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奥歯からオペラが聞こえる 第4回


入門から稽古まで

中村昇



 こうして、私は、土方巽という天才のいるアスベスト館に入ったのだった。予備校生であった11月に、プロの暗黒舞踏集団に入ったので、受験勉強はまったくやらなくなった。というか、「それまでやっていたのか」と問われると、「やってなかった」と答えざるをえない。したがって厳密にいえば、ほんの少しあった(はずの)受験勉強をやる可能性さえなくなったというべきか。


 そもそも代々木ゼミナールという予備校を選んだのも、受験のためというよりも、小田実が英語を教えていたからだった。高校の頃に、『何でも見てやろう』を読んで衝撃を受け、それから小田の書くものは、手にはいるかぎり読んでいたからだ。ようするにファンだった。小田が17歳の時に書いた作品『明後日の手記』というえらく暗いものも好きだった。一見そう思われないけれども、小田は、文学的にはとても早熟だ。


 小田の「英語読解」と「英作文」という二つのクラスを履修した。驚いたことに、この人は、予備校の授業なのに30分ほど必ず遅刻してきた。大きい鞄をもって、やってきて、大阪言葉の混じったものすごい早口で授業を進めていった。読解の授業では、英語の新聞をみんなで読み、英作文では、最初に「私とは何か?」という課題を教室で書かされた。私は、何やら哲学的なことを書いた。すると小田に「いや、そういうことを訊きたいわけじゃない」と一蹴された。


 でもこうして11月で、小田実のいる代々木ゼミナールとは、きっぱり縁を切った。そして、スキンヘッドの眉無しになった若者は、目黒のアスベスト館に通い始めたというわけだ。最初は、舞踏の稽古などまったくなく、稽古場の掃除をしたり、何か訳のわからないもの(障子とか襖とか)をつくったりした。面白いと言えば面白かったのだが、金槌で釘を打ちつけていると、土方がじっとこっちを見ていて、「まだ金槌になっていませんね~」などと秋田弁の残った高めの声で指摘する。とにかく、こちらがしていることを、じっと見ているのだ。髪の毛が腰まで長く、それを頭の上にまとめた、当時50歳くらいのおじさんから、こんなことを言われるのは、何とも不思議な薄気味悪さだった。


 アスベスト館は、目黒の住宅街の奥まったところにあり、一階は稽古場(以前は、ここで公演をしていた)、二階は土方の書斎だった。稽古場もそうだが、二階の書斎も掃除するように言われることがあった。土方が朝方まで書いていたらしいノートが開かれていたのでちらっと見ると、鳥の鳴き声が、鳥の名前と対応させて、たくさん書いてあった。「何これ?」と思ったのは、言うまでもない。天才のやることは、よくわからない。

 土方も、指導(掃除や家具作りの)してくれたが、二人の女性の舞踏家にも、いろいろ教わった。芦川羊子さんと仁村桃子さんだ。この二人には、最初の頃は、とてもお世話になった。芦川さんは、踊りを見ると、もうおそろしいくらい精確無比で、ある種の完成された身体機械だが、実際会うと、とても気さくで、ときどき面白いこともいう人だった。ただ、やはり特別のオーラがあり、近づきがたい雰囲気をまとうこともあった。もう一人の仁村さんは、本当に良い方で、とても優しいお姉さんといった感じだった。とはいっても、暗黒舞踏の世界では有名な方なので、ただものでないことはたしかなのだが。


 最初は、土方巽とこの二人に、いろいろ指示されて動いていた。暗黒舞踏の本山アスベスト館に入ったのだから、もっと非日常的な出来事が、これでもか、これでもか、と起こるのかと思っていたのだが、そんなことはなく、掃除、家具工作などの日常がつづいていった。でも、夜になると、二階の土方の書斎で、ときどき酒盛りが始まった。土方を中心に、朝方まで盛り上がることもあった。


 とにかく、土方巽の話が面白かった。わけのわからない言葉が、つぎからつぎにでてくる。そのまま詩になるような言葉が、普段から口をついてでてくるのだ。それだけではなく、唐十郎のものまねをしたりもする。これがとてもよく似ていて絶品だった。まわりは爆笑していた。当時の土方は、「もう食べることには興味がないんですよ」といって、赤ワインばかり呑んでいた。


