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奥歯からオペラが聞こえる 第8回


中村昇


関節を外すということ



 今回は、土方巽と吉行淳之介との対談を見ながら、土方と暗黒舞踏の本質を考えてみよう。

 吉行との対談は、二つ残っている。一つは、『不作法対談』(角川文庫、昭和48(1973)年初版)という本のなかのものだ。この本では、他にも、檀一雄、小松左京、開高健、安岡章太郎、遠藤周作といった当時最もよく知られた文学者たちが登場している。もう一つは、『週刊読売』昭和50(1975)年4月12日号に載った「「おおー」と風だるまが座敷に……東北人の訪問」というものだ。前者の方が、量も多く、内容も濃密なので、今回は、『不作法対談』の方を見てみよう。

 この対談は、おそらくいままで何度も何度も折に触れ、読んできたはずだが、今回改めて読んでみて、その豊饒さに驚いてしまった。土方の最も奥にあるものが、惜しみなく開陳されている。なぜ私が、あれほど土方に影響を受けたのか、いまだに土方のことを「謎」だと思っているのかも、今回の再読で、少しわかったような気がした。

 変にまとめずに、話の順序にそって見ていきたいと思う。

 吉行が、テレビで土方を見たという話から、二人の対談は始まる。吉行は、テレビで土方が「押入に入れられて、棒でなぐられると、だんだんなぐっている人間が巨大になったとおっしゃってたが、あの話がおもしろかった」(115頁)という。

 すると土方は、その話を受けて、「テレビ局なんてところは、細部を丹念に話しあえる場所じゃないですね。ああいう場所につれて行かれると第一、床がすべるでしょう、あれで安定を失うんですね。カメラを据えつけて、あのフレームに入れられるのがいやでね」(115頁)とこたえる。ここで土方の存在そのものが露呈しているのがわかるだろう。

 非日常の清潔さがあり、床がすべり、カメラのフレーム(幾何学的な枠)によって、ことがすすんでいくような場所に対する底知れない嫌悪感は、土方、そして舞踏のもつ本質と通底している。土方は、あくまでもわれわれの日常がもつ汚れや暗さ、でこぼこや不気味さを重視し、ざらざらしていて、植物が繁茂し、昆虫がそこかしこ飛ぶ土地にたっているのだ。そして「フレーム」という既成の枠組みには、決して入らない対象や<物そのもの>に凝と視線をそそぐ。

 舞踏の出発点は、私たちは、抽象的で普遍的な存在ではない、という確信だと思う。「床がすべる」ような場所で、個々人のもつ偏った身体や細部にはかかわらない通りのよい話をするというあり方とは、まったく逆の立場なのだ。つぎのような言い方もしている。


 それがまた根源的なことなんですよ。私には何でも一つの根源的なものになってしまうんですね。さっきも言ったように、全体とか、広がりとかいうと、自分でも分からなくなってしまうんですね。(116頁)


 土方にとって、たとえば「床がすべる」テレビ局で、自らの身体や気持ちの特殊なあり方とは異なる普遍的な話(「全体とか、広がりとか」を基盤にすえたもの)をすることは、そもそもできないということだろう。どんな人間でも、訓練(教育)すれば、床のすべるテレビ局で、もっともらしいことを言うことができるというのは、土方には、思いもよらないことなのだ。

 ある種の人びとにとっては、ごく些細なことだと思われることも、土方にとっては、「根源的なこと」なのであり、べつの言い方をすれば、他の多くの人とはちがい、それらのことは、その一歩からとてつもない障害になるのである。広大無辺の普遍的なことを訳知り顔をして、床がすべるテレビ局でとうとうと喋るなんてことは、そもそも思いもよらない不可能事なのである。

 さらに、つぎのようにも言う。


 そこでうずくまって、ちぢこまって凝縮しよう凝縮しようとがんばるわけです。そういうものが自然の中にあって、あまり言葉で長話はできないという立居ふるまいが生活の中にありましてね。(116頁)


 「言葉で長話はできない」という生活は、「床がすべるテレビ局」で長々と話をするコメンテーターや、講演や大学で、誰でも納得できるような話をするあり方とは、遥かに遠い。「長話」などそもそも存在しない空間で舞踏は始まるのである。「長話」をするためには、いろいろな言葉をあやつり、その言葉によって、世界をクリアに分節し、さらに、その分節された世界を、その「長話」を聴いている人たちと共有しなければならない。土方は、そんなところにはいたくない、と言っているのだ。

 さきの「フレーム」という言葉もそうだが、特定の型やカテゴリーに分類することの堕落を、ここでは指摘していると言っていいだろう。だから、吉行が、「アンダーグラウンド」について質問したのに対して、つぎのように土方が答えたのにも、べつの含みを読みこんでみたくなる。


 小劇場運動とかアンダーグラウンドがひとつの枠になってて、枡(ます)で計られるようになってはダメですね。(120頁)


 ここでは、現象として「小劇場」や「アングラ」と名指されるようになってはダメだということだけではなく、そもそも、そのような枠をつくること(カテゴリー化)自体を否定していると言っていいだろう。どんなものでも、どんな事態であっても「枡で計る」ことなどできない、と土方は言っているのだ。

