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奥歯からオペラが聞こえる 第5回


中村昇


歩くということ


 長い長い助走が終わり、ついに「歩行」の練習が始まった。とうとう舞踏の世界に足を踏み入れたのだ。稽古は始まったばかりだったのだが、今から考えると「歩行」は、暗黒舞踏の本質を示していたように思われる。舞踏は、稽古の始まりからすでにその本質を示していたのだ。つまり、「ただ歩くだけ」という行為が、舞踏の一番肝要なところをまるごと表していたのである。極論すれば、歩くことさえできれば、舞踏は完成されるということなのかもしれない。

 歩行の稽古は、目黒の稽古場を、ひたすら行ったり来たりするだけだった。土方巽が、銅鑼のようなものを叩きながら、われわれはただ歩く。まっすぐ前を向いて垂直に身体をたてて歩く。そのとき土方は、いろいろなことを口にしつづける。滝のような土方の言葉を浴びながら、ゆっくりゆっくり、われわれは歩きつづけなければならない。身体を曲げたり、四肢が余計な動きをしてはいけない。垂直な物体が、まっすぐ平行に移動していくだけ。

 土方は、「天界と地界のはざまを、頭の上に硫酸がたっぷり入った大きく平らな皿を乗せてゆっくりと歩いている」と最初にいう。さらに「少しでも皿が傾いたら、硫酸がこぼれおち、身体が、そして世界が溶けてしまう」などという。さらに天界と地界の様子をつぎつぎと描写しつづける。本当に稽古場が、異界に変容していくかのようだった。ときには、「ほら、奥歯からオペラが聞こえるように歩いている」などという。とにかく、こちらは、土方の言葉のおそろしく豊饒なシャワーを浴びながら、意味など捉えるいとまもなく、ただただ歩いていかなければならない。

 土方のとてつもない言葉を浴びながら、何も考えずに(ただ、現実的ではない夢のようなイメージは明滅しつづけている)歩いていると、身体全体が、ひたすら平行移動するためだけの物体のように感じられてくる。その場や周りの環境の影響はなにも受けずに、重力からも遊離した、棒のような物(身体)の平行移動に、ただ立ち合っているだけという気になってくる。


世界を止める


 土方巽の実際の舞踏は見たことがなかった。私がアスベスト館に入門した頃(一九七八年頃)には、もう土方自身は、踊ってはいなかったし、それ以降二度と舞台に立つことはなかったからだ。のちに映像や写真で見たことはあったけれど、そのなまの迫力は知らない。ただ、土方が、とんでもない舞踏手だなと思う瞬間はあった。

 稽古をつけていて、私のそばに来て、「いやいや、そこはそうじゃなくって、動きを止めるんですよ」などといって、土方自身が動きを止める仕草をするのだが、これは、本当に(!)冗談でも誇張でもなく、「動きが止まる」のだ。土方の動きだけではなく、稽古場全体、あるいは、目黒区、関東全域、いやいや地球全体の動きが止まるのである。これは、土方と一緒にいて経験しなければわからないと思う。「本当に世界が止まる」のだ。いや、土方が「世界を止める」のである。そのときは、とてつもなく驚いた。これは、本物だと心底思った。


舞踏の本質


 さて、「歩行」が舞踏の本質を表しているというのは、どういうことだろうか。この歩行の特徴は、ただ歩くこと、しかも、サルバドール・ダリやポール・デルヴォーの絵画のなかを誰にも気づかれずに歩いているようなものなのだ。異界における孤独な作業であり、これまでの「身体図式」(地球上でわれわれが体得した、日々の生活に必要な身体のあり方や動き方)をすべて剥ぎとった歩き方なのである。

 「歩行」の稽古というのは、この「ただ歩く」というのが、実は大変な作業だということを体得するためだけの稽古だったといえるだろう。われわれの日常生活でどうしても必要なことを、だが、舞踏には、不必要で余計な夾雑物になるようなものを、すべて脱ぎ捨てる作業なのだ。それは、どういうことなのか。

