ばれた種族であると言えるだろう。

 その種族の顔は、ほかの凡百の有象無象とは、はっきりと一線を画している。「混じりっ気のない貧相な顔」をもつ<純粋貧相>という高貴な人たちである。われわれの世界には、そもそも純粋なものは登場しない。プラトンを引用するまでもなく、イデア界は、この劣化した世のなかには登場しない。かならず混融した形態で、身体も精神も、物質も心も、気体も液体も個体も、それぞれ混じり合って登場している。ベルクソンの「イマージュ」という概念を使ってもいいだろう。この世界には、純粋記憶(精神)も、純粋知覚(物質)もそのままの状態で現れることはない。つねに混じり合ったアマルガムこそが、この世界を形成しているのだから。

 しかし「酸っぱい」という感覚は、そのようなアマルガムに裂け目を入れ、一瞬だけ純粋な異世界を現出させる。そして、その作業につねにかかわっているのが<純粋貧相>という種族なのである。そして、この種族は、つぎのような性質も有していた。


たまに赤や青の砂糖水の匂いを嗅ぐと、気が遠くなるようにできていたのだ。(同書、5頁)


 「赤や青の砂糖水」とは、いったい何か?砂糖という物質のもっとも顕著な特徴は、白色である。「白色の帝王」とでも言いたくなる存在感だ。しかし、ここではその砂糖の帝王感は、もろくも崩れ去ってしまう、二重の意味で。白色の砂糖が水によって溶解する(ここには、『創造的進化』のベルクソンがひょっこり現れている)深海では、赤や青のどぎつい原色が、その砂糖らしさを覆ってしまい、砂糖であることの存在理由を根こそぎにする。砂糖は、色彩界での安寧な地位(白色の帝王)を奪われ、ただの嗅覚界へと追放される。

 何ということだろう。赤や青に覆われ、さらに、たてつづけに匂いだけの下品な世界で彷徨わなければならなくなるのだ。だからこそ、<純粋貧相>という高貴な子供たちは、気が遠くもなるわけだ。とてつもない革命がおこっているからだ。白色の帝王治下の砂糖帝国の転覆が静かに進行しているのである。さらに土方は、<純粋貧相>の様相をつづけて描写する。


 実際、「貧乏な人」というのが、道を歩いていたのである。この人は乞食ではない。怠けものでもない。(同書、5頁)


 具体化を拒否する「貧乏な人」。これもあきらかに「混じりっ気のない貧相な顔をしている」<純粋貧相>の子供たちの成長した姿だろう。「乞食」や「怠けもの」といったわかりやすい具体的な属性は決してもたない<純粋に貧乏なだけの人たち>なのだから。「乞食」や「怠けもの」といったアマルガムになってしまうと、「ものこいをする」「怠ける」といったわかりやすい実際の行為に結びつけられ、貧乏でもないのにものこいをしたり、貧乏でもないのに怠けたりする不埒な連中(夾雑人)へと堕落してしまう。あくまでも「貧乏」という純粋イデア界に住む、混じりっ気のない「貧乏人」なのだ。「貧乏である」という具体的な属性さえも、すでに厳しく拒絶しているかのようだ。あまりにも純化された「貧乏人」であるがゆえに、すでにもはや「貧乏」というカテゴリーの属性さえも純化され蒸発してしまった<純粋貧乏>の人というわけだ。

 そしてつぎに土方は、不思議な補足をする。


いま思ってみても、あやふやであやふや。(同書、5頁)


 「貧乏な人」が乞食でもなく、怠けものでもないので、「あやふや」といっている。具体的な存在規定がなされないから、「貧乏な人」という大きなカテゴリーのあやふやさのことを言っているのだろう。つまり、「貧乏な人」というのは、曖昧な存在だというのである。ここでも面白い事態が、土方のあずかり知らないところでおこっていると言えないか。

 「あやふやであやふや」という言葉で形容されているのは、貧乏の具体性を欠いた、純粋に、ただひたすら「貧乏な人」なのである。ようするに、もっとも抽象化された「貧乏そのもの」が道を歩いているということになるだろう。<貧乏のイデアの歩行>が忽然と出来しているのである。これは、いかなる事態か?