 夜中の三時ごろ、酒が切れると、酒を買いに行かされた。その頃は、今とちがい、コンビニはなかったので、暗い目黒の住宅街で酒屋を探し、シャッターをどんどんたたき、店の人を起こしていた。すると、かなり怒った店主がシャッターを開けて、でくるのだが、目の前に「午前三時のスキンヘッド眉無し」が立っているので、黙って赤ワインを売ってくれた。いま考えるとひどい話である。


 そんな生活をしているうちに、12月になった。すると、土方がお歳暮の話を始めた。しかも、後飯塚や私に、直接相手にお歳暮を「持っていく」ように、という指令がくだったのだ。これは、かなり驚いた。もちろん、お歳暮という存在は知っていた。生家でそれらしいものを見たこともあるし、もしかしたら、貰ったそれを食べた経験もあったかも知れない。しかし、今までお歳暮のやりとりなどに積極的にかかわったことは一度もなかった。よくわからない面倒な行為という意識しかなかったのだ。つまり、伝統的にこの国でおこなわれているけれども、本来は、必要のない行為だと思っていたのだ。


 ところが、そのような行為にもっとも遠いところにあると勝手に思いこんでいた暗黒舞踏の世界に足を踏み入れた途端に、お歳暮が容赦なく目の前に現れ、お歳暮にかかわらざるをえないことになった。お歳暮やお中元が普通に飛び交う故郷(私の母親は、異常に贈り物が好きな女性だった)から離れ、しかも日常的な世界からもっとも離れた暗黒舞踏という場所に来たはずなのに、とつぜん、原点の風景がふたたび眼前に現れたということになるだろう。しかも、お歳暮を「送る」のではなく、「持っていく」という。これらのことは、何もかもが、今まで経験したことのない(しかし、同時にデジャヴュのような)新鮮さだった。


 これは、吉本隆明のいっていた「遠隔対象性」という概念に当てはまることかもしれない。吉本の言い方を引用すれば、「人間は、観念の過程にあるかぎり、つぎつぎに、より<遠隔>にあるものを、対象として志向するものだ」(『書物の解体学』講談社文芸文庫、8頁)ということである。親や教師という身近な人間に最初に接触し、つぎにそれらを否定し、そこから観念的に遠隔のものへとどんどん向かっていく。そして最終的に、ドストエフスキーやランボー、あるいはウィトゲンシュタインにたどり着く。つまり、かなり遠いものへ観念的に向かっていくということである。しかし、そのとき、最初にあった<近親的なもの><近くにある対象>は、なくなってしまうのではなく、ずっと潜在している、と吉本はいう。だから、私が土方巽の「お歳暮」に衝撃を受けたのは、ずいぶん遠隔の対象(土方巽)にたどり着いたはずなのに、みずからの土着の<近親的なもの>が、ぬっとでてきて驚いたということだろう。


 さて難しい話は、これくらいにして話を戻そう。そのとき私がお歳暮を持っていく先は、いま考えるとすごいメンバーだった。吉岡実、三好豊一郎、田中一光、阿部良雄、吉行淳之介といった人たちだ。吉岡実は、その頃、詩人として最も好きな人だった(もしかしたら、いまでも)から、とても嬉しかった。吉岡さんに直接お歳暮を渡したときの光景は、いまもまざまざと眼に浮かぶ。三好さんのうちは、その後私自身が長く住むことになる八王子だった。街中の煙草屋さんが、三好さんのおうちだった。グラフィックデザイナーの田中一光さんの事務所、阿部良雄先生の自宅、そして吉行さん本人はいなかったが、この有名な小説家の上野毛の自宅に持っていった。アスベスト館からとはわかっていても、ドアを開けると「スキンヘッドの眉無し」が、お歳暮を持ってくるという経験は、どうなのだろうか。機会があったら、逆の立場になって経験してみたいと思わないでもない。後飯塚の持っていく先は、澁澤龍彦や種村季広だった。種村さんの家では、うちにあげてもらい、鍋を御馳走して貰ったと言っていた。その話を聞いた時、「いいな~~」と言ったのを覚えている。


 そうこうしているうちに、半年くらい経っただろうか。ついに舞踏の稽古が始まった。最初は、「歩行」という稽古だった。ただただ歩くだけ。これを延々とやり続ける稽古だった。この話は、また次回に。

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