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奥歯からオペラが聞こえる 第25回

  • 4 日前
  • 読了時間: 8分

中村昇

擬の世界


 今回は、土方巽の文章とその背景にある世界を見てみよう。『病める舞姫』の世界は、すでに確認したように、安定した固体的世界ではない。つねに流動している液体的世界だ。そして、その一瞬もとどまることのない世界のありさまを、土方は、既成の形容詞や副詞を使わずに描写していく。この変容しつづける世界の様子を、今までにない造語によって記述していくと言っていいだろう。つまり、この世界の本当の姿は、われわれが普段使っている言語によっては、とても表現できない状態なのだということを、土方は言いたいのだと思う。

 ひとつひとつ見ていきたい。まずは、土方語とでも言いたくなる「ざくらっと」から引用してみよう。


梅雨どきは鯰に切られ、春先にはざくらっと川に呑まれたりして、自然に視線が、そういうものに傾いていったのであろう。(『病める舞姫』3-4頁)


そして安心して包丁の錆のついているざくらっとした長十郎梨にかぶりついている昔の私を、思い浮かぶるのだ。(同書、70頁)


 この「ざくらっと」というのは、どういう事態なのだろうか。まずすでに存在する似たような語を見てみよう。最初の意味だけをとりだしてみる。(『岩波国語辞典 第八版』)


 ざくり(勢いよく、切ったり刺しこんだりするさま。その音)、ざっくり(大きく断ち切るさま)、さっくり(繊維の束などが簡単に切れるさま)、さくさく(物がたやすく切られたり、押されて崩れたりする音。そのさま)、ざくざく(大量の粗い粒が崩れ、こすれあう音。そのさま)


 「ざくらっと」は、これらの副詞の意味を、たしかに含んでいるのだろう。勢いよく切れて大量の粒状のものが崩れていくようではあるからだ。それに、擬音語なのか擬態語なのか、よくわからない語にもなっている。「ざっくり」と「ざくざく」の中間的な「さまと音」を混在させ同時に表しているかのようだ。そして、「ざくら」という音が、「柘榴(ざくろ)」という名詞を連想させ、鮮烈な紅色を、それらの「さまと音」の上から塗りこめていく。音でもあり様態でもあり果実的なイメージも、そのなかには入りこんでいる。

 そして、こうした意味が混交した語は、この二つの文では、それぞれ副詞と形容詞として使われている。最初の文は、川に呑みこまれるさまを表現し、後者の文は、梨という果物の形容だ。これは、それぞれどういう意味なのか。

 「ざくらっと川に呑みこまれる」という表現は、直前の「鯰」の存在に強く影響されていて、川そのものが、まるで生き物であるかのように、あるいは、川から濡れた魔手が突然でてきて、川に引きずりこんでいくかのような錯覚をもたせる力がある。やはり、「ざくらっと」という副詞は、われわれが見ている通常の世界のありさまを大きく変容させ、そこに鋭く亀裂を入れるかのようだ。

 長十郎梨のほうは、どうだろうか。やはり、この文でも、前の引用の「鯰」同様、直前に危険なものがでてくる。それは、「包丁」であり、さらに、その「錆」だ。「包丁」という鋭角的なものだけではなく、それが「錆」ついていることによって、鋭角に劣化が、あるいは、鋭い凶器に微細な死に化粧のようなものが混じりこんできていることになる。こうしてこの長十郎梨は、すでに、ただの美味しいだけのみずみずしい梨ではなくなっている。

 その梨の形容として「ざくらっとした」がついているのだ。これは、どういう事態なのか。もちろん、包丁の影響があるにせよ、あくまでも長十郎梨の形容であるとするならば、この梨そのもののもつ、ある種の切断性(ざっくり切れている)、水分(さらさらと流れる)、そして果物同士の類縁性(柘榴と梨)などが、この「ざくらっとした」にはたたみこまれていると言えるだろう。

 このように考えれば、「ざくらっと」という目新しい語をつくりだすことによって、土方は、世界の渾沌とした多層状態を表現していると言えるだろう。つまり、われわれの世界においては、ただの一事態(梨を食べる)とは言え、そのなかでは、音(擬音語)も存在(名詞)もありさま(擬態語)も、すべてが重なって入りこんでいるということを表しているのだ。実際、われわれは世界をそのようにいろいろな彩りで塗りこめて見ているにちがいないのだから。

 さらに今度は、「ざくらっと」と同じつくりの副詞を見てみよう。「ぽしゃらっと」である。


私は湯気に包まれるか、ただぽしゃらっと生命を失った物体のようになっていた。(同書、8頁)


 ここでの「ぽしゃらっと」という副詞は、湯気に包まれ(固体からの液化、気化の途上)、最終的に生命を失う危険にさらされている様子を表していると言えるだろう。いくつかの既成の類語は、どんなものがあるだろうか。


 「ポシャる」(つぶれる。だめになる)「ぼさっと」「ぼさぼさ」(何もせずぼんやりしているさま)「ほす」(干す)くらいだろうか。

 生命を失う途上にあることを考えれば、たしかに「ポシャる」「ほす」(つぶれて干からびて死体になる)などと意味の重なりがあるだろう。

 しかし、この「ぽしゃらっと」には、ぼうとしている(ぼさっと、ぼさぼさ)という意味合いも含まれていて、他の箇所では、「ぽしゃっとした老婆になって縁側に坐っている」(同書、38頁)などという言い回しもしているので、この「ぽしゃっとした」と「ぽしゃらっと」が音だけではなく、意味の重複もあるのであれば、この「ぽしゃらっと」という副詞も、多くの意味の重なり合いによってできあがったと考えられるだろう。生命を失いかねない状態でありながら、そのことに頓着せずボウとしている。そして、「ぽしゃらっと」を擬音語とみなすならば、泡のような形態をもち、それが破れるときの音(ぽしゃ)とも考えられるだろう。なにせ、前の選択肢は、「湯気に包まれるか」と書いてあるのだから。