 また、土方しか語れないようなとんでもない仮説も飛びだす。人間の足について、つぎのように言う。


 ほんとうは足は四本ついてたんじゃないかと思いますね。すべり止めの足と、歩かなきゃならない足と。それがだんだん田圃なんかに出ると、片方の足を外すんですね。それで印鑑だと、三文判みたいになって、(中略)一本足になるんですね。(122頁)


 いかにも土方らしい語り(騙り)だ。さすがに吉行は、「もうちょっと分かりやすくお願いしますよ」と当惑している。しかし、土方の語彙には、「分かりやすく」という語はない。なぜなら、「分かりやすく」というのは、既成の枠組のなかで、他の人たちと世界の分節を共有し、理解しあうことだから。土方は、そんなことは、つゆほども信じていない。「すべる床」や「枡で計った」領域には、絶対に近づかない。

 土方が目指すのは、「ぼくはやはり家の者が、戸棚に首つっこんでまんじゅうを食うというようなものがあると思うんですよ、国籍を問わず。そういうものを無きずのまま取上げてみたいという、切羽つまった滑稽なものを舞台にのせたいという」(125頁)ことなのだ。

 つくりものではなく、誰もがわかるような一般的で既成のものでもない<そのまま>を「無きずのまま取上げてみたい」のだ。そのためには、わかりやすい世間の秩序から離れ、誰もが手さぐりですすむしかない異界で棲息しなければならない。これも、本当のことかどうかわからないが、つぎのようなことも言う。


 たとえば、ぼくはどうしても学校に行きたくなかったんで、左の関節を外したんですよ(笑)(126頁)


 笑える話ではないと思うし、「左の関節」というのは、どこの関節かも判然としないけれども、いかにも土方巽らしいエピソードだと思う。会った人はわかると思うが、それぐらいのことはやりそうな人なのだ。それに、これは、とても象徴的な話だろう。

 われわれの身体は関節によってできている。われわれは、関節構造によって日々生きていく生物だ。そして、この関節は、もちろん人類に共通の身体器官を支える骨組みとなっている。われわれは、端的に「関節で築き上げられた骨格」なのである。そして、多くの関節構造(人間)が、関係しあう(関節的に接合しあう)ことによって、この社会はできあがり、秩序という社会関節構造(社会という骨格)が成立する。人間は、既成の器官をもち、社会もまたさまざまな関係や機関や構造によって成立している。

 そのようなもろもろの既成の器官(機関)を支える「関節」を「外す」という行為は、身体からも世界からも、一気に「外れる」ことを意味しているだろう。世界という関節構造からの離脱を意味するだろう。

 そのとき土方は、つぎのようなことを感じる。


 そうしたら動けなくなっちゃって道路にピタッと坐って、まわりを見てたら草が生えててね。そういうときは、とても涼しい感じですよ。(126頁)


 何ものにもとらわれない、できあがったすべてのものから離れた根源的な「涼しさ」の場所に、土方はたどりついた、と言えるかもしれない。

 こここそ、暗黒舞踏が成立する場所だとも言えるだろう。結論的にいうと、もろもろの関係性が生まれる以前の根源的「涼しさ」で舞踏が生じるのではないか。だからこそ、おそらく私は、暗黒舞踏(麿赤児)を初めて見たとき、一瞬にしてすべてが達成されている懐かしさを覚えたのだと思う。

 あらゆる既成のもの(何ならビッグバンや進化史もそこに含めていいかもしれない)ができあがる前の根源的な「涼しさ」がそこにあったのではないか。この「根源的涼しさ」の正体を探るのも、この連載の一つのテーマだと思う。

 私たちの先入見や環境や人間関係によって「つくられた」身体のあり方を、土方は、つぎのような言い方でも指摘する。


 踊りやってる人たちが、たとえば稽古場にきて、さあ稽古をはじめようというと、すーッと立つんですね。そうすると私は分からない。立とうとしても立てない人もあるわけです。立てないものを立たなきゃいかんといわれた体験はなかったかどうか。稽古をいうとすーッと立って、ピアノを鳴らす。それが分からない。(128頁)


 小さい頃から、学校や家庭などいろいろなところで飼いならされた身体をもつわれわれは、多くの動作を意識せずに「自然と」できてしまう。たいていの人は「すーッと立つ」ことができる。挨拶と同じだ。人にあったら、当たり前のように挨拶する。

 それは、われわれが、いかにさまざまな規則に無意識のうちにしたがってきたかを示している。われわれの身体や動作や考えには、本来は、どこにも「当たり前」なんてものはないはずなのに、「自然で」「当たり前の」「普通の」動きや考えが、われわれのなかに浸み込んでしまっている。

 土方は、こうも言う。


 どうしても瞬間にこと切れるような男の裸体がほしくて、舞台に電柱みたいに並べるわけですね。一つでも呼吸したら許さんぞといって。そのデリカシーが分からない人がいる。(128頁)


 ここで土方が言っている「デリカシー」こそが、暗黒舞踏の根源にある「涼しい」場所のことなのだ。

 今回は、かなり暴走した。それは、私が一番わかっています。(笑)

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