 抽象化された純粋なイデアである、というのは、透明でも無でもない。土方にとって、それは、「あやふやであやふや」なのである。どこにも帰属していないからこそ、抽象的で純粋なのであって、あらゆる具体相を純化しているわけではない。つねに中途半端で、何者か得体が知れず、特定の名詞をつねに拒絶している存在なのだ。これが土方の考えている<純粋貧相>なのである。純粋貧相は、純粋ではない。「あやふやであやふや」というあり方こそが、<純粋>なのである。あやふやは純粋で、純粋はあやふや。ここにこそ舞踏の本質が隠れていると言ってもいいかもしれない。

 個々の具体的な美しさから、「美しい」という概念がとりだされ、それが純化されて、美のイデアになるというのは、わかりやすい垂直の論理だと言えるだろう。しかし、舞踏は、そういった過程はたどらない。個々の貧乏の様相、乞食や怠けものなどから、純粋な「貧乏」という概念をとりだすわけではない。乞食でも怠けものでもなく、かつ、乞食でも怠けものでもあるような「あやふやであやふや」のままで、「貧乏な人」という曖昧模糊たる流動やくずれかけの枠組のなかにただようことこそ「純粋貧乏」なのだ。美しさは純化されるのではない、美しさは混濁化の極みである。

 だからこそ、


 しかし、「お前はどこに行くのだ。」という声は、隣近所のどこからでも聞かれたものだ。(同書、5頁)


 自分が誰で、どこからきてどこへ行くのさえわからない状態で、<純粋貧乏>は歩行をする。「あやふやであやふや」のまま、どこにも帰属せず、純化も抽象化も、ましてや具体化もせず、ふらふらと歩きまわる。これが暗黒舞踏だ。

 こうして舞踏的な昼下がりには、つぎのような穏やかな風景をぼんやり眺めることもできるのである。


 どこからどこらへんまでが、すきっ腹なのかも見当がつかない思いで、裏の畑にまわると、劇薬をひっかぶった野菜が手裏剣の投げ合いをしているように眺められた白昼もあった。(同書、5頁)


 「すきっ腹」さえも「あやふやであやふや」になり、自分の内臓の現状さえも、とんと見当がつかなくなっている。そうして内も外も定型(生物、人間といった形)を蒸化させていきながら「裏の畑にまわる」と、自分と同じように、(おそらく自らの)定型を崩すために「劇薬をひっかぶった野菜」たちが、手裏剣を投げ合っているのだ。何という風景だろう。何という懐かしい景色だろう。

 「酸っぱい」から始まったもろもろの感覚や概念の「あやふやであやふや」は、こうしてとてつもなく平和な昼下がりにたどり着いたのである。


 このような嗅覚や味覚や視覚の混融は、ランボーの「感覚の錯乱」と関係があるのだろうか。有名な「見者の手紙」で、ランボーは、つぎのように言う。


 見者(ヴォワイヤン)であらねばならない、自らを見者たらしめねばならない、とぼくは言うのです。

 詩人はあらゆる感覚の、長期にわたる、大がかりな、そして理に適った壊乱を通じて見者となるのです。あらゆる形態の愛や、苦悩や、狂気。彼は自分自身を探求し、自らのうちにすべての毒を汲み尽くして、その精髄のみを保持します。それは、全き信念を、超人的な力のすべてを必要とするほどの言い表わしようのない責苦であって、そこで彼は、とりわけ偉大な病者、偉大な罪人、偉大な呪われ人となり、―そして、至上の<学者>になるのです!―なぜなら彼は未知なるものに至るからです。(『ランボー詩集』鈴村和成訳編、思潮社、110頁)


 「あらゆる感覚の、長期にわたる、大がかりな、そして理に適った壊乱」とは、何だろうか。ひとつの感覚を、その感覚の枠内におさめず、他の感覚との惑乱と融合、そしてそれ自身の感覚の亀裂、破砕といった壊乱行為をするということだろう。まさに、それは、『病める舞姫』で土方巽が、自然とおこなっていることではないか。白い砂糖という視覚、嗅覚、味覚、触覚の焦点を、赤や青で亀裂を入れ、水で溶かし、気が遠くなるような嗅覚の魔を現前させる。そしてその背景として「酸っぱい」という断末魔のような味覚の瞬間創造を、そっと設えておく。もちろん、主役は<純粋貧相>の子供だ。貧乏のイデアが、まわりをうろついているなかでの亀裂であり、瞬間創造なのだ。

 このような感覚の壊乱が、『病める舞姫』のたった二三行に凝縮されているのである。そして、この凝縮は、『病める舞姫』全篇のいたるところにちりばめられている。読めば、誰でも、その感覚の惑乱の渦に巻き込まれていく。

 『病める舞姫』は、畏るべき密度をもった途方もない書物だと言わざるをえない。

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