中村昇
「土方界」という異郷
土方巽と会っているとき、「この人はただものではない」といつも思っていた。「ただものではない」という言い方を、われわれは、日常で使うけれども、本当に「ただものではない」人は、それほどいない。だいたいは、こちらの予想のつく「ただもの」だ。しかし、土方は、その近くにいた二年間、ずっと「ただものではなかった」。私の個人史では、空前絶後の「ただものではない」唯一の人だった。つまり、土方に出会う以前にも(空前)、土方に出会ったあとでも(絶後)、こんな人には会ったことがない。たしかに学識豊かな人物やとてつもなく面白い人たちには何人も会ったけれども、こんな始終訳のわからない人物は見たことがない。ちょっと言いすぎかもしれないが、何一つとして、こちらの住む世界との接点が見いだせない。そんな別世界に土方はいるとしか思えないのだ。
この人が、当時の日本の芸術家や小説家たちや詩人たちに与えた影響の深さは、この人に実際会って、しばらくつきあった者には、とてもよくわかる。べつの言い方をすれば、会った者でないとわからない部分がとても多い人間だとも言えるかもしれない。一言で言うと、土方に会うと、この人が、とんでもなく大きい「謎」になるのだ。なぜ、こういう生物が棲息しているのか、あるいは、われわれが生きているこの世界で、こんな生き物がなぜ棲息可能なのかと、身近にいるとしょっちゅう思ってしまうのである。
土方と会って、二年ほどつきあっていなければ、『病める舞姫』を、こうやって解読しようなどとは、夢にも思わないだろう。こんな訳の分からない本を読み解こうなどとは、絶対に思わない。何が書かれているのかも皆目わからないし、これを読んだからと言って、何かを得るわけでもない。そもそも初読時は、読み通すのさえ一苦労だった。『病める舞姫』の読書は、一般的な(嫌いな)言い方をすれば、「時間の無駄にしかならない」のだ。
土方の存在している世界は、われわれのわかりやすい世界とは、まるでちがう。「時間の無駄」という概念や「役に立つ」という概念の本性が暴かれる<真の><裸形の><空虚な><透明な>領域だと言えるだろう。「時間の無駄」や「役に立つ」という概念が、おのれのよって立つ根拠を見いだせず、こそこそと逃げだし消滅するような世界だ。「常識」や「当たり前」が、ガラガラと崩れ落ちる世界なのだ。<空前絶後の世界>なのである。
さて、そのような<本当の世界>を叙述しつづける土方の文章のつづきを見ていこう。前回のつづきから。
梅雨どきの台所にある赤錆びた包丁の暗さを探っては、そういう所に立って、涙の拭き具合いを真剣に練習したりしていた。(『病める舞姫』白水Uブックス、4頁)
「梅雨どき」こそ、われわれが生きていく本物の季節だと土方は、おそらく思っている。液体が、固体的なこの世界を覆い、固体的堅固さを常に溶かしつづける季節だからだ。世界は、つまり森羅万象は、梅雨どきには、恒常的に溶解していく。境界線が曖昧になり、皮膚にも衣類にも家にも樹木にも水滴がつき、その水滴がしたたりつづけていく。土方も好きだったターナーの描くような世界が、まさに目の前に現出しつづける季節だと言っていいだろう。
そして「台所」。ある意味で、『病める舞姫』の描写する世界の中心地点とでも言える場所だ。「台所」からすべてが生まれ、「台所」にすべては吸収される。土方的世界の核をなすブラックホールである。したがって、「梅雨どきの台所」とは、時間的にも空間的にも、『病める舞姫』を支える空虚な液体的中心なのだ。このことは、これからもおいおい指摘していくつもりだ。その土方的時空連続体の核心部で、「赤錆びた包丁の暗さを探る」。これは、いったいどういうことなのか。
包丁は危険だ。なぜなら、分節化を象徴する道具だから。この世界の事物をきれいに切り分ける。この世界のどこにも切れ目はないはずなのに、勝手に切り分けてしまう。魚も肉も果物も野菜も、複雑な構造をもち、それぞれの唯一無二のあり方をした全体的個物(ホロン)なのに、包丁は、それらの唯一無二性を容赦なく切断し、べつのものにしてしまう。境界を勝手につくり、「分節化」してしまうのだ。ソシュールであれば、それを「恣意性」などと名づけるだろう。そんな勝手な分節を可能にするものが「包丁」であり、そして、その包丁がもつ無慈悲な包丁的能力なのである。
