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奥歯からオペラが聞こえる 第6回


中村昇


器官なき身体


 毎週、目黒のアスベスト館に通い、「歩行」をつづけていた。自分自身の身体が、根本から再編成されるような奇妙な感覚を日頃から抱くようになっていた。われわれの生活にとっては「無意味」な歩行を恒常的におこなっているうちに、「有意味」な身体図式(普段の生活のための身体のあり方)のおかしさや強制力にいちいち気づくようになるのだ。身体がばらばらになり、奇妙な動きを思わずしたくなる。

 土方の有名な「手ぼけ」という概念がある。われわれは、通常は、テーブルの上にあるコップを意識せずにすっと手にとる。そして、そのなかの液体(例えばコーヒー)をためらうことなくぐっと飲む。しかし、土方は、もしそのコップが、われわれにとって未知の物体であれば、そんな恐ろしいことはできないだろうという。<それ>が未知の対象であれば、おそらくわれわれの手は、そのコップ(かどうかさえわからない<もの>)の周りを、さまよいためらい探りつづけるだろう。眼前にある未知の生物、未知の物体を恐れて、手は、さまざまな角度から<それ>に近づき様子を探るにちがいない。

 そして、安全をたしかめたら(あるいは、たしかめられずに心を決めて)、ゆっくりと<それ>に触れるだろう。さらに<それ>の反応や硬さや重さをそっとたしかめ、ためらいながら、そろそろと、もちあげるにちがいない。これが「手ぼけ」ということだ。

 手は、本来は「ぼけて」いなければならない。あるいは、「ぼけて」いるはずなのだ。カントのいう「物自体」が、感性・悟性のフィルターなどお構いなしに、ごろっと目の前に現れたら、手はいったいどうするのか、というわけだ。

 手だけではなく、われわれの身体器官すべて(何なら細胞全部)は、生まれてからずっと、この世界向きの身体(器官)につくりかえられている。毎日毎瞬「洗体」(「洗脳」と同じ意味で)されているのである。既成の身体図式を、無理やり身につけざるを得なくされている。つまり、決まった肉体の動きを、徹底して(でも、とても自然に)植えつけられているのだ。この「洗体」をゆっくり砕き剥がしつづけるのが、暗黒舞踏(の第一歩)だといえるだろう。

 アントナン・アルトーの「器官なき身体」という言葉がある。アルトー自身の言った意味やドゥルーズ=ガタリが使った概念とは異なるかもしれないが、私は、この言葉をこう解釈している。われわれの器官は、自分自身で創ったものではない。感覚器官が、なぜか殆ど前方を向いていること(視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚器官は、すべて前向きにできている)。眼球が二つしかないこと。口も鼻も一つしかないこと。もっとも重要な大脳が、不安定な最上部に位置していること。四肢の数とその使いにくさ。内臓器官の恣意的な位置などなど。

 これらは、私が設計したものではないし、その位置やあり方にきちんとした理由があるわけでもない。それなのに、この身体を使って、われわれは一生生きつづけなければならない。しかも、諸々の事情により、この世界の、あるいは、この共同体の特殊な「身体図式」を強制的につくりあげて。

 このような二重の強制(既成の器官群と「洗体」)によって、われわれの身体は存在している。それらの既成の「器官」と「洗体」を、すべて破砕しつくすこと、そして破砕した結果を「器官なき身体」と呼びたいのだ。この強引な意味の改変をアントナンも喜んでくれると思う(笑)。

 暗黒舞踏は、あきらかにこの「器官なき身体」を目指していると思う。「舞踏」とは、「何ものでもない身体」(「身体」ですらないもの?)という<物自体>へたどり着こうとする実験的パフォーマンスなのではないか。