 そうすると、やはり「ぽしゃらっと」もまた、「ざくらっと」同様、音、存在、様態が多層にたたみこまれた副詞だと考えられるだろう。

 そしてもうひとつ、同様のかたちの副詞を見てみよう。「ひやらっとした」である。ふたつ引用してみる。


眼の前には、ひやらっとした足袋が縄に挟まれて吊るされていた。(同書、140頁)


ボーンという柱時計の響きもこの家の中のひやらっとした空気のなかに沈んでいた。(同書、157頁)


 この「ひやらっとした」という形容詞は、いままでの語と比べると、ややわかりやすい印象を与える。この二つの引用とも、「ひやっとした」という普段われわれが使う語と代替可能であるように思われるからだ。しかし、やはり「ひやっとした」と「ひやらっとした」では、喚起されるイメージはあきらかに異なるだろう。「ひやっとした」という一般的な形容語であれば、足袋の冷たさ、家の中の空気の冷たさだけが、こちらに伝わってくる。しかし、「ひやらっとした」という語になると、冷たさという様態だけではない、足袋や家のもつ、ある種の呪物性(対象としての存在の重たさ)が、おのずと伝わってくるような気がする。「冷たさ」だけではなく、その物や、その空間の濃密な存在感のようなものも附随しているような気がするのだ。うがちすぎだろうか。

 以上のような擬態・擬声(擬音)・事物の多層化と同時に、土方が描く世界では、ものが人のように振る舞い(擬人化)、空間や時間や感情も人のようなふるまい(抽象物の擬人化)をする。いくつか見てみよう。


白っぽく汚れた闇に爛れたような昼間の眼玉がのめり込んで見えた。(同書、27頁)


 闇なのに白っぽく汚れているところに、爛れた昼間の眼玉がのめり込む。昼間という時間の幅をもつ存在には眼玉があり、それは闇(昼間なのに?)にのめり込むのだ。おそらく土方のなかでは、闇も昼間も、その眼玉も、まざまざと見えていたのではないのか。そういう真の幻視を生きていたのではないのか。

 さらにカルシウムについては、つぎのように言う。


そういう思いで菖蒲の臭いのする腹の赤茶けた泥鰌を鍋に投げ入れて、梅雨どきのその音のそばに座っていると、折り畳まれた脛の細さは、まるでカルシウムの生涯のように感じられた。(同書、32頁)


 カルシウムも擬人化され、その生涯は、脛の細さのなかで営まれる。その(おそらく)細い生涯のなかでカルシウムは、生きていかざるをえないのである。

 あるいは、概念(時間)が物質化(擬物化)される。


昼間でも鍛冶屋の土間には頑丈な夜が吊るされているのも、子供心には安心のひとつであった。(同書、62頁)


 昼間にも眼玉があるように、夜も頑丈という性質をもち(たしかにいかにも夜らしい)、吊るされることもある。夜が丸ごと固体になり吊るされることもあるのだ、たまには。その吊るされた夜を見ると、子供には夜の訪れを恐れることもなくなり(何といっても、吊るされているのだから)、安心して黄昏を迎えることができるというわけだ。

 あるいは、欲望もまた、擬人化される。


そのせいか、目には見えない色情がねばついた影に隠れて、表を一人歩きしていたのだ。(同書、72頁)


 色情は表を一人歩きする存在だ。しかも、ねばついた影(おそらくは色情をもつ人の影だろうか)に隠れて、一人で歩いていくというわけだ。色情をもつ人間からは離れて一人歩くのである。

 色情そのものの歩行は、何を目指しているのだろうか。おそらく重い肉体から離れ、色情そのものになった抽象的欲望には、これといって目的もなく、ただただ、表をぶらぶらと一人で歩きつづけているのではないだろうか。こうして、土方の世界は、おそろしく深みのある、複雑で豊饒で、しかもぺらぺらの場所になっていく。

 「昼間」も「カルシウム」も「色情」も「夜」も、人間になり、物質化し、通りを歩き、細い生涯をすごす。あるいは、「形」が家を訪問することもあれば(「どれ程のいろいろな形が、やれやれといったように我が家の玄関口に立ったことか。」(88頁))、「光」にも骨格があり(「とてつもなく大きな光の大腿骨が炎天下に交叉して眠っている。」(102頁))、「昼間」は寝返りし(「大きな昼間が寝返りしている。」(130頁))、「風」にも形がある(「眼の底に、そのとき恐ろしい風の形がはっきり見えた。」(192頁))。

 土方巽が、『病める舞姫』で描きつづけている世界に、土方自身も本当に生きていたのであって、多くの事物や空間や季節や概念や形容詞たちと同等の資格で、悪夢のような豊潤な世界で舞踏家は息づいていたのだ。このような世界で生きていたのでないならば、どうして『病める舞姫』を書くことができただろうか。

 土方巽の暗黒舞踏は、新奇な舞踏概念を新たに創ったわけではない。土方が幼い頃から生きてきた、物質と形と空気と概念と欲望とが混在しているカオスを、深層と表層との反転する目くるめく幻視を、ただただ踊りに代えただけのように思われる。『病める舞姫』の世界を生きていたからこそ、それを舞台で表現しただけなのではないか。だからこそ土方巽は、唯一無二の舞踏神なのだ。

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背景画像:「精霊の巌」彩蘭弥

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