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奥歯からオペラが聞こえる 第26回

  • 10 時間前
  • 読了時間: 10分

中村昇

黒マントと白マント、そしてアルトー


 最後に『病める舞姫』の最後の二つの章(十三と十四)を見てみよう。それまでとは内容も雰囲気も異なったこの二章で、土方は、何を描こうとしていたのか。ここでは、主に二人の登場人物による雪上の舞踏風景が描かれている。

最初は、つぎのように始まる。


猫がおいしそうに食べているのを見て、芯からの敗北感を味わうような少し壊れかけた神経や、脱衣籠のなかで着物を脱いだ白く小さく縮まった肉体や、ホロホロとなく七面鳥に試され脅されたような好奇心が、寝床の中で壊れて寝顔の中にうっすらと浮かんでいる。寝顔は雨上がりに鶏の足が摑んだ脆い石と、臍の緒がつながっているような光景を示している。そしらぬ振りをして夕暮れが忙しく行き交ってもいるし、形の決まらぬことに患いながら、まるで無慈悲な物と話したがっているような顔も見えてくるのだ。(『病める舞姫』白水Uブックス、188頁)


 人々の通常の暮らしぶりとはまったく断絶したところで、神経や肉体や好奇心が、寝床に集結して密かな営みを続けている。これは、いままでの土方特有の世界と、さほど変わらない。しかし、そこに突如「黒マントの女」が現れる。


こんなしゃべり声が吹雪のなかをあるいている。黒マントの女の腰のあたりにつかまった、子供のあばら骨のあたりから聞こえているのである。そのとき、ゆきにもつれた白い息が後ろに廻って、その息だけを黒マントの女が背負った形になった。(同書、189頁)


 白一面の吹雪のなかで、独り言を言いながら、黒マントの女は、歩いている。長い独白は、さらに延々と続いていく。


「あぶねえ帝王切開だった。しかし、やれ捥ぎたてのしかめっ面だ、がつがつした猿っ子だと、まるで鼻も目もねえ草の葉っぱ面で、目立たない話しっぷりで、しゃべられても私の気持ちはかんたんで気にもかけね。そんなことは言うもんでないと詰め寄ったって、「ただそう言っただけだ。」と言って不思議な(ママ)見るような目つきをするに決まっているのだから。……」(同書、189頁)


一人言をしゃべっている黒マントの女の膝が、雪の上でそのとき急にもろくなったように崩れた。卵巣を切除したその女のからだから、水っ気の多い電気が私のからだに伝わってきた。(同書、191頁)


 一人喋りつづける黒マントと一緒に、「私」もいるのだ。黒マントの女の水っ気の多い電気がこちらのからだに伝わってくるのだから。さらにつづいて、雪のなかで、雪とたたかいながら、黒マントは、一人踊っている。


古ぼけた眠りが雪に浄められたのか、あるいは惑わされたのか、そのとき黒マントの女が忘れたのは、青い蚊帳や白い爪などではなかった。髪の毛に通っている古い血のことは少し思い出した。が、その先のずっと向うのことも忘れてしまって、もう忘れることもなくなったので、雪に負けた黒マントは、マントに雪の羽をつけて、そこに転んだようになった。仕方なく雪に負けた女は、何度も転びながら雪のなかで羽ばたいていた。(197-198頁)


 そして雪の上で踊り狂うのは、黒マントの女だけではない。「一寸先が見えない猛吹雪」とともに、ついに、白マントの女がやってくる。


その吹雪は何のまじり気もない吹雪になった。するといきなり、遠い道のりを歩いてきたせいか、凍えて真白なマントとカチカチに凍った頭布にくるまれた顔が、ふっと眼の前に近づいてきた。(中略)すると二人は遠慮なくしゃべりあう仲間のように抱き合って雪道をよろけたが、またもとの角度に身体を戻して、今度は送り風に乗って二人で滑り出した。その足の速いこと。私は騙されたように取り残されて、黒マントと白マントと私の間との消息は、そこでふっと途絶えてしまった。(同書、198-199頁)


