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奥歯からオペラが聞こえる 第3回


中村昇



麿赤兒の衝撃


 バッハのトッカータとフーガが鳴り響くなか、未知の白い生物が、左上の天井にいた。その生物が、ゆっくりと降りてくる。その生物は、白い長い布を纏い、なぜかその布から顔がひとつでていた。禿頭の不思議なしわしわの顔。白塗りされ、あらゆる表情が深く畳み込まれたような<それ>が、白く長い布の上に載っている。その白布頭は、上空から地底へと降下する小動物のように、ただし、引力に抗(あらが)いながらゆらゆらと落ちてきた。そこだけに、世界の創造に相応しい弛緩(しかん)した時間が流れていく

 その生物は、コトッという小さな音がしたのでは、と錯覚させるような仕方で、静かに舞台に沈み込む。そこから、その生物はおもむろに蠢(うごめ)き始めた。舞台奥を右の方へ1ミリずつ移動し始めた。明らかに、この生物は昆虫の集合体だ。顔のなかの底無しの皺(しわ)、五本の指の蜘蛛のような動き。細かく無意味に動き続ける指。指の動きにフォーカスがあたっているかのように視点が凝縮されていく。

 あらゆるところに、昆虫が潜んでいる。そして、顔と白い布と指とは、別の天体からきた昆虫群のように、勝手に動き続けている。それぞれの部分が微細な動きをする、この集合体は、舞台をゆっくりゆっくり右に移動していく。永遠の時が刻まれていく。動きはたしかにあるのに、時間は流れていない。これは、なんなら<純粋持続>だと言ってもいいだろう。

 こうして、麿赤兒が、私の世界に登場したのだ。この時の恐ろしく静かな衝撃は、今も私のなかで蠢き生きている。まざまざと思いだすことができる。あまりにも深く魂に刻まれているからだ。この麿(まろ)神(がみ)による世界創造の独舞の後に、駱駝館の面々による様々な狂気の群舞が繰り広げられた。世界創造後の無数の存在者たちが繰り広げる無礙の生存劇。とてつもなく長く永劫の舞踏の初体験だった。とことん圧倒された。これが、<本当の世界>だとその時なぜか思った。

 そんなことをしたのは一生に一度だけなのだが、講演後、三人で楽屋に飛ぶように走りこみ、駱駝艦の舞踏手達に、着ていたTシャツに、次々とサインをしてもらった。その時なぜこんなに感銘を受けたかを考えることは、この連載のテーマとも深くかかわってくる。いまふりかえって結論だけ言えば、やはり、何もかもが一挙に達成されているということ、そして、真の始源の世界の光景にであったという感激だったのだと思う。このことは、これから、ゆっくりと考えていきたい。


アスベスト館に入る


 観劇後、この衝撃の正体を突き止めるためには、自分で舞踏をやるしかない、と思った。演劇ではなく、舞踏に、すべてのヴェクトルが向かい始めたのだ。ただ、その頃は、まだ代々木ゼミナールに通う予備校生だったので、とりあえず大学に入学してからかな、などと情けないことを漠然と考えていた。ところが、一緒に駱駝艦を見た後飯塚(既に大学生)が、さっさとアスベスト館に入ってしまった。それを聞いた私は、五秒程、躊躇(ためら)ったが、すぐ後飯塚のあとを追った。

 そして、加藤さんも(しぶしぶ?)入ることになった。そこで、このいかれた三人組は、暗黒舞踏のフォーマルな髪型になるために、どこの床屋でスキンヘッドになるのが一番いいか、侃侃諤諤(かんかんがくがく)議論した。長くくだらないこの議論の果て、稲垣足穂の専属髪切りであった栗原生死という床屋さんがいいだろうということになった。渋谷駅からバスにのり、三(み)宿(しゅく)の栗原理容店に行き、三人気持ちよく、眉毛も剃ってもらい綺麗な丸坊主になった。眉無しのスキンヘッドという暗黒舞踏家の公式髪型だ。そして、土方巽のアスベスト館に三人勇躍揃って入ったのだった。

