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奥歯からオペラが聞こえる 第20回

  • 中村昇
  • 7月18日
  • 読了時間: 8分

中村昇

細胞分裂の儀式


 笠井叡は、『舞踏をはじめて』(小野寺悦子著、操觚社、2024年)という興味深い本のなかで、土方巽について、つぎのように回想している。


 舞踏というのは、生きているのがいかに楽しいかとか、生の素晴らしさを踊るものではない。むしろその逆で、生きている身体より死んだ身体の方にシンパシーがある。死というものの中に人間の本質がある、それを極める踊りが舞踏。“舞踏とは命がけで突っ立つ死体”とはよく言ったもので、命がけで立つ死体というものの本質に全身で向かったのは土方巽ただひとりだろうという気がします。

 舞踏とは命がけで立つ死体ではなく、土方さんは生きるとは命がけで立つ死体だということを実践した。そのひとつの有り様が舞踏であって、ダンスのカテゴリーとして考えるのではなく、生きること全てでそれをした、ただひとりの人だった。舞踊の歴史という観点から見ると、土方巽は突出した人物で、たぶん二度と出てこない。(137頁)


 まったく同感である。自分自身もひじょうにすぐれた舞踏家である笠井叡が、土方の本質を深く射抜いた文章だと思う。土方は、舞踊や暗黒舞踏や、ましてやダンスなどというカテゴリーのなかにおとなしくおさまっている存在ではない。

 土方は、生きることがそのまま、「命がけで立つ死体である」という、とてつもない日々をおくっていたということになるだろう。われわれの身体も精神も命も何もかもを「死」の領域へと放擲し、そのまま(死体のままで)命がけで立ちつづける。命のない死体のままで棒切れのように立つという、おそるべき矛盾を枯れ枝のような身体で表現しつづけたといえるかもしれない。

 だから土方巽は、何ものにも属すことのない「土方巽」そのものであり、そのままでカテゴリーであり、そのままで一ジャンルなのだ。誰も、この人と比肩できるような存在は、どこにもいない。比類のない屹立した「類」概念そのものなのだ。「生きること全てで」「命がけで」、誰もそこに近づくことさえできないような特異なカテゴリーを突然変異的に創出した人物なのである。


 さて今回も『病める舞姫』の深部にさらに沈みつづけよう。

 全宇宙を口肛の空洞のなかにたたみこんでいる身体というトポロジカルな場から、今度は、電磁場と人との深いかかわりへと話は移っていく。「震える電球」の登場だ。

 引用してみよう。


 それにしても、昔の電球はよく震えていた。その下で泣く女がどこにでも見受けられ、女のまわりに泣く物象も見受けられ、泣いている女がその物象を絞っているのではないかと案じられもした。(『病める舞姫』白水Uブックス、4頁)


 われわれは、電磁場によってとりかこまれている。何もない空虚な場だと思っていても、そこに電荷がこっそり入ってくると、電磁場へとたちまち変容してしまう。われわれにはうかがいしれない実に面妖な場のなかに、私たちは存在している。

 電荷をおびた電球が震えている。電球の光が震えながら、唯一無二の場を形成している。その光の下では、電球の震えに感応して、女性がさめざめと泣いている。泣くという行為は、不思議なことに、身体の震えとあきらかに連動している。電球の震えと泣く女の震えとで共振する特殊な場がそこにできるのだ。電球と女性が震動しつづける場のなかでは、多くの物象も震え泣いている。場そのものが、震える電球に感応して、嗚咽し、涕泣し、それにつられて、あらゆるものが泣いているのだ。場全体が震動し振動し、泣いているのである。

 あらゆる物象も泣いているという事態を怪訝に思い、土方は、泣いている女が、周りの物象を絞ることによって泣かせているのではないかとも疑う。震えつづけている場をじっと観察している土方に、そんな疑いも自然とおこるような「泣く場」なのである。

 波動でもあり粒子でもある光が、涙に反射して、震えつづける場(電磁場=泣く場)をダイナミックに形成しているというわけだ。涙は、たしかに光に似ている。形なき輝く透明状態。光と涙の似たもの同士のひそかな密儀が、電球のもとに特別に設えられた場で厳粛にとりおこなわれているということだろう。

 さらにつぎのような不思議な光景もあった。


脳はいつも私の頭から四センチばかり離れたところで浮いていたが、この脳は白魚や錆びた鼠取りを恐ろしがっていたのだ。(同書、4-5頁)


 脳が四センチばかり頭から離れたところに浮いているという。エーテル体やアストラル体が身体から離れて浮遊しているというのであれば、わかりやすい当たり前の事態だ。しかし、実際の物質としての脳なのである。これは、どういうことなのか。

 土方にとって、身体を構成するわれわれの器官は、一定の場所にきちんと収まっているわけではないということなのだろうか。自分のなかに少年がいて、死んだ姉も住みついている土方にとって、自分の身体というのは、ある意味で、あらゆる存在や概念が通り過ぎていくことができる自在な場所の側面ももつということなのだろう。