 そして、この二人は、雪のなかで、この上なく仲良く踊りつづける。


降る雪を蹴散らすように、組みついたり転がったりしておどった。始めのうちは雪に足をとられてぎこちなかったが、やがて足許が均されて適度に湿った踊り場となった。二人がこっそり笑い合い、いきなりまわりのやわらかい雪に襲いかかったりすると、雪も二人に襲いかかる。慌てて雪のなかに隠れようとする病気の恋人や、その恋人にトサカをつけたようなものを紙にくるんでいるのが白マント。ぼんやりした桃やお月さまや柳行李のようなものと魚の骨とを、ちょっと離れたところに埋めているのが黒マント。(同書、206-207頁)


 適度な舞踏場になった雪のなかで、お互いが雪と襲いあいをしながら、それぞれ細かい誰もまねのできないような不思議な踊りを披露しあっている。しかし、この二人は、踊りの技術は対等ではない。白マントの女の方が、黒マントの踊りに口をはさむ。


「あぶなかったな。」白マントが黒マントにそう言って、「あなたのおどりにはねえ、ただひきずられて楽しんでいるようなところがあるからあぶない。表情の一人歩きが多すぎるよ。私を悩ましているのはね。髭をつけたドクロでなあ。その響きが耳にさわるのよ。赤子を凍らせるにはまだ早すぎるさ。もっと紙切れのように赤ん坊捨ててしまわねば、鏡台の鏡掛けに笑われるよ。」そこで白マントは、今度ははっきり自分の足でそこいらを駆けまわって、黒マントに見せていた。(同書、218-219頁)


 しかし最後には、黒白の二人のマントの女は、同じ一つの存在に融合していく。『病める舞姫』の掉尾を飾るのは、つぎの文章である。


真鍮製の花とぎっちりと詰まった羊羹を、炎症にかかった青紫色の手に持って現われた黒マントの歴史を、黙って白マントが嗅ぎに行った。どこに行っていたのとは、もう白マントも聞かなかった。羊羹の切り口には形容しがたい倒錯した空が小さく映っていた。そうしてお互いにつなぎ目がなくなり、お互いを呼吸していた二人は固く口をつぐんだまま、しだいに青みがかっていった。(同書、222頁)


 黒マントへ白マントが近づいていき、二人はつなぎ目がなくなり、お互いがお互いを呼吸し、一つの青みがかったマントになってしまうのである。黒と白は、白い吹雪のなかで、青く透明になっていくのである。

 何とも唐突な終わり方だが、言わずもがなの解釈をすれば、こういうことだろうか。雪という舞台、そして吹雪という状況は、『病める舞姫』全体を象徴しているとも言えるだろう。雪は、固体のふりをした液体であり、白は、すべての光を凝縮させた色であり、そして、吹雪によって風景すべての輪郭が曖昧になり、分節化された宇宙は、その面影を留めず気体状のカオスとなっている。この舞台装置、そして背景だけでも、この作品の最後を飾るにふさわしいものだと言えるだろう。

 そして白マントと黒マントの二人の女性。黒と白という陰陽二色が、白という雪景色(液状化しつづける固体)で踊っている。黒マントと白マントは、陰陽の対立を表しているにもかかわらず、白マントの方が踊りでは師匠でもある。対立しつつ、均衡をたもっているわけではない。そして二人とも女性であるという、偏りもまた、予定調和を最初から崩していると言えるだろう。

 われわれの世界は、本来は、分節されてもいないし、わかりやすい矛盾律が支配しているわけでもない。この世界は、根源的に偏っていて、その根源をなすのは、堅固なふりをした液体(雪)であるということ。それまでのこの物語の中心が「水屋」であったことを考えれば、『病める舞姫』の最後の二章の舞台が、雪であり吹雪であるというのは、首肯できるだろう。そして「舞姫」とは、黒マントと白マントの二人の女性のことなのかもしれない。二人のマントがひとつになり、この物語の最後で、青い透明な「舞姫」が、完成するのではないか。