 しかし、なぜ舞台を見て心底感動した、麿赤兒が主宰する大駱駝館ではなく、土方巽のアスベスト館だったのか。それは、実は、今もってよくわからない。なぜなら、アスベスト館を選んだのは、後飯塚僚(いまは、東京理科大の生命医科学研究所の教授です。笑)だからだ。彼に訊いてみないと、本当のところはわからない。ただ、おそらくこういう事情だったのではないか、という推測はできる(訊けばすぐわかるのだが、それは親しいなかにも礼儀はあるので、できません?)。当時の『新劇』という雑誌に、アスベスト館の劇団員募集が載っていたのだ。

 その頃、和栗由紀夫さんという土方巽の男性の一番弟子と言える人が、『楼閣に翼』という土方の演出・振り付けの舞台を1978年10月にやり、それを最後にアスベスト館を退団した。そういう事情から、アスベスト館は、劇団員を募集していたのではないか。そして、それを、後飯塚は見たのではないか(あくまでも個人の推測です)。それに、後飯塚は、(これも個人の妄想です)当時『新劇』に連載されていた土方巽の『病める舞姫』の熱心な読者だったにちがいない。何しろ、後飯塚は、いまでこそ免疫の専門家になってしまっているけれども、10代のころから、詩人としての比類なき才能をもっていたからだ。この才能は、天才・土方の畏るべき文才とも一脈通ずるのだ。だから、あの男が、『病める舞姫』を読んでいたとしても、何の不思議もない。その流れで、劇団員募集も見たのだと思う。妄想終わり。


天使・笠井叡の舞踏


 こうして予備校生だった1978年11月に、アスベスト館に、私は、入ったのである。もちろんそこで、天才土方巽に初めて出会う。土方の話をする前に、同じ時期に見たもう一つの舞踏の思い出を書いてみたい。

 駱駝艦を見た後、演劇だけではなく、暗黒舞踏も見るようになった。そのなかでも、最も印象深かったのは、笠井叡の舞踏だった。新宿西口の厚生年金ホールだったと思う。今まで見てきた舞踏とは、まったく異なる「美しい」踊りだった。もちろん、わかりやすい既成の美ではない。表層の美の基底を流れる「美のイデア」のようなものを、笠井は、舞踏で表現していた。万人がもっている美しさの共通理解を剥ぎとった後にでてくる<美そのもの>だ。

 このときも、音楽が重要な要素だった。麿赤兒が、バッハで天上から降臨したように、笠井叡は、ルー・リードの『ベルリン』というアルバムで踊った。ルー・リードの深く低い途切れがちの声のなかで、笠井は、おそろしく美しい天使の舞を披露してくれた。あれほどの美しさは、これまで見たことがない。笠井叡は、土方巽の初期の弟子ではあるが、あきらかに土方とは異なる道を独自に開拓してきた舞踏家だと思う。笠井叡については、この連載でも、きちんと考えたいと思っている。


暗黒舞踏と二人のミュージシャン


 ルー・リードの話がでたので、これも個人の完全な妄想で申し訳ないのだが、暗黒舞踏家的ミュージシャンを二人指摘しておきたい。デヴィッド・バーンとフランク・ザッパである。トーキング・ヘッズの『ストップ・メイキング・センス』という映画の「サイコ・キラー」という曲をうたうデヴィッド・バーンは、凄い。これを見たときは、ここに、土方に匹敵する天才がいる、と本当に思ったものだ。あの動きこそ、われわれの身体の真の動きだと思う。それに、ザッパの「ウォーターメロン・イン・イースター・ヘイ」の突然の笑い声。あれもまた、暗黒舞踏だ。「わかりやすい既成の秩序を、突然粉々にすること。不気味なものを唐突に前触れもなくゴロッと投げだすこと。その後、真の存在の次元を露呈させること」。これが、とりあえずの私の暗黒舞踏の定義だからだ。

 今回は、いい感じで妄想を書くことができた。妄想もまた、どちらかと言えば、暗黒舞踏側(?)だから、われわれの存在にとって、絶対に必要な要素であることはたしかなのである。

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