 そのような融通無碍な場所である身体に帰属している器官は、通り過ぎたり住みついていたりするものどもと一緒に、わりと自由に外側を浮遊したり、はからずも地面に落下したりするものなのではないか。まさにそのようにして、脳は、四センチも頭のなかから外側へと浮かび上がっているというわけだ。

 うがった言いかたをすれば、さまざまな臓器や大脳などが、自在に流動する身体は、その中心に「器官なき身体」(これは、文字通り「器官のない、からっぽの身体」)だけがあり、その身体を内部で構成していたはずの器官群は、身体の外側で中空に漂い、大地で蠢く可能性もあるということだろう。そのようにバラバラになりながらも、「器官なき身体」という中心地のまわりで、微妙にバランスを保ちながら、一生命体として脈を打ちつづけているということなのか。

 土方の世界では、身体や精神や感覚が、植物や動物や虫や木材や化石や、色や臭いや佇まいや品詞たちとつねに交流しているのだとすれば、通常は身体のなかにある器官たちも、環境や周りの空気と直に触れ合っていてもおかしくはないだろう。われわれの「からだ」が、口肛間の空洞だという観点からしても、身体内の臓器も、実は、外部と筒抜けの関係にあり、外で浮遊していても、ちっともおかしくはない。われわれの身体は、本源的には、このようなあり方で、バラバラなのである。

 われわれが最初の稽古で、歩行をやらされていたとき、まさに、このような内部器官が外部で浮遊し、われわれは「器官なき身体」になって、つまり、一本の干からびた棒になって、呆然と平行移動をしていたと言えるだろう。空っぽの物質が、ただただまっすぐ歩いていく。これが、舞踏の基本であり本質でもある「歩行」なのだ。

 われわれの器官は、われわれのものではないし、それ自体、何ものでもない。よくわからない自動機械だ。いわば、われわれにとっては、一番わかりやすい「他者」である。そのような「他者」が、いかにも「他者」らしく、「頭から四センチばかり離れたところで浮いていた」ということなのだろう。つまり、器官が器官としての本性を現したというわけだ。

 そしてその脳は、「白魚や錆びた鼠取りを恐ろしがっていた」。自分が白魚にまちがえられて、誰かに食べられること、あるいは、鼠にまちがえられて鼠取りに転がり込む事態になることに甚大な恐怖を抱いていたということだろうか。人間の中枢器官としての矜持からしても、たしかにわからないでもない。それは、とても恐ろしいだろう。

 臓器がバラバラになって、それぞれがべつの動きをすることこそ、もしかしたら、土方の理想の身体だったともいえるかもしれない。『静かな家』のソロは、まさに、それぞれの身体の部分が、勝手に蠢いていた。一匹の虫のような指、鹿威しのような下肢、遠い漣のような胴体、そして真ん中に、死体のような土方巽。

 もし、この踊りをさらにつきつめれば、身体中の内部器官が、バラバラに滅裂して外部に現れ、それぞれが異なる複雑な動きをすることになるだろう、細胞分裂のように。器官がそれぞれ外部で踊り、身体そのものは空虚な「器官なき身体」となって衰弱しつづけている。身体のこのような恐るべき細胞分裂の儀式こそ、もしかしたら、土方巽の理想だったのかもしれない。

 こうして、身体内の臓器や、あらゆる器官や細胞が、外界の音や臭いや形や形容詞や副詞とも直接かかわるようになる。その器官たちの震動により、こちらのからっぽの「器官なき身体」も共鳴し、揺れ震動しつづける。これが、土方の舞踏世界であり、「衰弱体」ということになるのかもしれない。つまり、こと切れる極限で物質界と接触しつづける「命がけの死体」だ。

 土方のいう「衰弱体」は、社会や秩序から遠いのはもちろんのこと、われわれの身体の秩序や身体内の器官の都合とも遠く、たんなる物質として、しかも衰弱しつづける干からびたものとして(生命を帯びた物質が、みずからの故郷である死体へと漸近線的に接近しつづける状態として)、生と死のはざまに存在しつづけるということだ。生と死のはざまで、“命がけで突っ立つ”というのは、こういうことだと思う。

 身体器官が、大脳という中枢を中央政府にして秩序がかたちづくられ、その秩序が外界の秩序に組み入れられる。そして、その身体は、他の人間たちの社会秩序や有用性の連関の網の目に、さらにからめとられていく。“役に立つ”という公理を中心に形成された公理系によって、身体器官も“役に立つ”動きを最優先するようになるということだ。こういうわれわれの存在や社会のあり方を身体から破砕しようとしたのが、土方だといえるだろう。

 そして、この秩序や社会に順応するために、われわれの脳は独裁を始める。身体器官を社会や秩序向けに動かそうとしていく。“役に立つ“身体、わかりやすい身体の動き、秩序だった美しい身体の所作などなど。だからこそ、脳は、身体器官のなかで率先して、まず最初に外部で浮遊すべきなのだ。独裁者をまずは、国外へと追放すること。脳を身体外へと放擲すること。

 こうして、暗黒舞踏は、物質平等主義の「器官なき身体」を手に入れるのである。

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背景画像:「精霊の巌」彩蘭弥

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