だから、「包丁」は「赤錆びて」いなければならない。包丁がピカピカ光って、その能力の最高地点(エンテレケイア)をひけらかしていては困る。この土方的世界では、そんな無法は許されない。敵とみなされる。包丁は、錆びて赤くなり、ボロボロになって、分節化作用とは程遠い存在になるべきなのである。だって、分節化されていない曖昧で連続した世界こそが、世界の真相なのだから。液体的溶解こそが、真実なのだから。
その「暗さ」(赤錆びた包丁のもつ)こそが、この世界の真実のメルクマールになっていると言えるだろう。「包丁はすべからく暗い状態でいるべし」。これこそ、「分節化」を𠮟りつける土方流の定言命法なのだ。
この真実の世界のあり方(暗さ)を探って、われわれは何をすべきなのか。「涙の拭き具合いの練習」だ。しかも、「真剣に」やらなければならない。ふたたび液体の登場。しかも、われわれが鼻水や汗とともに、もっともよく内側から分泌する「涙」。しかし、鼻水や汗のように、いつでも受動的に流れつづけているわけではない涙。われわれの感情と深くかかわる分泌物。しかも、感動にせよ悲哀にせよ、湿気と深くかかわる感情(湿っぽいやつ)の外的表現としての涙なのだ。何から何まで(内側も外側も)液体的であり湿気に満ちた涙こそ、われわれが練習しなければならない対象なのだ。内側からの液状の分泌物を拭くこと。これは、もちろん、敵の世界(「時間の無駄」や「役に立つ」といった概念がはびこる非人間的世界)をだますための練習だ。敵を欺くために、われわれ(土方界の住人)は、二重の液状化の痕跡をみずから隠しつづけなければならない。
その場が溶けてしまわないように、他人や世界や環境との境界がドロドロにならないために、「真剣に練習」するのだ。世界全体が、すでに溶解していること(土方界の真実)を隠すために、必要なトレーニングなのである。土方界とは異なる人々が生きている世界では、時間の無駄であり、全く役に立たない「涙の拭き具合いの練習」を「真剣に」しなければならない。土方界の住人(そして、もちろん土方巽)は、この世界では偽装し、あたかも役に立つ人間たちと同じ考えをもっているかのように振る舞わなければならない。だからこそ場違いな真剣さをもって、自然に振る舞う練習をする必要がある。「涙の拭き具合い」の練習にいそしまなければならない。
そして、
からだの中に単調で不安なものが乱入してくるから、からだに霞をかけて、かすかに事物を捏造する機会を狙っていたのかもしれない。(同書、4頁)
「単調で不安なもの」とは何か? いくつかの解釈の可能性があるだろう。ここでは、もっともわかりやすい解釈をとりたいと思う。土方の住む世界は、液状世界だ。つねに、液体が液体として液状化しつづける世界だ。境界ができたとしてもあっというまに溶けていくような形のない流動状態。そこでいちばん忌避すべきは、「単調さ」「わかりやすさ」「単純さ」などだろう。土方界には、そもそも存在が許されない異和的なものどもだ。
しかし、われわれが住むこの世界は、恣意的な根源的分節化によって、一見、整った状態にあり、誰もが個人として存在し、表面上、環境と分離した個人・個人として存在している。「分節」はごく自然だ。そして、そうした分離した個人・個人は、母語(分節化の象徴である言語)によってコミュニケーションを日々おこなっている。こういう世界の「単調で不安なもの」(土方界にとっては、異質の単調さをもち液状世界を根本的に不安にさせるもの)が、こちらの身体に乱入してくるというのだ。だから、土方は「からだに霞をかける」。
霞という粒子である液体を、からだじゅうに煙幕のようにはりめぐらし、「単調で不安なもの」の乱入を阻止するのだ。そのようにして土方界の連中は、スパイ活動を遂行している。それは、「かすかに事物を捏造する」という活動だ。この整理整頓の行き届いた忌まわしい世界には、存在しない事物。しかし、一見、この世界に存在してもおかしくないと思われるような事物。偽装のためだけの事物。そういうものを捏造し、土方の住む世界へのひそかな転覆をもくろんでいたというのだろう。
これこそ「暗黒舞踏」という真の革命を目指すスパイ活動なのである。
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