 それはさておき(?)、「歩行」に余念のなかったその頃、アスベスト館が経営するお酒をだすお店(「ショーパブ」的なお店)でアルバイトもしていた。最初は、六本木に一軒だけだったが、私がいた最後の頃は、赤坂にさらに二店だしていて、全部で三つのお店があった。私がやっていたバイトというのは、開店前のお店の掃除、赤坂や六本木の路上でのビラ配り、お店の入口での見張り(?)、お店のカウンターのなかに入って(ほんとに適当な!)お酒つくり、酔っぱらったお客さんの話し相手などなど、さまざまだった。

 バイトが終わると、いつも終電などないので、六本木や赤坂から、当時住んでいた新宿区原町のアパートまで歩いて帰っていた。このアパートは、若松町の交差点にあった。現在の地下鉄大江戸線の若松河田駅の近くである。当時はあの辺りは、バスだけが交通手段だった。早稲田大学、東京女子医大病院(1986年に、土方巽が亡くなった病院)や、お台場に移る前のフジテレビの近くだった。

 地下鉄東西線の早稲田駅から夏目坂(漱石の生家のある通り)をのぼりきったところにアパートはあった。当時は、落語にのめりこんでいなかったから意識しなかったが、古今亭志ん朝師匠の自宅のある「矢来町」のすぐ近くだった。(ご縁があります!)新宿へも池袋へもお茶の水へもバスで行けるとても便利なところだった。

 なぜかその頃、後飯塚が、そのアパートに転がり込んできたことがあった。何ヶ月くらいだっただろうか。結構長く住んでいた記憶がある。大学の駒場寮を追いだされたとかで(何しろ、この人は高校の頃も寮を追いだされた人だから 笑)、大きい頭陀袋ひとつでやってきた。

 これは前にも書いたけど、この男は、大変な文学の才能をもっていた。中学か高校の時の文芸部の雑誌で、その作品を初めて読んで圧倒された。その頃も突然小説の内容を語り始めて、その面白さに感動した覚えがある。後飯塚は、当時、吉増剛造や天沢退二郎の詩集や小川国夫の小説などを好んで読んでいたと思う。残念ながら(?)、多田富雄さんの弟子になって免疫の研究者になったのだが。

 目黒で稽古をし、夜は赤坂や六本木でアルバイトをつづけているうちに、土方巽に山本萌さんという舞踏家を紹介された。土方のお弟子さんで、金沢を拠点にして舞踏をつづけている人らしかった。そして、詳しい経緯は忘れてしまったが、後飯塚、加藤博さんと私は、金沢舞踏館所属となった。もう一人、初期の「夢の遊眠社」にいた大杉空也さんという方も同時期に入ってきて、四人が同期の稽古仲間となった。

 こうして、私がアスベスト館にいた頃は、普段は、六本木、赤坂でバイトをしながら、目黒で稽古をつづけ、夏休み、春休み(一応、その頃は、私は大学生だったので)は、金沢舞踏館へ行き、合宿をするという生活だった。金沢舞踏館は、学校の体育館のようなところで、犀川の近くにあった。冬は、舞踏館の屋根にのぼって雪下しをした。なぜ、そんなことを覚えているかというと、その頃から突然、高所恐怖症になったからだ。高校の頃までは、高いところが平気だったのだが、その頃から、高いところが、なぜか、からっきし駄目になっていた。だから、すごく鮮明に覚えている。ひたすら怖かった。

 稽古に入る前に、まずは犀川沿いを長い距離走っていた。それだけで結構くたくたになった。それから稽古が始まる。山本さんは、とにかく舞踏の技術が卓越していた。細かい技術から、大きい動きまで、実に優美に正確に動くことができる舞踏家だった。われわれは、山本さんに、丁寧にひとつひとつ教えてもらった。その頃は、山本さんが教えてくれたことを、詳細にノートにとり、それを繰り返し稽古した。ひじょうに細かく動きを教えてくれた。だんだんと稽古の内容を思いだしながら、じっくり分析していきたい。

 今回は、これで勘弁してください。笑

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