 さて終わりに、アルトーに再び登場してもらおう。『病める舞姫』の世界、そして土方巽の暗黒舞踏が、アルトーの考える演劇や詩と、どの程度似ているのかは難しい問題だと思う。ただ彼らが生きていた「場所」の本質、そして、その「場所」をそのまま劇場へと移そうとしたことは、とても似ているのではないか。

 アルトーのいた「場所」、アルトーの考える演劇とは、どのようなものなのか。アルトーは、演劇に「残酷」という概念を結びつけた。つぎのようにいう。


作用するものはすべて残酷である。追いつめられた極端な行動というこの観念に基づいて演劇は刷新されなければならない。(『演劇とその分身』鈴木創士訳、河出文庫、137頁)


演劇は、観客に「残酷さ」を伝えなければならない。しかし、アルトーの言う、この「残酷」という概念は、通常われわれがもっている「残酷」というものとは大きく異なる。

 アルトーは、つぎのようにいう。


人が行う残酷のなかには一種の高度な決定論があり、拷問執行人自身もそれに従い、しかも場合によっては、彼はそれに耐えることを決意しているはずなのです。残酷は何よりもまず明晰なものであり、それは一種の厳格な方針であり、必然性への服従なのです。(同書、165頁)


 われわれが考える「残酷」という概念とは異なり、アルトーの言う「残酷」は、「必然性への服従」なのである。これは、いったいどういうことなのだろうか。

 アルトーは、つぎのようにも言う。


私は残酷という語を、生の欲求と宇宙の過酷さと仮借のない必然性という意味で、闇を貪り食らう生の渦というグノーシス的意味で、その避けがたい必然性の外では生が自らを行使できないあの苦悩の意味で用いています。(中略)そして演劇は絶えざる創造、完全なる魔術的行動という意味でこの必然性に従うのです。(同書、166頁)


 われわれは、既成の秩序のなかで生きていき、他人と共有する言語でコミュニケーションをおこなう。自分の心情を吐露し他人に理解され、他人の言葉によって他人を思いやる。しかし、アルトーは、そうした表面の次元での人間や秩序のあり方を信じてはいない。そうした枠組みでは決してとらえることのできない「生の欲求」や「宇宙の過酷さ」があり、それは、不可避の「仮借のない必然性」としてわれわれを覆っている。そうした必然性のなかでのみ、われわれは、真の創造をすることができると、アルトーはいうのだ。残酷な宇宙を表現することができるというのである。だからこそ、つぎのようにも言う。


「残酷の演劇」は情熱的で痙攣的な生の概念を演劇に回復させるために創造された暴力的な過酷さ、舞台要素の極端な圧縮というこの意味において、演劇が拠り処にしようとする残酷を理解しなければならない。(同書、200頁)


 したがって、アルトーの言う「必然性」というのは、すべてが決まっているという因果の必然性などではない。われわれの生が恒常的に創造しつづけなければならないという宿命的な痙攣のごとき生の概念を指しているのである。だからこそ、つぎのようにアルトーが言うとき、「真の自由」とは、この必然性のなかで生きることを意味していると言えるだろう。


私は強調する、その身体構造を作り直すため、と。

人間は病んでいる、人間は誤ってつくられているからだ。(中略)


私を監禁したいならするがいい、

しかし器官ほどに無用なものはないのだ。


人間に器官なき身体を作ってやるなら、

人間をそのあらゆる自動性から解放して真の自由にもどしてやることになるだろう。


そのとき人間は再び裏返しになって踊ることを覚えるだろう。

まるで舞踏会の熱狂のようなもので

この裏とは人間の真の表となるだろう。(『神の裁きと訣別するため』宇野邦一・鈴木創士訳、河出文庫、44-45頁)


 残酷という生の必然性のなかで生きていくためには、われわれの偽の身体器官や、その器官的な拘束による自動性から、われわれを解放しなければならない。そうすることによって、「真の自由」をわれわれは手にし、「器官なき身体」になって、「裏返しになって踊る」ことができるようになるというのだ。そして、その裏こそが「人間の真の表」となるのである。人間の本当のあり方だというのである。

 アルトーの目指している頂は、土方巽の目指している場所と非常に近いことは、明らかではないか。


<了>

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背景画像:「精霊の巌」彩蘭弥

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