 われわれは、ただ歩いたりはしない。朝起きて、ただ歩く人はいない。われわれは、朝起きると、顔を洗う

に洗面台に向かう。朝ご飯を食べるために食事をする場所に行く。用を足すためにトイレに駆け込む。仕事に行くために駅に向かう。

 いやいや、散歩があるだろう。散歩は、ただ歩くだけではないか。そうだろうか。散歩も「健康のため」「気分転換のため」「ついでに用事を済ませるため」ではないのか。「歩くこと」だけのために、「散歩をする」人はいるだろうか。いやいや、これも「歩くため」ではないか。「歩くため」ではない「歩く」という行為が存在するだろうか。

 われわれは、いつも何かにせきたてられて生きている。そうではないという人もいるかもしれないが、しかし、よくよく考えてみると、つぎの瞬間のために、いまの行為をしている人がほとんどだ。このことには、いろいろな理由があるだろうが、ひとつは、われわれには、誰でも未来があり、必ず前を向いて移動せざるを得ないということがあるだろう。

 時間が否応なく流れていて、われわれは、そのなかで前進(前に進む)する。時間は、絶対に後戻りしない。この時間的な構造(過去から現在へ、そして未来へ)が、そのまま、われわれの空間的な行為にも移されて、われわれは、常に前に進む。もちろん、後ろ向きに歩いたとしても、それは、前進している。ここから次の場所に移動して、その次の場所にたどり着くと、そこは未来(過去の<今>から前に進んだ時点)だからだ。時間の進行とともに、空間の移動もある。すべては、前に進んでいる。

 だから、われわれは、どうしても何かを目指すという姿勢、何かに向かう方向性を本質的にもつ存在だといえるだろう。明確な目的や意図をもって歩いたり、あるいは、ぼんやりと、でも何となく先のことを考えて歩く。これは、フッサールの「志向性」といった概念やハイデガーの「世界内存在」(有用性の連関によって、人間だけが、自分だけに役にたつ「世界」をつくっている)という概念にかかわることだろう。だが、これは、またべつの機会に話したい。


「役にたつ」ということ


 このような姿勢や構造をもっているので、われわれは、どうしても「何かのために、何かに向かう」のである。だから、その逆の行為である、すべてのしがらみ(「~のため」の連関)から解放されて、ただただ「歩く」ということは、とてつもなく難しいことなのだ。この難しい行為こそ、「歩行」だといえるだろう。何ものとも、どんな用件ともかかわりなく、ひたすら歩く。歩くだけ。これが、「歩行」の基本なのである。

 「役にたつ」という言葉がある。この言葉は、大変な呪縛力をもっている。われわれは、「役にたつ」ために生きているかのような錯覚を抱くくらいだ。われわれが、こうして生きていることの意味など誰にもわからないし、われわれは、もぞもぞ何十年か生きて、あっという間に向こうの世界に旅立つ。それなのに、「役にたつ」ということに何か意味があるかのように語る人たちがいる。そういう岩のように堅固な先入見をひとつひとつ剥がしていく。これが、暗黒舞踏なのである。

 この稽古を、とにかく延々とやった。三か月、四か月、あるいは、五か月くらいやっただろうか。とにかく、目黒の稽古場に毎週行き、何時間も歩きつづけた。土方の銅鑼と天上からの目くるめくような言葉の群にさらされて、ただただ平行移動しつづけた。ただの棒になるために、ただの物体になるために歩きつづけた。

 この稽古を続けているときは、もしかしたら、自分は、一生このまま歩きつづけるのだろうか、と思ったくらいだ。ただ、それでもいいか、とも思った。だって、その前の掃除や工作やお歳暮の時期に比べると、はるかに暗黒舞踏らしかった(?)からだ。歩行するだけ。それだけで、まあまあ満足していたのだ。その当時は、「歩行」の真の意味はよく分からなかったけれども。

 この稽古をしているとき、土方巽は、私たちをじっと見ながら、「この歩き方を、全人類がはじめると、革命が起きますよ」としずかに呟いた。私は、その意味をかみしめながら、土方の表情に深く見入っていた。

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